ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

蠣崎波響の初期の作風について ―画技の習得と建部凌岱―     

はじめに



蠣崎波響(宝暦十四年・一七六四~文政九年・一八二六)の初期の作品は、建部凌岱や宋紫石の作風の影響を強く受けて、細密な筆致と極彩色、そして緊張感ある構図をもつ南蘋風の作風を特色とする。しかし市場に出回っている多くは円山応挙の門に入ったとされる後期の四条派風の作品である。また、少なくない贋作の存在(1)によって、波響に対する評価が損なわれてきたことも否定できない(2)。たとえば、辻惟雄氏は一九九一年に開かれた「蠣崎波響とその時代」展図録の中で次のように述べている。

図版でみる限り、波響の遺品の中で大多数を占める四条円山派の作品は、「松前応挙」の誉れにかかわらず、南蘋派時代の数少ない作品にくらべ、おおむね緊張感やオリジナリティの点で物足りない。抱一の作品が往々にしてそうであったように、弟子の代筆が含まれているのかも知れない。とくに、梁川移封に際して資金捻出のため濫作したとすれば、当然それはあっただろう。(辻一九九一)

こうした評価に多少とも修正を加えるためには、可能な限り多くの初期作品を現存の有無にかかわらず改めて検討し、作風の形成過程を探りつつ、その特徴を明確にして評価する必要がある。また少なくない贋作や弟子による代作の問題も避けて通れぬ課題となろう。
本稿では、その第一段階として、まず波響(廣年)の生い立ちから画技の習得、そして建部凌岱との出会いまでの経緯を再検討する。あわせて近年確認された初期作品の紹介を通じて、あらたに注目すべき問題を指摘したい。
なお、本稿では「波響」の画号を記した最初の作品を確認できる寛政六年より前の時期については、原則として「廣年」の名で表記する(3)。

(一)生涯と代表作
蠣崎波響は、宝暦十四年(一七六四)五月二十六日、松前藩主第十二代松前資廣の五男として福山(松前)城内に生まれた(4)。名は廣年、字は世祜である(5)。翌年、家老蠣崎家の養子となる。松前藩随一の碩学といわれた叔父の松前廣長の教育を受けて成長した。早くから画才を表わしたと伝えられ、はじめ建部凌岱に画を学んだとされるが、後述のように最晩年の凌岱との具体的な接触の事実は確認されていない。
凌岱の死後は、江戸で南蘋派の絵師として活躍を始めていた宋紫石の門で本格的な画技を習得した。二十歳ころまでに松前に戻って藩務につき、松前を訪れた大原左金吾(呑響)と親交を結び、その後も交流を続けた。
寛政元年(一七八九)、東蝦夷地クナシリ・メナシ地方でアイヌと和人の間に衝突、いわゆる寛政蝦夷騒動が起こり、和人七十一名が殺害された。これに対し松前藩は鎮圧隊を派遣して三十七名のアイヌを処刑し、騒動を収束させた。波響はそのとき事態の収拾に功があったとされるアイヌ指導者十二名の肖像を藩命によって描き、翌寛政二年に完成させた。これが《夷酋列像》である(6)。
波響はこの列像を京都に運び、高山彦九郎らの協力を得て光格天皇の叡覧を受けた。列像に描かれた人物の異貌と精緻な表現は京中に大きな反響を呼んだ。波響はこの上洛の間に円山応挙や門人たちとの交友を通じてその平明で洒脱な画風を学び、作風に厚みを加えていった。波響はその後寛政六年、寛政十二年にも上洛してそのたびに皆川淇園、釈六如、菅茶山ら多くの文人墨客と交わった。
その後、松前藩は大原左金吾の著作などをきっかけにその北方経営を疑われるようになり、寛政十一年(一七九九)、幕府は東蝦夷地を松前藩から取りあげて直轄とした。さらに文化四年(一八〇七)には蝦夷全島を直轄とし、松前藩を陸奥梁川に転封した。家老となっていた波響は、若き藩主章広を助けて復領のために奔走するいっぽう、画作にも力を注ぎ、この時期に多くの優品をのこした。
藩は文政四年(一八二一)に復領を許され、松前に戻った波響は、隠居後も藩主に代わって江戸に赴くこともあったが、ようやく悠々自適の日々を得て、文政九年(一八二六)、六十三歳で歿した。(7)
波響の代表作としては、すでに挙げた《夷酋列像》(ブザンソン美術博物館、函館市中央図書館)のほか、次のようなものがある。
  《瀑布双鳩図》天明年間か(北海道立近代美術館)(図1)
  《柴垣群雀図》寛政八年(一七八六)(松前町郷土資料館)(図2)
  《釈迦涅槃図》文化八年(一八一一)((函館・高龍寺)
  《梁川八景図》文化九年(一八一二)((函館市中央図書館)
  《唐美人図》文化十一年(一八一四)( (市立函館博物館)
  《名鷹図》文化十二年(一八一五)(北海道立函館美術館)
  《瑞鶴祥雛図》文政九年(一八二六)(北海道立函館美術館)


