ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

追憶の風景 ―蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》をめぐって―

                             井上 研一郎

  一 茶山と波響―巨椋池の記憶

  二 《月下巨椋湖舟遊図》の概要

  三 巨椋池の歴史―変遷と記録

  四 巨椋池の風物と景観

  五 画面の検討―「実景」との比較

  六 失われた景観―終章に代えて

  おわび

 

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 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》1818(文政元) 広島県立歴史博物館

 

一 茶山と波響―巨椋池の記憶

 

寛政六年の宴

文化十五(文政元・一八一八)年三月二十日、福山藩の儒者菅茶山(かんちゃざん)(一七四八~一八二七)は、奈良から伏見へ向かう道中、洛南の巨椋池(おぐらいけ)に立ち寄った。その日の日記に、茶山はこう記している。

 巨椋はむかし六如上人・伴蒿蹊などと、中秋に舟を浮かべし処なれば、なつかしく て巨椋にむかふ。汀洲柳多く妙甚し。(『大和行日記』)

 茶山が「なつかしく」感じた「むかし」のできごととは、二十四年前の寛政六(一七九四)年、中秋のことである。茶山はその夜、朋友の六如(りくにょ)上人、伴蒿蹊(ばんこうけい)らとともに、巨椋池に船を浮かべて月を賞しつつ遊んだ。それは、間もなく故郷に帰ろうとする松前藩主の子蠣崎波響(かきざきはきょう)との惜別の宴でもあった。

 蠣崎波響(一七六四~一八二六)は寛政六年の七月に藩命(註1)を帯びて上洛し、その月のうちに茶山と初めて会って懇意となった。首尾よく公務を果たした後、波響は京都の円山の酒亭華洛庵(東山第一楼)(註2)に別離の宴を催したが、さらに二日後の八月十五日、今度は巨椋池で、茶山ら上洛中に知己となった文人たちとの別れを惜しんだのである。この夜集ったのは波響、茶山のほか、大原左金吾、橘南谿、六如上人、伴蒿蹊、米谷金城、松本孟執の八人であった。彼らはまず宇治川に架かる豊後橋のたもとの東駅楼に会し、次いで巨椋池に舟を浮かべて月を眺めながら詩を詠み、酒を酌み交わし、北辺の地に帰る「蠣崎公子」すなわち波響への餞(はなむけ)とした(註3)。このとき茶山は次のような七絶三首を詠んだ。(『黄葉夕陽村舎詩・巻四』)

 中秋與六如上人蠣崎公子伴蒿蹊橘恵風大原雲卿同泛舟椋湖三首  

  中秋(ちゅうしゅう) 六如上人(りくにょしょうにん) 蠣崎公子(かきざきこうし)   伴蒿蹊(ばんこうけい) 橘恵風(たちばなけいふう) 大原雲卿(おおはらうんきょう)  とともに同じく舟を椋湖(りょうこ)に泛(うか)べる三首

 

 洛陽三五夜如何   洛陽 三五の夜如何(いかん)

 南巷吹笙北巷歌   南巷は笙を吹き 北巷は歌う

 別有江湖鴎鷺社   別に江湖鴎鷺(こうこおうろ)の社(やしろ)有り

 方舟容與入金波   方舟 容与(ようよ)として金波に入る

 

 宿鶩驚飛人影内   宿鶩(しゅくぼく) 驚きて飛ぶ 人影の内

 跳魚誤入酒杯間   跳魚(ちょうぎょ) 誤って入る 酒杯の間

 更尋勝事移軽棹   更に勝事を尋ねて軽棹(けいとう)を移す

 蘋葉蘆花灣又灣   蘋葉(ひんよう) 蘆花 湾又た湾

 

 月到天心舟泖心   月天心に到り 舟は泖心(ぼうしん)

 泖心水與賞情深   泖心(ぼうしん)の水は賞情とともに深し

 今宵絶唱休公句   今宵の絶唱 休公の句

 無奈明年各處唫   奈(いかん)ともする無し 明年 各処に唫(ぎん)ずるを

 

  第一首では都の喧噪を離れて月光輝く巨椋池の水面にゆるやかに(容与)舟を乗り入れたことをのべ、第二首では鴨(鶩)や魚を驚かせながら舟が葦の葉の間をくぐり抜けていく光景を描き、第三首では月が中天に達したので舟も池の中心(泖心)に留めて皆で月を賞したさまを歌っている(富士川英郎による読み下しと解釈を参照)。

 茶山はその後文化元(一八〇四)年に江戸で波響に再会した。このときは伊澤蘭軒、犬塚印南らとともに隅田川に舟を浮かべて花火見物をしている(註4)。だがこの舟遊の後、茶山と波響は再び顔を合わせることはなかった。そもそもこの時代、蝦夷松前の藩主の子と備後神辺の儒者が京で出会い、江戸で再会したこと自体が奇跡的な出来事だったといってもよい。茶山自身、初めて波響と会った当時から二人の出逢いを「萍水(へすい)の会」すなわち浮き草と水とが出会うような他郷での邂逅と考えていた(註5)。このあと茶山は福山藩の江戸詰め藩医であった伊澤蘭軒を通じて波響の消息を何度も尋ねたが果たせず(註6)、再び江戸を訪れた文化十一(一八一四)年、ようやく十年ぶりに音信だけを交わすことができ。このとき松前藩は奥州梁川に移封されており、家老となっていた波響は復領工作のためたびたび江戸を訪れていたものの、茶山の江戸滞在中にはついに会う機会がなかったのである。

 

文化十五年の巨椋池再訪

 さて、巨椋池のそばまで来たとき、茶山の脳裡には四半世紀前の仲秋の宴の様子が懐かしくよみがえったにちがいない。このとき詠んだ七絶は『黄葉夕陽村舎詩』後編に収められている。(『黄葉夕陽村舎詩・後編巻八』所収。訓読は「新日本古典文学大系」による。)

  伏水道中  伏水(ふしみ)の道中

   寛政甲寅中秋六如上人蠣崎公子伴蒿蹊橘恵風原雲卿米子虎松孟執及余、八人泛舟于椋湖

     寛政甲寅中秋(かんせいきのえとらちゅうしゅう) 六如上人(りくにょしょうにん) 蠣崎公子(かきざきこうし) 伴蒿蹊(ばんこうけい) 橘恵風(たちばなけいふう) 原雲卿(はらうんけい) 米子虎(べいしこ) 松孟執(しょうもうしつ)及び余八人舟を椋湖(りょうこ)に泛(うか)ぶ

