ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2003年 宮城県日本画のうごき

『宮城県芸術年鑑  平成15年度』(2003年3月・宮城県環境生活部生活・文化課)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。 

 昨年、「『日本画』は彷徨う」と題する一文の中で、現代の「日本画」が抱えている根元的な問題を指摘し、なぜ「日本画」を描くかを問い返してほしいと述べた。(『宮城 県芸術年鑑 平成14年度』(2003年3月・宮城 県環境生活部生活・文化課))

 その直後の2003年3月、〈転位する「日本画」〉と題するシンポジウムが横浜で開かれた。2日間にわたる報告と討論は、「朝日」「毎日」などの全国紙や「河北」でも取り上げられ、予想以上に大きな反響を呼んだようだ。私は残念ながら初日しか参加できなかったが、その後のいくつかの論評を含め、大いに学ぶべき点があった。

 しかし、私自身の昨年の主張を基本的に変更する必要は感じない。手短にくりかえせば、「日本画」を描く人たちは、なぜ「日本画」なのかを絶えず自身に問い返してほしいということ、「日本画家」こそ「日本画」によりかかってはならないということであった。

 

 まず、おもな全国規模公募展への県関係作家の入選は、次のとおりである。

 「第三十五回日展」入選者

 佐藤朱希 《秋陽 透る》

 七宮牧子 《刻》

 天笠慶子 《魅せられて育てて》 

 

「再興第八十八回院展」入選者

 小野恬(特待) 《惜春》

 大泉佐代子(初) 《望郷》

 伊藤英(初) 《春光》

 毛利洋子 《萌し》 

 

「第三十九回日春展」入選者

 天笠慶子 《アイリスに染まる》

 安藤瑠璃子 《春を待つ》

 佐藤朱希 《春の望むままに》

 七宮牧子 《暮れる》

 高瀬滋子 《もり》

 福田眞津子 《ナターシャーの春》

 松谷睦子 《小春》 

 なお、能島千明が日春展会員となった。

 

 

 東北最大規模の公募展「第六七回河北美術展」(四月二十五日~五月七日・藤崎本館)の「日本画」部門では、次の七名が入賞した。

 

 「河北賞」《いのちを守る為に》遠州千秋

 「宮城県知事賞」《道の向こう》佐々木順子

 「一力次郎賞」《シャモ》堤久美子

 「東北放送賞」《十一月の地》渡辺房枝

 「宮城県芸協賞」《紋》月舘圀夫

 「新人奨励賞」《女の子と女》早坂有可

 「東北電力賞」《悲》安藤瑠璃子

 

 早坂有可氏をのぞく六氏はいずれも宮城県出身者である。 

 遠州《いのちを守る為に》は、画面中央に二本のチューリップが横たわるだけの無駄のない構図が目をひいた。佐々木《道の向こう》は線描に徹して成功した。堤《シャモ》のこれほど強い赤は珍しい。シャモだから許される色なのだろう。渡辺《十一月の地》では田の畦を、月館《紋》では水面を、いずれも真上から見た構図が一見抽象的とも思える効果を生み出している。早坂《女の子と女》のデッサンと構成、細部への気配りは将来が楽しみだ。安藤《悲》の強烈な赤は、身体を寄せ合う男女の思いを伝えて余りある。

 賞候補として選ばれた作品にも注目すべきものがあった。多彩な手法と大胆な構成、そして謎めいた題を得意とする阿部悦子《貝》、単なる装飾を超えた構成の妙が冴える梅森さえ子《マーガレットの詩》、水辺の紅葉を淡色で仕上げて成功した佐々木玲子《煌奏》、など、相変わらず女性が圧倒的だが、能島千明《猫と》に見られる猫と首をかしげた人物のかたちの対比は面白く、金沢光策《無人島》の幻想的風景も捨てがたいものがあった。昨年河北賞を受賞した高瀬滋子の独特の空間意識は、今年の作品には見られなかった。 

 

 第四十回宮城県芸術祭絵画展(十月三~十五日・せんだいメディアテーク)では、次のように「日本画」部門の受賞者が決まった。

 

  県芸術祭賞 宮沢早苗《時》

 県知事賞 佐々木啓子《Eternal Season 4》

 仙台市長賞 三浦ひろみ《花03-13 Germinal  Fear》

 河北新報社賞 毛利洋子《兆し》

 県美術館賞 千葉勇作《月天心―政宗想う》

 成瀬美術記念館賞 松谷睦子《秋立つ》 

 

 宮沢は、自身も一緒に網繕いをしているような光景を、絵の具の盛り上げを多用して丹念に作り上げた。佐々木の作品は松(?)の花と枯れススキとの対比が見事であった。三浦の水墨表現はスピード感のある筆さばきによって効果をあげている。毛利は複雑な枝ぶりの樹木表現に挑戦しているが、今回は細枝にとらわれすぎて太枝が埋もれた感がある。線やかたちの面白さは、その仕組みを理解していないと空虚な図形に堕する危険を孕んでいる。千葉の画面は、襖絵のような松島の景観を背景に独特の表現で伊達政宗を描く。松谷の画面で不揃いに見える輪郭線は、意図的なものだろうか。 