(二) 蠣崎家の「嗣子」か「嗣孫」か
廣年(波響)が蠣崎家に入った経緯について、『北海道史 第一』(一九一八年)には「藩老蠣崎将監廣當の嗣孫となり其家を継ぎぬ」と簡潔に記すが、同書の編纂に携わった河野常吉(犀川)は、のちに「北鳴新報」に寄せた一文で次のように述べている。

波響は松前藩主若狭守資廣の弟なり、今を距ること百四十三年前、明和元年五月二十六日福山城内に生まる、同二年六月君命を以て藩老蠣崎将監廣武(一書廣當に作る今松前家記に拠る)の嫡孫となる(河野一九〇七)

  ここで「将監廣武」とあるのは「元右衛門廣武」の誤記と思われ、さらに河野自身が「今松前記に拠る」とするなら、「嗣孫」でなく「嗣子」でなくてはならない。河野は「北海道史」の附録として編集した「北海道人名字彙」(一九七九年刊行)ではこれを改めて「(明和)二年六月家臣蠣崎将監廣當の嗣孫となる」とした。
しかし、なぜ「廣武の嗣子」でなく「廣當の嗣孫」なのか。郷土史家の越崎宗一はここに疑問を抱いた。(越崎一九四四)すなわち、松前廣長自筆本『𦾔記抄録』(『松前町史・史料編』第三巻所収、以下「旧記抄録」)には、明和二年正月十四日に廣年(波響)を将監廣當の嫡孫とする君命が下り、六月十六日に「嫡孫」となったという記述がたしかにある。だが、新田千里編『松前家記 附録三』(『松前町史・史料編・第一巻』所収(以下「松前家記」)では、廣年は元右衛門廣武の「養子」となったことになっている。
越崎はこの食い違いについて、蠣崎啓次郎(8)の手記にある説明がそうした「定説」の根拠となっていたと推測する。すなわち、廣年は明和二年六月に廣武の養子となったが、幾何もなく廣武が死去したため、祖父廣當の嗣孫となって家督を継いだというものである。
しかし、この説明でも矛盾が生じると越崎は言う。廣武が死去したのは十年後の安永四年である。「幾何もなく」と言える年数ではない。しかもその二年前に廣當は他界している。蠣崎家の過去帳によれば、「五代将監廣當」は安永二年八月五日に六十七歳で死去、「六代元右衛門廣武」は安永四年十二月十六日に二十四歳で死去している。つまり、蠣崎啓次郎の手記のように「廣武が死去したため祖父廣當の嗣孫となった」という説は成り立たないのである。
そこで越崎は「廣武が生存中に廣年が嗣孫となって家督を継いだものとすれば、廣武という人は何らかの理由で廃嫡されたと考えなければならぬ」と、一歩踏み込んだ。そうであれば、「過去帳には六代元右衛門廣武とあって一度は家督を継いだ人であるから、廣武の嗣子説と合致する」というわけである。廣武が一度は家督を継ぎながら廃嫡された理由について越崎は何も述べていないが、生来病弱であったか、あるいは何らかの後天的な障害を持っていたなどの事情があったと考えられる。
ちなみに「旧記抄録」には廣當の死去により廣武が家督を継いだとする記述があるが、同書にはその五日前、廣當が病気のため退役し、その功労により廣年が西部木之子村を一代限り拝領したことも記されている(9)。家督は二十二歳の廣武に継がれても、蠣崎家のいわば「代表権」は十歳の廣年(波響)にあったことになる。
永田富智は、これらの件について、前述の『旧記抄録』の記事を引いて「蠣崎将監方の嫡孫として金介(廣年)を遣わさるべき旨の君命あり」(原漢文)とあることから、父資廣の命によって将監流蠣崎家の養嗣子となる事が決まっていたことを重視する(永田一九八八)。すなわち五代目将監廣當亡きあと六代目を継ぐべき元右衛門廣武は病弱で嗣子がなかったので、跡継ぎをスムーズに行うには藩主の命が必要であるが、このとき藩主資廣は余命幾ばくもないほど体調を崩していた。資廣の存命中に蠣崎家の跡継ぎを確実にする必要から、誕生日前の幼い金介を一刻も早く養嗣子とすることが求められていたのである。
以上、やや不自然に見える継承関係ではあるが、いずれにしても、廣年(波響)はこのあと「廣當の嗣孫」そして「廣武の嗣子」という立場を背負い、家禄五百石の蠣崎家の跡継ぎとして成長していくのである。