 巨椋湖辺感昔遊   巨椋湖辺(おぐらこへん) 昔遊(せきゆう)を感ず。

 回頭二十五年秋   頭(こうべ)を回(めぐ)らす二十五年の秋。

 汀前依旧楊柳多   汀前(ていぜん)旧に依(より)て楊柳多し。

 何樹曾維賞月舟   何(いず)れの樹 曾(かつ)て維(つな)ぐ月を賞するの舟。

 波響との別れを惜しんだ二十四年前(註7)と変わらぬ湖辺の景色に、茶山は感無量であったにちがいない。水辺に生えた柳の樹々も昔のままであった。月を眺めるために友と一緒に乗った舟を繋いだのは、どの辺りの樹であったか…。

 さらに、茶山は詩を詠んだだけでは満足できず、その光景を一幅の絵に描き留めることを思いつく(註8)。絵筆を執ったのは、言うまでもなく蠣崎波響であった。ほどなく絵は完成して茶山のもとに送り届けられる。《月下巨椋湖舟遊図》は、こうして誕生した。現在、作品は広島県立歴史博物館に黄葉夕陽文庫中の一点として所蔵されている。

 

 

二 《月下巨椋湖舟遊図》の概要

 

 《月下巨椋湖舟遊図》一幅[図1]は、本紙部分の寸法が縦三七・一㎝、横一〇六・五㎝という横長の作品である(註9)。絹本墨画に淡彩が施されるが、画面はやや褐変しており、また巻き皺かと思われる浮きが見られ、表装も傷みが目立つことから、少なくとも近年になってから表具は改められたことはないと思われる。

 画面は、宇治川と巨椋池の景観を横長の画面に俯瞰的に描くが、構図は伝統的というよりむしろ西洋的な透視遠近法に近い。まず近景いっぱいに広がる大きな川の流れが描かれる。川幅の違いから川の流れは画面左奥から発し、正面を経て右方へと向かっていることが分かる。画面中央に架かる大きな橋をすぎると川は大きく幅を広げ、右方には中州のように見える陸地が描かれている。この陸地と手前の岸との間には小さな橋が架かっている。

 中央の大きな橋は欄干のついた立派な造りで、中央が高く弓なりに反った形をしている。川の両岸には家々が立ち並ぶ。手前の家々はほとんど屋根しか見えないが、少なくとも二十軒余りが密集している。対岸の家々は十軒余り、いずれも間口を広くとった店らしい造りが橋に続く往来をはさんで並ぶ。周囲には木立が、その背後には薄く青ずんだ水面が描かれている。水面の中央を左右に分けるように、曲がりくねった土手道が画面左奥に向かって延びる[図2]。

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 土手道の右手水面には二艘の小舟が浮かぶ。その先、画面右端に近い中空に薄墨で外隈を施した満月が描かれる[図3]。

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 大きな橋に戻ると、その左方すなわち上流側には川に沿って土手が築かれ、その右手には水田が広がっている。靄を隔てた遠景にはなだらかな山々が連なり、左半部の山には「へ」の字を連ねたような波響独特の皴法が施されている[図4]。

 

 画面全体の構図は、手前の川の緩いU字型カーブと遠景の山並みによって他の波響作品には見られない広大な空間を生んでいるが、橋の小さな山形カーブや土手道などのジグザグ線、散在する木立の塊など細かい要素も点在していて、一見複雑な印象を与える。

 本図の筆致および作風は、文化九年(一八一二)に描かれた《梁川八景図》(註10)のそれにきわめて近い。全体としては淡墨を生かした四条派風の山水表現が優勢だが、《梁川八景図》の第一景「城中真景」と同様、特定の細部へのこだわりが随所に見られる。これは本図が真景図としての要素を持っていることを示唆するものと言えよう。

 画面右端に金泥による次のような款記がある[図5]。

 

  寛政甲寅中秋巨椋湖舟遊図

  文政新元戊寅壱冬為

  福山文学茶山老先生

  波響樵 印① 印②     (印①「広年世祜」白文方印、印②「波響」白文方印)

 「寛政甲寅中秋」は寛政六年(一七九四)八月、「文政新元壱冬」は文政元年(一八一八)十月である。「文学」は藩の儒者の意、「茶山老先生」はいうまでもなく菅茶山である。したがって、本図は寛政六年八月十五日に京都の巨椋池で行われた舟遊の光景を、二十四年後の文政元年十月になって、福山藩儒の茶山のために波響が回想しつつ描いたものであることが知られる。茶山はこの年七十一歳、波響は五十五歳であった。

 本図は、一九九三年に菅家から同館に寄託された「黄葉夕陽文庫」中の一点として、「菅茶山とその世界」展(一九九五年)に初めて出品された。したがって、その来歴に疑問の余地はない。

 また、本図は波響としては珍しい大画面の山水画である。波響の作品中、横幅が100cmを越えるものは絵巻や屏風仕立ての作品を除くと極めて少なく、縦横比で見ると最も横長の作品と考えられる。

 さらに本図は後述するようにいくつかの細部にこだわった表現をもつ点で注目に値し、波響の数少ない真筆の山水図としてもきわめて貴重な一点ということができる。本稿では、本図に託された作者らの意図を具体的に明らかにしていきたい。その前に、巨椋池について概観しておこう。 

 

 

三 巨椋池の歴史―変遷と記録

 

平安京と巨椋池

 巨椋池は、かつて京都盆地の中央部の最低地にあった広大な池で、当時は宇治川、木津川、桂川、山科川など大阪湾に注ぐ河川の大部分がここに合流していた。

 巨椋池の存在は、平安京の立地にとって重要な意味を持っていたとされる。古代中国においては、都を定めるにあたって「四神相応(しじんそうおう)」の地が選ばれた。それは、東に流水が走り、西に大道が通じ、北に丘陵がそびえ、南に池沼または低地が広がるところであって、それぞれの方角は青龍、白虎、玄武、朱雀の四神によって守られると考えられたのである。平安京となった山城の地は、北のみならず東西にも山が連なる盆地であり、その東端を鴨川が南に向かって流れ、西には出雲方面への交通路が古くから通じている。そして、南に広がる池沼が他ならぬ巨椋池であった[図6]。

 

秀吉による改修

 巨椋池に沿った一帯は、京都と大坂および奈良方面を結ぶ交通の要衝としても栄えた。豊臣秀吉がここに伏見城を築いたのも、戦略拠点としてのこの地の重要性を見抜いていたからに他ならない。