 

 グループ展に移ろう。

 畑井美枝子の「日本画」サークル「実生会」の第十六回作品展(六月二〇~二五日・せんだいメディアテーク)には、総計五十一点(目録では五十四点)が出品された。岩佐安子《冬樹》深緑の中に白く浮かぶ大樹の幻想的な姿。小川品子《明日への望み》は、関根正二を思わせるひたむきな表現がタイトルの陳腐さを救っている。黒田文子《侑香と侑美》の向かい合って笑う二人の少女の楽しそうな表情、ポーズも自然でよい。後藤とし子《散歩》は茶髪の現代的な娘と犬。突き出した顎に性格が表れ、後ろの犬との対照もおもしろい。佐藤松子《黍籠》はトウキビを入れた籠を持つ少女。黄橙色系で季節感を出し、珊瑚(?)の髪飾りも効果的。菅井粂子《厨にて(祖母93歳)》では、割烹着の後ろ姿に作者の想いが託されている。吉田三千子《小憩》は仕事の疲れを癒すひととき。線描で表したパソコンがすべてを語る。無駄のない構成。

 これらのほか、武田睦子《憩う》、上地静枝《潮騒》、梅森さえ子《時の色》、加藤淳子《風に遊ぶ》、草刈はな《湿原の彩り》、西村彰子《春愁(唐三彩)》などが印象に残った。

 元会員では、大泉佐代子《終わる春》の大作が目を引いた。池と対岸の樹木を緻密に描き、わずかな桜が題意を強調する。佐藤朱希《風と》、高倉勝子《春》、小野恬《ふたつ》も各々豊かな表現を見せていた。

 墨葉社の「第二十四回墨画展」(五月三十日~六月四日・せんだいメディアテーク)は、主宰者の大羽比羅夫(二〇〇二年十一月没)を追悼する場となり、大羽の遺作三点、大羽貞子特別出品一点、奥山佳雪らの百四十点が一堂に並んだ。

 高倉勝子の主宰する「第二十二回墨彩会水墨画展」(九月五日~十日・せんだいメディアテーク)は、二十人が四十九点を出品、作者の想いがそれぞれ素直に表出された詩情豊かな展観であった。齋藤たま《若葉風》湖面をわたる風《緑陰に憩う》公園の母子像。にじみを生かした画面。新井田峰雪《霧の晴れ間から》ほか広大な空間表現。細部に神経行き届く。深堀水聲《Brotherhood》ユニークな発想と文人風素朴表現が融合。主宰・高倉勝子:《弓弭の泉》《北上の流れ幻想》奥羽をめぐる蝦夷と朝廷の攻防と盛衰の歴史を文書と絵でつづる力作。

 このほか、「第三回浅葱会日本画展」(六月十七日~二十二日・東北電力グリーンプラザ)、「第二十二回墨泉会水墨画展」(九月五~十日・せんだいメディアテーク)、「遊美会」(七月・東北電力グリーンプラザ)などで、いずれも真摯に取り組んだ作品が見られた。

 

 個人レベルの展観では、櫻田勝子が二度にわたる個展(四月十三~二十五日・晩翠画廊、七月八~一七日・藤田喬平ガラス美術館)を開催した。京都の桜と東北のブナという一見対照的な題材が、自然の生命力への畏敬という作者の姿勢によって統一されている。また主宰する「日本画」教室の受講生作品展(十一月十八~二十四日・東北電力グリーンプラザ)には力作が並んだ。今後自らの作風の幅を広げることによって受講生の多彩な成長を期待したい。

 金沢光策個展(六月三~八日・晩翠画廊)も見応えある展観であった。「日本画」の画材を油彩画のように自由に使いこなして創られる重厚な画面は、見る者の襟を正すような風格を持っている。

 このほか、「高橋睦 日本画作品展](六月一~八日・一番町画廊)などは見ることができたが、仕事の都合で見逃してしまったものも多い。また、中国の画家による「日本画」展という、不思議な展観が目立った年でもあった。 

 

 美術館・博物館等で開催された展観にもひとこと触れておきたい。

 宮城県図書館蔵の生物図鑑『禽譜・観文禽譜』『魚蟲譜』が、同館で「宮城の至宝展」として公開された(二月十一日~三月二十八日)。一月に県指定有形文化財(書籍)の指定を受けたもので、美術的にも価値が高い。だが、最初で最後の公開と騒がれたにしては説明が少なく、誤りも散見され、物足りなさが残った。今後は研究者・作家や学生に対する特別観覧等の配慮が望まれる。

 

 最後に二つの展覧会の名称だけあげて、これらの企画への努力に敬意を表したい。

○「生誕百年記念展 棟方志功―わだばゴッホになる」(四月五日~六月十五日・宮城県美術館)

○「伊達家の茶の湯」(四月十八日~五月二十五日・仙台市博物館)