(三)画才の発揮、廣長の教育
波響の幼少年期から青年期にかけての動静はほとんど知られていない。わずかに安永二年(一七七三)、波響十歳のとき、曾祖父廣當の退役にあたり木之子村の一代支配を申しつけられたことは前述したが、これとて波響自身の行為の事跡とは言えない。
ただひとつ、これまで幾度となく語られてきた次のような「出来事」がある。

廣年は幼より画を好み八歳の時城内の馬場に於て馬術を練習するのを見て騎馬奔駞の状を描き、大人をして驚かしめたという。(越崎一九四四)

  廣年は幼少より画を好み、八歳の時、城内の馬場で馬術の練習を見て、騎馬奔駞の状を描き、見る者皆舌を捲いて驚いた。 (武内一九五四)

武内収太は市立函館博物館の初代館長で、戦後散佚しつつあった波響作品の調査と収集に努め、『松前波響遺墨集』の刊行を実現した。ほぼ同文と言えるこれら二者の文章は、おそらく河野常吉による次の記事を典拠としたものであろう。

波響幼にして頴悟、最も絵画を好む八歳のとき藩侯城内の馬場に於て馬術を練習す波響馬見所に在り忽然懐より紙を出し侯の騎馬奔騰馳駆の状を描く、見るもの驚嘆せざるなし、波響の画に於ける天稟と云ふべきなり(河野一九〇七)

管見の限りでは、明治以降の記録の中でこれが最も早い叙述である。河野によれば「馬術を練習」していたのは「藩侯」つまり兄の道廣だったことがわかる。しかし、これにも典拠は示されていない。波響に関する江戸期の文献にも、幼時の事跡に触れたものは知られていないので、河野はこれもおそらく前述した蠣崎啓次郎ほか三名の協力者(10)から伝え聞いたことを記したものと思われる。
また、波響末裔の蠣崎廣根は、祖父蠣崎敏から、八歳の波響が「懐紙に矢立の墨を小指の爪につけて、疾走する馬の様子をスケッチし」たという話を繰り返し聞かされたという。(蠣崎廣根一九九〇)
これらはいずれも伝聞の域を出ないが、波響が幼いころから画才を発揮したことを否定する資料もないので、ひとまずそのまま受容するとして、次の問題は本格的な画技の習得開始についての問題である。これについて、河野は伯父の松前廣長が最初の師であったとする。

波響稍稍長じ伯父松前廣長に従ひ其の教を受く。廣長は(中略)池大雅に就きて画を学び梅竹を善くす。廣長深く波響を愛し心を尽くして教育したれば波響は益々画に長じ又文学を善くするに至れり。(河野一九〇七)