 秀吉は伏見城築城にあたって堤防(槙島堤あるいは宇治堤)を築いて池から宇治川を分離させ、池の東端を縦断する堤(巨椋堤あるいは太閤堤)を築いて宇治を通らずに奈良方面へ通じる道を開いた。そのため池は土砂の堆積によって次第に規模が縮まっていったが、それでもなお江戸期には鯉や鮒などの良質な漁場として栄えたほか、葭や蓮根、菱などの水生野菜の産地としても重要であった。また、植生が多彩で魚類や水禽なども多く棲息していたため、文人たちは風光豊かなこの地を好んだという。

 

近代の改修と干拓

 しかし、明治以降周辺地域の開発にともなって、巨椋池はその存在価値を急速に失っていく。逆に、たび重なる水害によって根本的な治水の必要性が高まり、一八九七(明治三〇)年から一九一〇(明治四三)年にかけて大規模な河川改修工事が次々と行われた。これによって巨椋池はほぼ完全に周囲の河川と分離され、汚泥の堆積と水質の悪化が進行した。漁獲量の低下に加えて従来からあったマラリアの発生など環境の悪化から、この地の干拓を望む声が強まったが、膨大な工事費用が予想されることから、実現には至らなかった。

 ところが、一九一八(大正七)年の米騒動を契機に食糧増産が国家的課題となり、翌年開墾助成法が発布された。これに基づく事業として、巨椋池干拓事業が一九三三(昭和八)年から八年間にわたって行なわれた結果、約六四〇ヘクタールの水田が生まれた。

 戦後の干拓地には高層住宅や工場も建ち始め、近鉄線や京滋バイパスが貫通して都市化が急速にすすんでいるが、僅かに観月橋南詰付近、西目川付近、および三軒屋付近などに往時の面影を留めている(註11)。

 

 

四 巨椋池の風物と景観

 

巨椋池の風物

 巨椋池は広大な湿地帯でありながら、前述のように交通の要衝でもあり、周辺には古くから伏見、淀などの町が発達していた。蓮や月を愛でる文人たちにとっては、京の街中からさほど遠くないこの地は格好の行楽地だったようにも思われる。しかし、文学作品のなかに巨椋池が登場する例はそれほど多くない。西田直二郎によれば、『万葉集』中にある次の歌が初出であるという(註12)。

  巨椋(おおくら)の入り江響(とよ)むなり射部(いめ)びとの伏見が田井に鴈渡るらし                                (万葉集巻九)

 次いで平安期の歌としては、次の歌が紹介されている。

  おほくらの入江の月の跡にまた光残して螢飛ぶなり(詠千首和歌)

 この他にも、三首が紹介されている。

  おほくらの入江さやかにとぶ螢その一むらに船をやらばや(草茎集)

  ねたきわかをくらの里に宿りして紅葉の色をよそにきくかな(小大君集)

  春なれば花の都へう□□□にをくらの里は霞へたてつ(康資王母集)

 

 宇治が「網代(あじろ)」、「紅葉(もみじ)」、「柴舟(しばふね)」あるいは「水車」などの風物と結びついてしばしば詠われ、歌枕として確立したのに対し、巨椋池についてはそうした顕著な現象を見出せない。だが、宇治から淀にいたる広大な水郷地帯の全体が豊かな自然環境を形成していたことは疑いなく、右に引いた例のように「蛍」や「月」などの風物が巨椋池と結びついていたことが想像される。

 近世以降も巨椋池を取りあげた詩文はあまり多くないと思われるが、西田直二郎によると巨椋池周辺ではしばしば吟行が催されたという(註13)。いくつかの資料から推察すると、近世に入ってからの巨椋池の風物はもっぱら「蓮」と「月」であった。当時の旅行案内や絵図のなかにも、たとえば「小椋の池、蓮の花盛絶景なり」(註14)といった記述が見られる。

 

巨椋池の景観

 「蓮」と「月」を風物とした巨椋池の当時の景観はどのようなものだったのだろうか。江戸末期の藤井竹外(一八〇七~六六)は、次のような漢詩を詠んでいる。(『竹外二十八字詩』・安政五年刊・所収。読み下しは『新日本古典文学大系』による。)

 

  巨椋湖 巨椋湖(おぐらこ)

 半汀微雨未収糸   半汀(はんてい)の微雨未(いま)だ糸を収めず

 紅藕花蔵白鷺鷀   紅藕(こうぐう)花は蔵(ぞう)す白鷺鷀(はくろし)

 一幅分明誰筆意   一幅分明(いっぷくぶんめい)なり誰が筆意ぞ

 黄筌不見見徐煕   黄筌(こうせん)を見ず徐煕(じょき)を見る 

 

「未だ糸を収めず」とはまだ細かい雨脚があがっていないこと。「紅藕(こうぐう)」云々は紅蓮が花の陰に白鷺を隠しているの意。黄筌は宋の画家、徐煕は南唐の画家で、「黄家富貴」「徐煕野逸」と評され、対照的な画風をもって中国花鳥画の二大潮流を形成したとされるが、その具体的な作風については種々の論がある(註15)。ここでは雨に濡れる蓮の花の風情が正統的・伝統的な黄筌の絵ではなく、野趣に富んだ徐煕の画趣に相応しいというほどの意味に解しておく。言い換えれば、「白砂青松」的に水陸の区別が截然とした絵のような景観ではなく、葭や蓮など雑多な植物が生い繁る茫洋とした湿地風景であったということかも知れない(註16)。

 

巨椋池と美術

 絵画の世界に目を移すと、巨椋池の景観を描いた作品はほとんど知られていない。平安期までの絵画史料を網羅した家永三郎氏の『上代倭絵全史』にも全く記述がなく、中世の和歌史料等についても管見による限り名所絵の画題としての「巨椋池」は見出せない(註17)

 いっぽう、巨椋池に近い「宇治」は前に述べたように歌枕として定着し、絵画においても紅葉や網代などによって直ちにそれと分かるように描かれていたと考えられる(註18)。中世以降は柳、蛇籠、水車などを構成要素とする「柳橋水車図」の成立など様々な形で絵画化された。また宇治川の流れも下流の淀川と併せてしばしばモチーフとして取り上げられている。

 これに対して、「巨椋池」が画家たちの関心を引くことはほとんどなかったように思われる。ただし、近代に入ってから巨椋池を描いた作例が『巨椋池干拓誌』に口絵として掲載されている。宇田荻邨筆《巨椋池》および近藤浩一路筆《巨椋浅春》(大正十三年)の二点であるが、図版で見る限りいずれも巨椋池全体の景観を描いたものではない。荻邨の作は池に浮かぶ蓮の花を近景に大きく捉え、背景に飛翔する白鷺を配したもの。「蓮」が巨椋池を想起させるモチーフとして選ばれたことが分かる。いっぽう浩一路の作は沼地の水辺に数人の漁夫と思われる人物の姿をやや離れた距離から描く。遠景は霞んで見えない。ここでは魚や水草を採る漁夫たちの姿が巨椋池の標識になっていると考えられる(註19)。

