ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

宮城の日本画

2012年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 東日本大震災からまる二年になろうというのに、津波の傷跡は消えず、原発事故後の危険な状態はむしろ悪化しているように思える。もはや東北の地にあってこれらの現実に目をつぶって生きていくことは不可能であろう。 何気ない日常の風景が限りな…

2011年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 東日本大震災についての具体的な叙述は最小限に留めて、2011年の県内日本画の動きを振り返ろう。 震災は創作に携わる作家たちと作品を享受する鑑賞者たちの生命と生活を脅かした。絵を描くどころの騒ぎではなく、絵を見る心の余裕などどこにもな…

2010年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 2010年は酷暑と混迷の一年であった。記録破りの暑さで筆者の貧弱な頭脳労働は瀕死状態に陥り、政権交代で生まれた民主党政権もまた鳩山内閣の総辞職後、ほとんど瀕死状態にある。巨大な財政赤字のもとで、美術館や博物館の予算は削られて、ここ…

2009年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 「政権交代」がキーワードとなった二〇〇九年、宮城県内日本画の世界にはどんな変化がもたらされただろうか。結論を出すにはもちろんまだ早いが、敢えて言うなら、一進一退、次代を担う新星いまだ見えず、といったところか。急速な支持率低下を…

2008年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 「百年に一度」かどうかはともかく、デフレと不況のつづく世の中で、「芸術」は確実に冷飯を食わされている。国内の美術館は軒並み入場者の減少、収入の落ち込み、人員削減、予算凍結などによる打撃を蒙っている。首相の好きなマンガだけは別扱…

2007年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 2007年の宮城県日本画界にとって特筆すべき出来事は、飯川竹彦のドイツでの作品展と、能島和明の大規模な回顧展であろう。 「絹に描く日本画―飯川竹彦の世界」(四月四日~五月二十八日)は、ドイツ・ドレスデン国立民族学博物館(日本宮殿内)で…

2006年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 2006年の美術界を揺るがした最大の事件は、いわゆる「和田義彦事件」であった。芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した和田義彦の受賞対象作品がイタリアのある画家の作品からの盗作である疑いが強まり、授賞が取り消しとなった。私は和田の作品もイ…

2005年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 このテーマで書き始めて五年目を迎える。まだ県内日本画の全貌を見渡すほどの知見はなく、他県と比較する材料はさらに乏しく、況わんや東京・京都の動きを一瞥した程度では、それらと比較して本県の日本画の特質を論じることなど不可能である。…

2004年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 2004年の県内日本画をめぐる動きを述べる前に、畑井美枝子の逝去を取りあげなくてはならない。 十二月一日、突然の訃報であった。享年八十八歳。一九一六(大正五年仙台に生まれ、三五年(昭和一〇)年に宮城県女子専門学校を卒業、まもなく畑井…

2003年 宮城県日本画のうごき

『宮城県芸術年鑑 平成15年度』(2003年3月・宮城県環境生活部生活・文化課)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。 昨年、「『日本画』は彷徨う」と題する一文の中で、現代の「日本画」が抱えている根元的な…

「日本画」は彷徨う

井上 研一郎 はじめに 「日本は疲れています。日本は自信をなくしています。日本人は彷徨い続けています。」という書き出しで始まった2002年の文化審議会の中間答申序文は、最終答申では素っ気ない文章の「まえがき」のさらに前の落ち着かないところに掲げら…

2002年 宮城県日本画のうごき

井上 研一郎 「日本画」という「ジャンル」が本当に意味を持つのか、今年も悩みながらの執筆である。本号では「二十一世紀を拓く」と題して特集が組まれることになり、従来の「ジャンル」区分に従って「日本画」がトップバッターになった。この問題について…

2001年 宮城県内日本画のうごき

井上 研一郎 芸術は戦争の前に無力か 二〇〇一年という年は、二十一世紀最初の年としてよりも、同時多発テロの起こった年としておそらく世界史に残るだろう。テロの直後、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と叫び、報復攻撃が始まった。議会はただ一人の議員…