松前廣長(一七三八~一八〇一)は、松前藩随一の碩学と言われた人で、藩の正史とされる『福山秘府』ほか多くの著書もあり、自作の画もいくつか知られている。波響にとってはおそらく最も信頼できる人生の師であった。その廣長が池大雅(一七二三~七六)とのつながりがあったとすれば、江戸においてもさまざまな絵師との交流があったであろうことは当然考えられる。そのなかで、宝暦十二年 (一七六二)には建部凌岱が「香道および国学の師匠として」江戸の松前藩邸に出入りしており(11)、さらには明和七年 (一七七〇)、廣長が進めていた松前道廣と花山院常雅の娘との婚約にあたっては、花山院の側近としての役目を果たしている。また後年のことではあるが、松前の廣長の邸に建部凌岱の画があったことも記録に見える(12)。
したがって、松前廣長は波響の画の師とまでは言えないとしても、ある程度の手ほどきはできたはずで、加えて波響を凌岱に引き合わせることができる立場にあったことも確かである。


(四)建部凌岱との出会い
建部凌岱(一七一九~七四)と蠣崎波響の師弟関係について、『画乗要略』はじめ近世の文献で言及したものはない。近代に入り最初にそれが現れるのは、管見の限りだが、これも河野常吉の前述の記事においてである。

波響廣長に従ひ江戸深川邸に在るや廣長又波響をして建凌岱に就きて学ばしむ。 (中略)波響が其の初東岱と称したるは之れによるなり。(河野一九〇七)

河野は、波響が凌岱に師事したのは伯父廣長のはからいによるとする。しかし、入門させたことを示す具体的根拠は示されていない。おそらくはこれも文末にある材料提供者から得た情報であろうが、後述のように松前藩と凌岱がもともと浅からぬ繋がりを持っていたことから、自明のこととしたのかもしれない。
河野のあとは、やはり前出の越崎、武内による叙述がつづく。両者はここでも河野の文章をほぼそのまま踏襲している

廣年の叔父松前廣長は、(中略) 悧巧で絵心のある少年廣年を愛して教育し、江戸に遣して建部凌岱に入門せしめた。廣年は幼にして凌岱に南蘋風の画を習ったが凌岱は安永三年武州熊谷駅で五十六歳で歿して居り明和元年生の廣年は年齢僅かに十一歳であったから、凌岱に受けた画は少年時代の手ほどきに過ぎなかった。凌岱に師事して彼は東岱と号した。」(越崎・前掲)

叔父廣長は、彼を江戸の藩邸に遣して、当時名声を馳せた建部凌岱の門に学ばせた。(中略) 少年廣年はこの優れた画人を師とし、凌岱の一字をとって東岱と号して、南蘋風の画法を学んだのである。建部凌岱は安永三年(一七七四)武州熊谷駅で五十六才をもって惜しくも病歿したが、当時廣年は十一才の年少であった。」(武内一九五四)

ただ、越崎の叙述には新たな一文が加わる。すなわち凌岱が旅先の熊谷で歿したとき、廣年はまだ十一歳であったという事実である。この年齢でどれだけのことが習得できるか、河野が触れなかったこの点を越崎は疑問視したのかもしれない。武内も、おそらく越崎の指摘に倣って同趣旨の一文を添えているが、こちらは必ずしも疑問視した表現ではない。
この凌岱と廣年(波響)の出会いについて、谷澤尚一は厳密な検討を加えた。そもそもなぜ廣長は江戸にいた多くの絵師たちの中から凌岱を選んだのか。谷澤は凌岱が宝暦十二年以降、はじめ香道の師として松前家に出入りしていたことを述べ、その行動を詳細に追跡しながら、彼が廣年と接触する可能性のあった時点を割り出した。(谷澤一九八五⑫~⑭)
まずは廣年の兄道廣(十三歳)が志摩守に任ぜられて初めて松前に向かう明和三年(一七六六)二月十六日の朝、凌岱は風邪気味の身体を厭わず発駕を見送ったという。しかし、このとき廣年はまだ三歳で「襁褓(むつき)の中に在る」。
次の機会は、明和七年(一七七〇)十一月、道廣(十七歳)が参勤すると、凌岱も十一月七日に江戸に着き、親しく対面した。このとき七歳の廣年は陪席するなどして凌岱に対面できた可能性があることになる。例の「城内の馬場で騎馬奔騰馳駆の状を描く」のは翌年のことであるが、このとき与えられた指導や助言によって画技が向上した結果であったのかもしれない。
この年の凌岱の江戸下向は、自らが側近を務める花山院家の娘敬子と松前藩の若き藩主となった道廣との婚約を滞りなく進めることが主要な任務であった。凌岱は江戸と京都を結ぶ慌ただしい日々を送り、その間に花山院の死去などもあったが、敬子の輿入れは無事に行われた。
そのあと安永二年まで、凌岱が廣年と出会う機会はなかったと谷澤は推定する。そして年末、旅先の桐生で体調を崩した凌岱は、翌年熊谷に移って療養するも病状好転せず、江戸に戻って間もなく三月十八日に歿した。この経過から考えて谷澤は、安永二年から三年にかけての期間に凌岱が廣年に直接画技を教授することは不可能であったと結論づけた。