 

絵図等に見る巨椋池

 名所絵の画題にはならなかった巨椋池も、京都周辺の絵図等のなかでは当然ながら無視されることなく描かれている。正徳元(一七一一)年刊行の『山城名勝志』巻第十六の「紀伊郡部」および巻第十八の「久世郡部」に巨椋池にかんする記述が見られる。両郡の地図にも「大池」の名が見え、とくに久世郡の地図では「大池」のほかに小倉堤の東側にある「池」もはっきりと描かれているが、池の形をはじめ地形的な正確さは望めない[図7]。

 京都郊外の景観を描いた「洛外図」にも巨椋池があらわされたものがあるが、その形はやはり明確でない。中井基次氏所蔵の《洛外図》八曲一双(十七世紀後半)では、右隻第一扇に大きくカーブする宇治川、その内側(南方)に大きな雲が描かれ、その下に広がる巨椋池をあらわす。豊後橋と向島の家並み、奈良へ通じる小倉堤(太閤堤)が雲の切れ目からのぞいており、雲の周囲からはみ出すように葦の葉が描かれ、一面の葦原が下にあることをうかがわせるが、巨椋池そのものの全体像は巧みに、というよりあからさまに隠されている。

 いずれにしても、巨椋池は古代中世において名所絵の画題となったことはなく、その後の美術史上でも絵師たちの創作意欲をそそるような存在ではなかったようだ。近世後期の画家としての波響が巨椋池の景観を描くにあたり、特定の先行作品を前提とした可能性はほとんどないといってよいだろう。しかし、左右一メートルを超える本図は、通常の画幅としては破格の大画面である。これだけの画面をいかなる先行図像もなしに描くことは、果たして可能であっただろうか。可能であったとすれば、波響はこの《月下巨椋湖舟遊図》を、どのような手順で描いたのだろうか。

 

 

五 画面の検討―「実景」との比較

 

波響のこだわり

 前述したように、《月下巨椋湖舟遊図》の画面は全体として四条派風の叙情的な表現にあふれているが、いくつかの点で細部にこだわった表現が見られ、そのために構図に統一性を欠いた印象を与える部分もないわけではない。なかでも、かなり大きく描かれた画面手前の橋や、画面中央にのびる屈曲した土手道などは、本図を一幅の山水画としてみた場合にはやや目障りな感じを免れない。

 結論を先に言うなら、波響がこうした細部にこだわったのは、この絵を依頼してきた菅茶山の期待に応えようとしたからであろう。二十四年前のあの光景を眼前に蘇らせることこそこの絵の使命だったはずである。従前の名所絵のようにどこにでも見られるような山と水と空と月を描くだけでは、茶山の心は決して満足しなかったであろう。そこには一目見てすぐに巨椋池と分かる標識、ランドマークが描かれていることが必要だったはずである。

 では、巨椋池のランドマークとはどのようなものであっただろうか。《月下巨椋湖舟遊図》の画面で波響がこだわった部分に注目しながら、近世の絵図等に見られる巨椋池の表現を検討してみると、そこにいくつかの共通したモチーフを見出すことができる。たとえば、巨椋池のほぼ全体の景観が描かれている次の二件について検討してみよう。

 安政五年(一八五八)刊行の『月瀬嵩尾山長引梅溪道の栞』は、大坂・京都から奈良・月ヶ瀬方面への道中図で、幕末明治初期の浮世絵師松川半山による見事な鳥瞰図である[図8]。画面左下に伏見側から見た巨椋池が描かれている。地名の書き入れには「伏見」、「ブンゴバシ(豊後橋)」、「向島」、「ヲグラ(小倉)」「大池」などがあるが、画面のごく一部ということもあり、大まかで類型的な表現にとどまっている。それでも小倉堤ははっきりと描かれ、その両側にそれぞれ「ヲグラ堤一リ」「舟ワタシアリ」の書き入れがある。「大池」の傍らには前述のように「小倉ノ池蓮ノ花盛絶景ナリ」と書かれている。豊後橋から上流へ宇治川の左岸を遡る槙島堤(宇治堤)も描かれているが、名称は書き込まれていない。

 波響の《月下巨椋湖舟遊図》に近い景観を描いているのは安永九年(一七八〇)刊行の『都名所図絵』の中の一図である[図8]。宇治川に架かる「豊後橋」を波響と同じ伏見側から俯瞰した図であるが、橋の左側からの俯瞰になっている点が波響の図と異なる。しかし、対岸の「向島」の家並みは波響の図と非常によく似ている。その向こうの大池は霞の中に消えて、「小倉社」などの屋根だけが浮かんでいる。小倉堤は描かれていないが、向島から左にのびる槙島堤(宇治堤)ははっきりと描かれている。蕩々と流れる宇治川の下流には波響の図と同じ中州のような陸地が見える。橋の北詰には伏見奉行の屋敷が描かれているが、これは波響の図にはない。興味深いのは、遠山の上に月が出ていることである。

 

巨椋池のランドマーク

 前章で見たように、近世までの絵図等に見られる巨椋池は、その形が一定していない。『山城名勝志』などに見る池の形は概念図に過ぎず、実景を表しているとは考えにくい。また、《洛外図》や『都名所図絵』などの俯瞰図の場合でも池の形は雲や霞に隠されて捉えられないように描かれている。治水設備が貧弱であった江戸期以前、巨椋池は遊水池としての機能を果たしており、年によってその姿は少なからず変化していたであろうから、そのことが反映されていると考えられる。

 こうした池の形の曖昧さとは反対に、これらの絵図等にほぼ共通して描かれているものがある。「宇治川」「豊後橋」「向島」「小倉堤」「小倉(社)」「槙島堤」などがそれである。これらは、描かれた「池」が巨椋池であることを示す標識=ランドマークにほかならない。これらのランドマークは、宇治川をのぞいていずれも人工物であるが、それら自体が特異な形をしているわけではない。川や池という自然の景観の中に人間が意図的に持ち込んだものであること、またそれら相互の位置関係が実際と一致していることによって、「巨椋池」固有の景観をつくり出しているのである。そして、曖昧な形であった「大池」や「池」は、これらのランドマークと結びつくことによって初めて巨椋池の「大池」「池」として認識されるのである。

 では、その大役を課せられたこれらのランドマークは、実際に地上から見たときもその役を果たせるであろうか。

 

「一外交官」が見た実景との比較

 幕末期に来日し、『一外交官の見た明治維新』の著書で知られるイギリス人アーネスト・サトウがのこした詳しい旅行記『中央部・北部日本旅行案内』(一八八一年初版)のなかに、次のような一節がある。京都三条大橋から伏見、玉水を経て木津、奈良に至るルートの紹介である。(註20)

  …伏見までは連綿と家屋が続く。伏見の手前の藤ノ森で左に折れすぐに宇治川に架  かる豊後橋に向かうとよい。…宇治方面を望む上流の風景は大変美しい。橋をわた  って右に折れ向島を抜けて右に大池、左に小さい池を見て土手をたどり小倉へ至   る。…

サトウは巨椋池とは記していないが、述べられているのは明らかに巨椋池の風景である。「豊後橋」すなわち現在の観月橋を渡り、「向町」を抜けたあと右に見えた池が当時「大池」と呼ばれていたもので、左の「小さい池」の方は『山城名勝志』巻第十六の絵図にただ「池」とだけ記されているものであろう。二つの池にはさまれた「土手」は小倉堤すなわち太閤堤にほかならない。

 このように、当時京都から奈良方面へ向かうには、伏見を経て巨椋池を縦断する小倉堤を南下するルートが一般的であったと思われる(註21)。波響の《月下巨椋湖舟遊図》を注意して見ると、その画様は『山城名勝志』の絵図などより遙かに正確にサトウの叙述を裏づけていることが分かる。

 まず、中央手前の大きな橋は疑いもなく「豊後橋」であり、「橋を渡って右に折れ」たところにある家並みは「向町」、そしてその背後に淡青色で描かれた水面こそ我が巨椋池ということになる。池を二分するように折れ曲がってのびる「土手」すなわち小倉堤(太閤堤)の左に「小さい池」、そして右側に「大池」が確かにひろがる。ただし、「土手」の先にあるはずの「小倉」は残念ながら靄に隠れて見えない。[図2]

 視点を豊後橋のたもとまで戻すと、前述したように川に沿って左側に土手がのびている。これは『山城名勝誌』などに「槙島堤」と記されている宇治方面への道であることがわかる。したがってその背後に比較的高く意識的に独特の皴法で描かれているのは、喜撰山あたりの山並みであろう。サトウが「大変美しい」と感動した「宇治川方面を望む上流の風景」を、波響もまた感動を持って描いているのである(註22)。

 こうして当時の実景を記録した文献と波響の《月下巨椋湖舟遊図》を対比照合させてみると、先に挙げた巨椋池のランドマークが浮かび上がってくる。大きくゆったりと流れる「宇治川」とそれに架かる「豊後橋」、対岸の「向町」の家並み、奈良へ続く「小倉堤(太閤堤)」、道の両側の「大池」と「池」、背後にそびえる「喜撰山」など。これらを描くことによって、画面は紛れもなく巨椋池の光景となる。

 

茶山の問いと波響の答え

 「豊後橋」「向町」「小倉堤(太閤堤)」「喜撰山」といった巨椋池のランドマークに加え、茶山の依嘱に応えるべく、波響がさらに描き添えたものが満月と二艘の舟であることは容易に想像できる。時は寛政六年八月十五夜。茶山、波響ら総勢八人は、二艘の舟に分乗して大池の水面に漕ぎ出したのであろう。波響はそれを忠実に画面に再現して見せた。茶山の詩にある水鳥の姿も点々と、しかしはっきりと描かれている。

 だが、波響は月と舟に加えてもう一つ重要なものを描き込んでいる。それは柳である。画面中央の土手すなわち小倉堤の上に、明らかに枝垂柳と分かる樹木が三カ所にわたって描かれている。この柳こそ、茶山が「汀前旧に依て楊柳多し。何れの樹か曾て維ぐ月を賞するの舟」と謳った柳の樹に他ならない。「舟を繋いだのはどの辺りの樹であったか…」と問う茶山に対して、波響は「さて、拙者の記憶によればこのうちのいずれかでは…」と画面のなかで答えているのである。

 

柳は枝垂れていたか

 ところで、さりげなく巧妙に描き込まれた師への答えではあるが、波響自身はどこまで自分の記憶にもとづいてこの光景を描いたのだろうか。小倉堤には、波響が描いたような枝垂れ柳は実際にあったのだろうか。

 波響と茶山らが満月を賞したときからやや遡る寛政元年(一七八九)、この地を訪れていた人物がいた。司馬江漢(一七四七~一八一八)である。江漢は二月二十八日、奈良から伏見に向かう途上で小倉堤を通っている。

 

  廿八日 曇る。椿木町(奈良椿井町)古梅園へ参り、天覧の墨を見る。亦墨の形を  見る妙工なり。夫より南都を出て七里、伏見に至るに、其路小倉堤あり。是は京よ  り南都へ宇路(治)を廻りては遠し。堤湖の半にあり。太閤之を築かれしとぞ。岸々  に疎柳を植、柳き荖(こり)を作る。堤長さ三十町、其半に漁村両三軒あり。京町  近江屋に至る。(註23)

 

「三十町」すなわち約三キロの小倉堤の半ばに「漁村両三軒あり」とは、まさしく波響描く本図の光景と一致する(図10)。「岸々に疎柳を植」とある点も一致するように見えるが、続けて「柳き荖を作る」と記すように、これは柳行李の材料となるコリヤナギであって、枝が垂れることはなく、波響が描いた枝垂柳とは大いにその姿を異にする。しかも、江漢はこの日の日記に簡単なスケッチを残している(図11)。そこに描かれた樹木は、小枝を上に向けたコリヤナギあるいはカワヤナギである。

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 茶山の詩にある「楊柳」は、語調を整えるためにカワヤナギを指す「楊」とシダレヤナギを指す「柳」を並べたものであろう。実際のヤナギがいずれであったか詩中では判然としないが、江漢の言葉とスケッチを見る限り、少なくとも枝垂柳ではなかった可能性が強い。したがって、本図に描かれた柳は、波響の記憶違いであったということになる。このことについては、いずれ稿を改めて論じる必要があるかも知れない。

 