従って、江戸における金助(廣年)の師事説が、もし誤りないとすれば、七歳の時、兄に扈従しての明和七年(一七七〇)冬しかないわけで、巷間伝えられている八歳以後の師事説は、全く根拠のないものである」。(谷澤一九八五・⑭)

凌岱と松前家が娘の婚姻の仲立ちまで関わるという深い関係を持っていたにもかかわらず、凌岱の出会いの機会は廣年七歳の時以外なかったことになる。十一歳での師事にも疑問を持っていた(と思われる)越崎、武内の両者にとっては、到底受け入れられる結論ではなかっただろう。
しかし、師との直接の対面が七歳という幼少時であったからといって、それでは師事したことにならないと簡単に結論づけることはできない。のちに谷澤は改めてこの間の経緯をあらためて述べた上、つぎのように言う。

金助(波響の幼名)には、伯父廣長、兄道廣から間接ではあるがある程度の知識が得られ、嫂敬子によって、長崎派といわれる凌岱の技法を聊かなりと会得できた筈である。最初の雅号(を)東岱とするのが、画風を慕ってのことと解しても撞着しない。すなわち手本とすべき画帳の数々は、殆どすべて刊行されており、容易に入手できたのである。(谷澤一九九〇、括弧内は引用者による)

谷澤はつづいて凌岱が次々刊行した画譜を列挙する。

宝暦十年成、同十二年刊、寒葉齋画譜五冊。(初版は二冊本)
明和八年刊 李用雲竹譜
明和七年成、安永元年刊、孟喬和漢雑画五冊。
安永元年成、同四年刊、建氏画苑三冊。 海錯譜一冊
安永八年刊 漢画指南二冊

これに「寒葉齋画譜」の別冊として明和元年に刊行された「百喜図」を加えると、凌岱が著した画法書の全てとなる。(13)
これらのうち『寒葉齋画譜』は、廣年が七歳の時すでに刊行されており、幼い廣年がそれらを見ながら独学で画技を習得することは、不可能とは言えない。しかも、その画譜が松前藩の文庫にも所蔵されていたと考えられる事実がある。浅利政俊によれば、高倉新一郎所蔵の「福山御文庫現在書目」は松前藩校徽典館の蔵書の一部をなすと考えられる資料である(浅利一九八四)が、そのなかに「寒葉齋画譜」の記載を確認することができる。ほかにも「芥子園画傳」「圖絵寳鑑」「佩文斎書画譜」なども所蔵されている。一般の藩士が日常的にこれらの書物に触れることが出来たかどうかは別として、藩重臣の家に育った廣年であればそれはたやすいことであったはずである。
また、兄道廣の正室敬子についても、谷澤は

画技を善くし、しかも凌岱直伝の画法を会得しており、それがかりそめの師とし      ての可能性を秘めていた。また、敬子に侍した(小磯)逸子も花山院家で教養を身につけたといわれる。(谷澤一九九〇、括弧内は引用者による)

とし、さらに、宝暦二年に藩主資広が凌岱の画を家臣に与えたこと、また前述した木村謙次『北行日録』に廣長の邸に凌岱の絵が掛けられていたことを付け加え、「凌岱の画は早くから松前に齎らされ、珍重されていたとみられる。」(谷澤一九九〇)としている。
永田富智も著書の中でこの問題をとりあげている。

彌次郎(廣年)が凌岱から絵を学んだとしても、七、八歳の数か月であったと考え  
られる。しかし、彌次郎が凌岱に師事後、氏の一字を採って東岱と号しているので、
く師弟の画業の接触はなかったとは考えられない。(中略)廣長と凌岱は以前から知  
温であって、その誼を通じて何らかの接触(作品添削などの通信)が行われていたか
もしれない。(永田一九八八)

こうした環境のもとで、少年廣年は当時の江戸で隆盛となりつつあった中国絵画の新しい傾向に触れながら、折に触れて伯父廣長から画の手ほどきを受け、徐々に技能を習得していったと想像される。彼を取り巻く環境は想像以上に画技の習得にふさわしいものであったことは疑いがなく、必ずしも専門画師に直接教えを乞う必要はなかったかもしれないのである。
ただ、初期作品に見られる雅号の「東岱」について言えば、師の名の一字をとって名乗るということは、たんに画譜を通して学ぶだけの師弟関係では許されないであろう。やはりそれは直接の対面によって初めて実現したのではないか。凌岱は、目の前にいる七歳の少年の画才を見抜いて、自らの一字を与えたと考えるべきであろう。そして、廣年はそのことを宋紫石の門下にあっても誇りとし、「東岱」の号を使い続けたのである。
 しかし、廣年が「東岱」の名をしばらくの間でも使い続けるには、やはり師の宋紫石の了解が必要だったのではないか。とすれば、凌岱は死ぬ前、自分の死後は宋紫石に就いて学ぶようにと廣年に伝えていた可能性が考えられる。越崎が「宋紫石に就いたのは凌岱の遺言によったものであるとも伝えられている」(越崎・前掲)とし、武内が同様に「廣年は、師の遺言によって (中略) 宋紫石に就いて南蘋派の業を続けた」としたのも、そうした判断によると思われる。しかし、実質的に遺言といえるような書簡や覚え書きの存在はこれまでに知られていない。
 凌岱が歿した十二年後の天明六年に、紫石も他界した。その四年後の寛政二年、、廣年は驚くべき精緻な技法と鮮やかな彩色による《夷酋列像》を完成させた。いったい、廣年はどのようにして周囲を驚愕させる超絶画技を身につけたのであろうか。


(五)波響の初期作品
 凌岱の作風の影響が見られるものを中心に、現在所在不明の作品を含むいくつかの初期の波響作品を検討する。なお、《東武画像》(天明三年)および《夷酋列像》(寛政二年)については、ここでは検討の対象としない(14)(15)。

 

《松瀑双鶴》絹本 款記「丁未仲春/冨春館京雨画」天明七年(一七八七)・所在不明 (図1)
 昭和十四年(一九三九)に函館で開かれた「松前波響遺作展覧会」に《松上の鶴》の題名で出品、同二十九年(一九五四)刊行の『松前波響遺墨集』に掲載された。いずれの時点でも所蔵先は北大図書館とあるが、現在は所在不明。
 図版での考察にとどまるが、南蘋派に多く見られる癖の強い樹法が特徴的である。

図1 蠣崎波響《松瀑双鶴図》(所在不明)

《雪景山水》絹本 款記「戊申初秋/毛夷國/冨春館/廣年画」天明八年(一七八八)(図2)
 緻密な樹法と皴法による幽玄な雰囲気の雪景であるが、昭和二九年(一九五四)刊行の『松前波響遺墨集』掲載以降、所在不明。
 「毛夷國」という款記を持つ作品は本図以外に知られていない。藩外の人物へ送ることを前提とした制作であったかもしれない。

図2 蠣崎波響《雪景山水図》(所在不明)