西洋的遠近法の限界と真景図

 前述の通り、本図は四条派風の山水表現のなかに細部へのこだわりを見せており、そのため構図全体が複雑で散漫な印象を与えている。だが、波響が「こだわって」描いた豊後橋、小倉堤、喜撰山などは、当時の文人たちに直ちに巨椋池を想起させるランドマークであった。それらは個々にそれと分かるように描かれなくてはならなかったし、また相互の位置関係も曖昧にはできなかった。その関係を無視して、山水画で基本とされる「高遠」「深遠」「平遠」などの構図法を採ることは、初めから波響の頭のなかにはなかったであろう。

 さらに、波響は二艘の船と水鳥と柳の木という、いずれも大画面空間に比べてあまりにも小さいモチーフを、茶山の想いに答えて描き込んだのである。当然ながら画面の中に縮尺の不統一、すなわち観者と対象との遠近関係の混乱が生まれる。しかし、画面全体を見るとき、そうした矛盾はほとんど解消されるのである。

 従来、日本の絵画は俯瞰法によって広大な空間を表現してきた。雪舟の《天橋立図》、近世初期の《洛中洛外図》諸作、さらに江戸後期の北斎、広重らによる浮世絵風景画など、当時の人間がおよそ達し得ない上空から眺めた言わば「神仏の眼」によって描かれたかのような山水図や都市図は枚挙に暇がない。しかし、一方でこうした表現は全体的な構図の破綻を生みやすいので、霞や雲などによる意図的な遮蔽によって画面を分割することで、破綻の回避が行われてきた。

 江戸中期以降次第に普及した西洋的な空間表現、即ち透視遠近法は、ものの形を見たままに捉えた現実感ある表現によって当時の知識人たちの関心を引いたが、「見えないものは描かない」という「人間の眼」の原則を貫こうとするために、物陰にあったり小さすぎたりして見えない「あるはずのもの」を描くことができないという致命的欠陥をもっていた。

 この西洋画の弱点をを大胆に補いながら現実感ある風景表現をなしえたのは、南画と呼ばれる独自の発達を遂げた作風を担った文人画家たちである。彼らは、それまでの観念的な名所絵から抜け出して、具体的な現実の風景を見たままに描きつつも、そこに様々な情報や作者の心情を描き込んだ新しい風景画すなわち「真景図」を作り出した。

 いっぽう、写生画の祖とされる円山応挙(一七三三~九五)は、そうした主観主義的な方法に対して客観主義を貫き、西洋画の空間表現を取り入れた平明な写実表現を生み出した(註24)。

 波響は京都で応挙や一門の絵師たちと交流し、彼らの作風を積極的に吸収したと考えられるが、その作風を駆使しつつ南画的な真景図として描かれたのが、他ならぬ《月下巨椋湖舟遊図》であるということができるだろう。

 

 

六 失われた景観―終章に代えて

 

 巨椋池と同じように近世あるいは近代以降に姿を消した池沼としては、出羽の象潟(きさがた)がよく知られている。松尾芭蕉が『おくの細道』のなかで「象潟や雨に西施がねぶの花」と謳ったことであまりにも有名である。芭蕉が同地を訪れたのは元禄二年(一六八九)であったが、それから百年余り後の文化元年(一八〇四)、象潟は旧暦六月四日に起こった大地震によって潟全体が隆起し、陸地化してしまった。その結果、それまで本荘藩や近隣の諸村、寺社などによってかろうじて守られてきた象潟の景観は、一夜にして壊滅したという(註25)。また、津軽の弘前城の南側には「南溜池(みなみためいけ)」と呼ばれる広大な溜池が作られていたが、明治維新による藩体制の崩壊によって修築保全を行う主体を失い、消滅してしまったという(註26)。

 巨椋池もまた不幸な運命をたどって消滅した。不幸はすでに明治初年に始まっていた。まだ巨椋池が十分に水を湛えていたはずの時期、サトウがここを通ったときに、どうして池の名前を記録しなかったのか。豊後橋や向町の名は記していながら、なぜ池の名が落ちてしまったのか。明治初年の巨椋池は、名前を確かめたくなるほどの魅力をすでに失っていたのではないだろうか。そうだとすれば、干拓は時間の問題だったのかもしれない。

 昭和の初め、哲学者の和辻哲郎(一八八九~一九六〇)は友人の谷川徹三に誘われて蓮の花を見に夜明け前の巨椋池に舟で出かけた。「巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない」うちに、「二ひら三ひら」と蓮の花弁が開きはじめ、ときおり「クイといふ風な短い音」をたてながら次々に花が開き、そのうち見わたすかぎり蓮に囲まれた世界が眼前に広がる。和辻は祖先の作りあげた浄土幻想に思いを馳せながら、さらにインド的なものを体感しつつ、「蓮華の世界に入り浸」るのである。ところが、夜が明けて淀川まで戻る途中の景色が「すべて、先程までの美しい蓮華の世界の印象を打ち壊はすやうなものばかりであつた。」と嘆いている。加えて、巨椋池にはマラリヤの蚊が多いということを後になって聞く。さすがに和辻は「あの素晴らしい蓮の花の光景のことを思ふと、マラリヤの蚊などは何でもない。」と片付けているが、巨椋池とマラリヤの結びつきは明らかにマイナスのイメージを生んでいたにちがいない。

 和辻は前の文章の末尾を、その後始まった干拓工事への不安で締めくくっている(註27)。

  ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じやうに見られるかどうかは、私 は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によつて水位を何尺か下げた。前に 蓮の花の咲いてゐた場所のうちで水田に化したところも少くないであらう。それに 伴つて蓮の栽培がどういふ影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられ る方があつたら、現状を問ひ合はせてからにして頂きたい。あの蓮の花の光景がも う見られなくなつてゐるとしたら、実に残念至極のことだと思うが、しかし巨椋池 はかなり広いのであるからそんなことはあるまい。(「巨椋池の蓮」一九五〇年)

 

 和辻の楽観は、残念ながらその後裏切られた。だが、仮に夜明け前の蓮の美しさが保たれていたとしても、夜明けとともに幻滅させられるような現実があったとすれば、巨椋池は当時すでに大半の魅力を失っていたのであろう。

 とはいえ、少なくとも江戸期にあっては、巨椋池の蓮とその上に輝く月が人々の詩情をかきたて、明治以降も蓮を中心とした、おそらくは多少野趣を帯びた景観が、画家や哲学者たちの関心を引いていたことは疑いのないところであろう。

 西湖の美しさを西施に譬えた蘇軾の詩を連想させることによって、芭蕉は象潟のイメージを日本人の共有観念に仕立て上げた。象潟は、幸いにも芭蕉の一句によってそのかつてのイメージを日本人の意識の中に定着させることができたのである。