《懸泉幽居図》絹本墨画淡彩 款記「東岱画」・天明年間か・個人蔵(図3)
 波響初期の作品として早くから知られながら長く行方が知れず、近年ようやく所在があきらかになったもの。樹法や点苔などに凌岱画譜との共通点を見ることができる。

図3 蠣崎波響《懸泉幽居図》(個人蔵)

《蓮蛙図》絹本着色 署名「波響製」・松前町郷土資料館 (図4)
ごく最近存在が知られるようになった注目すべき作品。画面中央の蓮の葉の上に蛙が描かれ、上半身は枯れた蓮の葉の陰に隠れているが、反転した像が手前の水面に映るという特異な構図である。枯れた蓮と蛙を組みあわせた構図は凌岱『孟喬和漢雑画』巻之四に「秋水敗荷」があり、本図はそれを下敷きにしたとも考えられるが、今述べた主要部分は喜多川歌麿の『画本虫撰』中の一図「蛙・こがねむし」に酷似する。(16)同書は蔦屋重三郎が版元となり、歌麿が全十五図を描いた狂歌絵本で、尻焼猿人(酒井抱一)、四方赤良(太田南畝)ら著名人が狂歌を寄せている。
波響の兄池田頼完(よりさだ)は笹葉鈴成を名乗る狂歌師として知られ、『百千鳥狂歌合』などに歌を寄せているが、本書には登場していない。しかし、こうした人物を兄に持つ波響であれば、刊行後間をおかずに本書を入手したと考えても不思議ではない。本図にある水面の反転像は『画本虫撰』以外からの借用はあり得ないであろう。したがって、本図は同書刊行の天明八年(一七八八)から間もない時期の作であることが推定される。

図4の1 蠣崎波響《練蛙図》(松前町郷土資料館)

《鴨図》紙本着色 寛政六年(一七九四)落款「松前波響」広島県立歴史博物館 (図5)
 広島・福山藩の儒学者・漢詩人だった菅茶山の旧蔵品で、京都円山の雙林寺の書画会で出会った画人の絵を中心にまとめた画巻のうちの一図。画面いっぱいに描かれた鴨は、凌岱の画譜にそのままの形はないものの、共通する力強さを感じさせる。いっぽう、足元の酢漿草(かたばみ)の没骨による表現には、すでに円山四条派の影響を見ることができる。現時点で、「波響」の二字をふくむ署名を持つ最も早い作例である。「松前波響」としてある点をふくめ、制作地が京都であったことによるか。

《柴垣群雀図》絹本着色 署名「廣年」・寛政八年(一七九六)・松前町郷土資料館 (図6)

 早くから知られた作品。上部に太原呑響の賛がある。藩主章廣の師として招請された呑響は前年からこの年にかけて松前に滞在し、波響楼を宿所とした。しかしやがて前藩主道廣の言動に疑問を抱き、十月に松前を去る。本作品はその数ヶ月前に描かれたもので、柴垣の形状などに凌岱画譜との共通性が見られる。

図6 蠣崎波響《柴垣群雀図》(松前町郷土資料館)

《瀑布双鳩図》絹本着色 署名「東岱」・北海道立近代美術館 (図7)
宋紫石の《鯉花鳥図》三幅対の右幅を忠実に模写した作品で、師の作風に迫る精緻な筆遣いが見られる。天明年間の作と考えられる。すでに凌岱の門を離れ、新たな師である紫石の作品を模したにもかかわらず「東岱」の画号が用いられている点が注目される。

図7 蠣崎波響《瀑布双鳩図》(北海道立近代美術館)

図8 宋紫石《鯉花鳥三幅対》(所在不明)東京美術倶楽部1973年3月展観入札売立会目録




 以上を概観すれば、天明・寛政期の波響作品の多くに建部凌岱の影響が見られると同時に、波響は宋紫石が得意とした細密な筆致による克明な表現手法をこの間に身につけ、それだけでなく浮世絵作品にまで関心をひろげていたことが見て取れる。今後さらに検討の範囲を広げて、初期の波響作品の全体像を明らかにしていくことを課題としたい。

 

註:

(1) 波響の現存作品は、筆者が調査を始めた一九七七年以降これまでに約二〇〇点(花鳥=約一二〇点、人物=約五〇点、山水=約三〇点)を確認しているが、その間これらとは別に確認した贋作は少なくとも七〇点以上にのぼり(図版のみのものを含む)、その中には数年にわたって古書画目録に掲載されているものもある。

(2) 武内収太は、『松前波響遺墨集』の後記で次のように述べている。

「この(遺墨集刊行のための)調査により波響と称せられるものには、偽作の予                   想外に多く世間に流れていることが判明し、この為に波響の実力に比して世間の評の低い一原因をも知ることが出来ました。」

(3) 寛政六年より前に「波響」の画号を記した作品として、《東武画像》(天明三年・東京国立博物館)が知られているが、作風がこの時期の波響作品と大きく異なり、款記の文字にも問題点が指摘され、さらに他の「波響」落款作品との年代差が大きいことから、ここでは検討の対象から外すこととした。

(4) この年は六月二日に改元があり、以後「明和」となったので、明和元年生まれと表記する文献も少なくない。

(5) 波響の字「世祜」を「世祐」とする文献が散見される。すでに同時代の『淇園文集』写本に「源君世祐」なる表記があり、「祜」と「祐」の旁の草書体が酷似していることからの誤記と考えられる。明治以降も『扶桑画人伝』(古筆了仲一八九五)に「蛎崎氏名ハ廣年字ハ世祐波響ト号ス通称将監ト云フ」とあるほか、河野常吉も「世祐」としている(河野常吉一九〇七)。

(6) 《夷酋列像》についての主な文献は次の書物に詳しい。

 ・「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展図録(二〇一五年・北海道博物館)

 なお、二〇〇五~二〇〇八年には国立民族学博物館で「『夷酋列像』の文化人類学的研究」と題する共同研究(代表者 大塚和義)が行われ、筆者も参加した。

(7) 詳細は拙稿「蠣崎波響年譜稿」(『波響論集』所収・一九九一年・波響論集刊行会)

(8) 蠣崎啓次郎は河野の「北鳴新報」記事文末に協力者としてその名があり、永田富智(郷土史家、松前町史編集長)の覚え書きにも、準寄合格(四百十五石)の蠣崎家の家系図中に記載されている。

(9)「蝦夷拾遺」(天明六年)によると、当時の木之子村は戸数六十弱、人口百二十余であった。(『北海道史 第一』第三編第四十七章)

(10) 河野があげた三名は次のとおり。佐々木実、上条敬也、蠣崎啓次郎、西川順作。

(11) 谷澤尚一「夷酋列像図 成立とその周辺」⑩一九八五年六月六日・北海道新聞)

(12) 木村謙次『北行日録』寛政五年三月四日条に「老圃子ヨリ四ツ時来ルヘシト使来リ其隠居ヲ訪初テ謁見ス、正室ニ琴書堂ト云額アリ(鳥石書)床ニ琴鎧函矢筒アリ承塵ニ槍ヲ掛建凌岱カ画山水ノ掛幅アリ、酒ヲ賜鷹羹ヲ出サル、酒肴出テ後温飩ノ供アリ…」とある。

(13) 植松有希「建部凌岱の画業」(「建部凌岱展―その生涯、酔たるか醒たるか―」展図録所収・二〇二二年・板橋区立美術館)

(14) 《東武画像》に関しては、佐々木利和氏による詳しい論考(佐々木一九七七)があるが、氏が文中で指摘されているいくつかの疑問点とともに、この時期の他の波響作品との大きな相違点から見て、これを波響の真作と判断するにはより慎重な検討が必要と考える。

(15) 《夷酋列像》に関しては、近年、春木晶子氏による次のような一連の図像学的研究があり、新たな展開が期待されるが、画法や作風についての検討は依然として今後の課題であろう。

・春木晶子「《夷酋列像》―12人の『異容』と『威容』―」(「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展図録所収・二〇一五年・北海道博物館)

・春木晶子「《夷酋列像》と日月屏風―多重化する肖像とその意義―」(「美術史」186号掲載・二〇一九年・美術史学会)

(16) この事実は内山淳一氏のご教示による。