 いっぽう巨椋池は、残念ながらそうした名句、名歌、名文に恵まれることはなかった。もし、この《月下巨椋池舟遊図》が存在しなければ、絵画についても巨椋池は恵まれなかったことになるだろう。

 蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》は、もはや決して再現し得ないかつての巨椋池の景観を窺い知るうえで、ほとんど唯一の手がかりを与えてくれる作品であるだけでなく、江戸後期に隆盛を見た真景図の貴重な作例として、記憶に留められるべきであろう。

 

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波響の寛政六年の上洛は、藩主松前道廣の命によって京都の大原左金吾(呑響)を藩の文武両道の師として招聘するための特使としての派遣であった。

京都東山の酒亭華洛庵は、茶山や波響の詩中に「東山第一楼」の名で登場する。

『黄葉夕陽村舎詩・巻四』および『六如庵詩鈔二編五』

茶山「憶昔三章呈蠣崎公子」三首のうち第二首に「憶昔與君會東武、栗山堂上正雷雨…」とあり、さらに富士川英郎『菅茶山』中の「菅茶山と大原呑響」によると、伊沢蘭軒の『○(くさかんむりに姦)齋詩集』のなかに「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、與源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」と題する七律が二首あるという。

井上通泰によると、茶山と波響、大原呑響、橘南谿が一堂に会した夜、四人は一本の扇子に各々漢詩を書き付け、さらに呑響が山を、波響が月を描いたといい、そのうちの茶山の詩には「此夜都門萍水会」の語があるという(「浪人大原左金吾の話」一九三〇年『南天荘随筆』所収。傍点筆者)。なお、井上通泰が所蔵していたと思われるこの扇子は、近年、大塚和義氏によってその所在が確認された(朝日新聞二〇〇八年九月二五日・道内版)。

森鷗外は『伊沢蘭軒』(一九一六~一七)の中で菅茶山が蘭軒に宛てた書簡を紹介しているが、そのうちの文化十年七月二十二日の書簡に「一、前年蠣崎将監殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所(びんしよ)も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を不得申候…」とある。(『伊澤蘭軒』その六十五)

茶山の詩中に「二十五年」とあるのは、当時行われていた当年を含む数え方によるものであろう。ちなみに森鷗外は著作『伊澤蘭軒』(一九一六~一七)のなかで波響と茶山の交遊に触れているが、この数え方について誤解している。すなわち、茶山と波響が江戸で再会した文化元年(一八〇四)を茶山が「十一年後」の再会として歓喜していることから、初めての出会いを十一年前の「寛政五年」(一七九三)と推定した(『伊澤蘭軒』その百三十)。後に鷗外は茶山の別の詩からその出会いが寛政六年であったことを知り、「再会は十一年後ではなくて、実は十年後であった」と述べている(『伊澤蘭軒』その百六十七)。江戸後期に一般的であったと思われる年の数えたかは、大正期になると、鷗外ほどの識者にも知られていなかったのかもしれない。

同席者の一人であった米谷金城(米子虎)が「椋湖賞月図」を所蔵しており、これに対して茶山が詠んだ題詩が『黄葉夕陽村舎詩・後編巻八』に収められている。「伏水道中」と同様文政元年(文化十五年)の作であるから、茶山がこの絵に心を動かされた可能性もある。

本図とその契機となった寛政六年中秋の巨椋池舟遊に関しては、つぎのような先行研究あるいは言及がある。

・富士川英郎「菅茶山と大原呑響」(『日本詩人選30 菅茶山』PP.69~73 1981・筑摩書房)

・黒川修一「菅茶山をめぐる画人たち」(「菅茶山とその世界」展図録p.106 1995・広島県立歴史博物館 )

・菅波哲郎(図版解説)《月下巨椋湖舟遊図》(「菅茶山とその世界」展図録p.83 カラー図版あり 1995・広島県立歴史博物館 )

・黒川修一「文人と同時代絵画」(『江戸文学』18号 pp.108~110 図版あり 1997・ぺりかん社)

・高木重俊『蠣崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠邨舎遺稿』pp.443~445 2002・幻洋社)

・高木重俊『蠣崎波響漢詩研究』pp.72~79 2005・幻洋社)

・高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』pp.199~233 図版あり、カバーにカラー図版 2005・ぺりかん社)

・西村直城・岡野将士「心に残る巨椋湖での観月」(菅茶山関係書籍発刊委員会『菅茶山の世界 黄葉夕陽文庫から』pp.129~-131 図版あり 2009・文芸社)

10 《梁川八景図》については、拙稿「蠣崎波響筆『梁川八景図』について」(一九八三年・『紀要』第5・6合併号・北海道立近代美術館)および「真景図の一様相─蠣崎波響筆『梁川八景図』をめぐって─」(「國華」第一〇九九号・一九八七年)を参照されたい。

11 観月橋南詰から西に折れた後次第に南進する旧道には、いまも古い商家の家並みがあり、近鉄京都線「向島」駅に近い西目川集会所付近および同「小倉」駅付近の三軒屋付近では、辺りより数メートル高い堤の存在が確かめられる。

12 『巨椋池干拓誌』第二編第二章第三節

13 『巨椋池干拓誌』第二編第二章第三節

14 『月瀬嵩尾山長引梅溪道の栞』・安政五年刊・松川半山画

15 鈴木敬氏によれば、「黄筌は唐朝の正統的、伝統的花鳥画風の継承者であると同時に…(中略)…著しい水墨指向をも併せもっていた」という。いっぽう徐煕の画風の特色は「野趣に富んだ江辺の花鳥を自然景観とともに把えること」にあったという。また氏は「…徐氏花鳥画の画面は、あるいは蓮池水禽図の如きものではなかったかとも想像する」と述べている。(『中國繪畫史(上)』・一九八一年・吉川弘文館)〉

16 昭和初期の巨椋池の写真を見ると、池は浮島状になった水草の塊が点々と水面に浮かび、半ば湿原化しているように見える。(京都府京都文化博物館常設展示)

17 拙稿「中世やまと絵考―和歌史料による画題の検討」(『美術史学』第二号所収・一九八〇・東北大学美学美術史研究室)〉参照。

18 「宇治」という地名が「網代」と結びついて画題として文献に登場する最古の例は『禁秘抄』(承久三・一二二一)および『古今著聞集』(建長六・一二五四)に清涼殿荒海障子の北側裏面に「宇治網代」が描かれていたとする記事である(家永三郎『上代倭絵全史』一九四六年、一九六六年改訂)。

19 「蓮」をモチーフとする近代日本画の作例を概観すると、たとえば荒井寛方《蓮》(一九二二)、荒木寛友《漁舟図》(一九一〇)、北野恒富《朝(蓮池舟遊)》(一九二七)、小林柯白《蓮》(一九二三)など、巨椋池の景観を想起させる作品が少なくないが、その検証は今後の課題である。

20 『明治日本旅行案内』庄田元男訳・下巻ルート編2「ルート四〇・京都から奈良へ」・一九九六年・平凡社(傍点は井上による。)

21 やや遡るが、建部綾足の『折々草』春の部(明和八年・一七七一)に、栴檀(せんだん)(あふち)のある場所を尋ねた人が、井手の「玉水(たまみず)の里」にあると聞いて「俄に足結(アユヒ)(脚絆)しめて、小倉堤(ヲグラツヽミ)を南(ミナミ)さまに走」って玉水に向かうというくだりがある(『新日本文学大系』第七九巻・四八二ページ・一九九二年・岩波書店)。

22 槙島堤近辺から喜撰山方面を望むと、現在でも本図に近い景観が得られる(図13)。また、GoogleEarthによってこの位置からの立体地形をダウンロードし、高さを強調して閲覧すると、本図と酷似した画像を得ることができる。

23 『江漢西游日記 六』(『司馬江漢全集』第一巻・一九九二年・八坂書房 (図12は本書掲載の図版から複写した。)

24 円山応挙の《淀川両岸図巻》(一七六五年・アルカンシェール美術財団蔵)は、淀川を航行する舟からの景観を川の両側に向かい合わせに描いた特異な構図の作品として知られている。全長十六メートルを超えるこの作品の巻頭には伏見の街が詳細に描かれているが、対岸に広がるはずの巨椋池は描かれていない。もっとも、『淀川両岸一覧』に「巨椋大池 前に葭島ありて、船中よりは見えず」とあるとおり、宇治川の水面からは巨椋池は葦原に遮られて見えなかったはずであり、応挙が航行する舟から見た実景にこだわったとすれば、当然描かれないことになる。(網野善彦・大西廣・佐竹昭広編『いまは昔 むかしは今 第二巻・天の橋 地の橋』(一九九一年・福武書店)を参照。)

25 長谷川成一『失われた景観―名所が語る江戸時代』一九九六年・吉川弘文館

26 長谷川成一・前掲書

27「新潮」一九五〇年七月号初出、『現代紀行文學学全集』第四巻西日本編所収・一九五八年・修道社

 

付記 

 本稿の主要部分は、宮城学院女子大学の一九九八年度特別研究助成により筆者が同年から翌 年にかけて行った作品および現地の調査によって作成した草稿に基づいている。完成した原稿は翌年発表の予定であったが、諸般の事情により中止せざるを得なくなった。その後、新知見による加筆修正を続けつつ、二〇一〇年度に再び作品調査を行い、後半部を大幅に書き換えて新たな所見を述べたものである。

 本稿に掲載した作品の画像は、広島県立歴史博物館の許可を得て筆者が撮影したものである。

 本作品の調査と本稿の執筆にあたっては、次の方々に大変お世話になった。記して謝意を表 したい。(敬称略)

故 菅波 寛

白井 比佐雄(広島県立歴史博物館)

荒木 清二(広島県立歴史博物館)

小嶋 正亮(宇治市歴史資料館)

西村 直城(広島県立歴史博物館)

笠嶋 義夫(千葉工業大学)

 

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図版一覧

図1 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》全図(広島県立歴史博物館)

図2 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分1

図3 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分2

図4 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分3 

図5 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》款記

図6 江戸時代の巨椋池とその周辺(『巨椋池干拓誌』より一部強調して作成

図7 干拓前の巨椋池(『巨椋池干拓誌』より)

図8 『山城名勝志』巻十八・久世郡図・一七一一

図9 「月瀬高尾山長引梅渓道の栞」部分(一八五八) 山下和正『地図で読む江戸時代』(一九九八年・柏書房)より複写

図10 『都名所図会』巻五「伏見 指月・豊後橋・大池」挿図

図11 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分4

図12 司馬江漢『江漢西游日記』小倉堤(一七九九)

図13 宇治川沿いの「槙島堤」を対岸から見る(二〇一一年)

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お わ び

 拙稿の抜刷をお届けするに当たり、お詫び申し上げることがございます。
 本稿の主要部分は、蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》について、二〇〇六年に行った現地調査と作品実見をもとに執筆したものですが、諸般の事情で刊行が大幅に遅れておりました。その後いくつかの新知見を得たこともあって、二〇一〇年にあらためて作品を実見し、現地を再調査し、それらをふまえて大幅な加筆修正を行い、このたびようやく刊行にこぎ着けたものであります。
 ところが、先に執筆した原稿とその後の補筆部分の整合が不十分なままであることに気づかなかったために、刊行された本稿にはこの作品に関する先行研究の紹介が脱落してしまいました。ここにそれらの執筆者ならびに関係各位に対し、お詫び申し上げます。
 管見による限りでも、蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》とその契機となった寛政六年中秋の巨椋池舟遊に関しては、つぎのような先行研究あるいは言及がございます。

 ・富士川英郎「菅茶山と大原呑響」(『日本詩人選30 菅茶山』PP.69~73 1981・筑  摩書房)

 ・黒川修一「菅茶山をめぐる画人たち」(「菅茶山とその世界」展図録p.106 1995・  広島県立歴史博物館 )
 ・菅波哲郎(図版解説)《月下巨椋湖舟遊図》(「菅茶山とその世界」展図録p.83 カ  ラー図版あり 1995・広島県立歴史博物館 )
 ・黒川修一「文人と同時代絵画」(『江戸文学』18号 pp.108~110 図版あり 1997・  ぺりかん社)
 ・高木重俊『蠣崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠邨舎遺稿』pp.443~445 2002・幻洋社)
 ・高木重俊『蠣崎波響漢詩研究』pp.72~79 2005・幻洋社)
 ・高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』pp.199~233 図版あり、カバーにカラー図版    2005・ぺりかん社)
 ・西村直城・岡野将士「心に残る巨椋湖での観月」(菅茶山関係書籍発刊委員会『菅  茶山の世界 黄葉夕陽文庫から』pp.129~-131 図版あり 2009・文芸社)

 とくに、高木重俊氏および高橋博巳氏には、波響と菅茶山の漢詩および両者の交友について、ご高著からだけでなく直接貴重なご教示を頂いたにもかかわらず、それらの事項が明示されていません。このような事態が生じましたことを心よりお詫び申し上げます。

                         2001年9月

                                井上 研一郎