ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2010年 宮城県日本画のうごき

            井上 研一郎

 

 

 2010年は酷暑と混迷の一年であった。記録破りの暑さで筆者の貧弱な頭脳労働は瀕死状態に陥り、政権交代で生まれた民主党政権もまた鳩山内閣の総辞職後、ほとんど瀕死状態にある。巨大な財政赤字のもとで、美術館や博物館の予算は削られて、ここも瀕死状態。

 しかし、瀕死の状態でも地球に帰ってきた小惑星探査機「はやぶさ」は、最後まであきらめないことが大切であることを教えてくれた。宮城の美術状況にも、あきらめず期待しよう。

 

 公募展、団体展の動きとして、例年通り河北展から始めたい。

 第74回河北美術展(四月二十三日~五月五日・藤崎本館)の日本画部門受賞作はつぎのとおりであった。

○河北賞 阿部君江《挑む》

 黒い子犬と赤いザリガニが睨み合う光景を縦長の構図でとらえる。散歩中の出来事か、リードにつながれた子犬は半身に構え、ザリガニは大きな鋏をいっぱいに広げて威嚇の姿勢をとる。作品が成功した最大の要因は二者を縦に配した俯瞰的な構図にある。黒白赤青と色数を抑えたことも効果的だ。日本画の表現力の豊かさを遺憾なく発揮した作と言えよう。

○宮城県知事賞小林道子《紫陽花》

 紫陽花に囲まれて傘を差した若い女性が遠くを見つめる姿を描く。単純な構図と色彩が新鮮な印象を与える。モデルの表情も爽やかだが、背景の青色が空を表すとすると、なぜ傘を差すのかという疑問が湧く。傘の表現と合わせてもうひと工夫ほしかった。

○一力次郎賞 阿部悦子《泡影》

金髪を風になびかせ、うつむき加減に立つ黒いドレスの女性の姿が、黒を基調とした抽象的な空間に浮かび上がる。これまであった謎めいた部分が消えて物足りない気もするが、よく見ると画面上部に後ろ姿の下半身が描き込まれていて、やはりと思わされる。寡黙な自画像とでも言うべきか。

○東北放送賞 深村宝丘《翠嬢》

 椅子に腰掛けて琵琶のような弦楽器(筆者はこの楽器の名を知らない)を抱えたチャイナドレス姿の女性を描く。人形のような無表情の顔と大きな手が画面に異様な緊張感を作り出しているが、楽器の表現が図式的で全体のバランスを欠いたのが惜しい。

○宮城県芸協賞佐々木宏美《時空を超えて2010》

 作者が近年取り組んでいる「源氏物語絵巻」をモチーフとした作品。絵巻の代表的な場面を背景に、靴を脱いで立ち、首をかしげて挑戦的な視線をこちらに向ける女性を描く。文字どおり時空を越えた想いが錯綜する画面。誰もが知る国宝の作品をやや安易に画面に持ち込んだ感があるが、斬新な構成に取り組む意欲を買いたい。

○新人奨励賞 森智子《静かな会話》

 海岸の砂浜に二本の傘が突き刺されて立つ。そこに作者は「静かな会話」を聞いた。何気ない風景をシュールな世界に転じる発想は見事だが、ここまでは日本画でなくても表せるだろう。問題はその先にあることを今後は考えてほしい。

○東北電力賞 松本洋子《水門》

 水門と手前の水面に映る水門のシルエットをクローズアップして描く。作者のねらいが揺れ動く水門の影にあるとすれば、画面上部の水門はもう少し調子を抑えて描くべきだっただろう。捉え所がはっきりしない抽象画のように見えるが、目の付け所は悪くない。

○賞候補 富樫清子《還暦を迎えて》

 テーブルの上の豪華な盛り花と椅子に乗せたギターを中心に楽譜やモビール、掛け時計などを配して、淡い色調で画面をまとめる。充実した六十年の人生を振り返る作者の心が素直に表されている。

 画面全体を花や葉で埋め尽くしたような作品が少なくない。多くは全体を包み込む空気が感じられない、装飾模様のような退屈な画面だ。中核的なモチーフを設定したり、点景として人物や動物を配したものもあるが、その意味や役割をはっきり考えて描いたようには思えない。大樹に魅せられた作品も目立つが、描ききったと言えるものはない。相手は手ごわい。やみくもに挑み続けるか、ひとまず引いて出直すか、大いに悩むべきだろう。

 

 第47回宮城県芸術祭絵画展(九月二十四日~十月六日・せんだいメディアテーク)では、次の作品が受賞した。

○宮城県芸術祭賞 小野寺君代《生夏》

○宮城県知事賞 遠州千秋《旅路》

○仙台市長賞 岩渕仁子《花筏》

○河北新報社賞 梅森さえ子《瑠璃色の風》

○(財)カメイ社会教育振興財団賞 富樫清子《次へ》

○宮城県教育委員会教育長新人賞 菅井粂子《YELL》

○賞候補 橋本道代《あこがれ小箱》

○賞候補 福田眞津子《悠乃2歳》

 河北展で筆者が述べた課題に答えたかたちの作品が会場で眼につき、充実した感覚を覚えた。

 小野寺の作品は、薄墨の地にクズの葉とススキをほとんど群青系の色だけで描くという異色の画面。色数を絞ったことで、画面全体を埋め尽くしながらも奥行きと透明感をもつ表現が可能となった。単調になりがちなススキの穂も、折れて垂れ下がったもの、蜘蛛に巣を張られたか弧を描くものなど、変化をつけて装飾性を消し、あくまで自然の空間にこだわりを見せる。

 岩渕もスイレンの葉の間に漂う無数の桜の花びらを変化をつけながら描き、単調さを免れたリアルな空間を作り出している。

 梅森は塀の向こう側にある何かを手前の帽子と小枝の動きで表そうとしている。雑然とした手前の空間が向こう側の透明な奥行きを引き立てるが、左側の白い塊が違和感を生んでいるようにも思える。

 こうして自然を独自の方法で再現しようとする作品が並ぶ一方、記憶や想像の世界を視覚化する行為もまた多様な展開を見せる。

 遠州は地面に坐るキツネらしい動物と傍に立って餌を与えようとする少女の姿を幻想的に描く。もっともこれは筆者の独断で、もし「散歩」という題がついていたら、坐り込んで動かなくなったイヌを引っぱろうとする少女に見えるかも知れない。だが、それは「旅路」という題から想像してもかまわないわけで、見る者の多様な記憶をも呼びさます不思議な画面である。

 菅井は卒業ソングとして歌われる同名の曲のイメージを淡い色調の画面に豊かに描き出した。

 

 個人の動きに眼を転じると、天笠慶子日本画展(四月二十九日~六月十六日・大衡村ふるさと美術館)では、日春展入選(一九九〇)以降の主要な作品二十一点が並んだ。多くは人物画であるが、その人物も素材のひとつとして装飾的な画面に配した濃厚な空間が生まれている。モデルとなった家族が、画家との絆を感じつつそこから飛び立とうと葛藤しているようにも見える。その他の小品では、風景や静物にも新たな境地を開こうとする姿勢が見られた。

 2008年の岩手・宮城内陸地震の際、辛うじて難を逃れた能島和明の栗駒のアトリエが二年ぶりに再開され、五~七月に公開され、筆者も初めて訪問した。「悲しい位に見晴しが良くなりました」と画家が言うアトリエ北側は、雑木林がそっくり崩れ落ち、赤肌を見せた谷を隔てて栗駒山がすぐ目の前にある。周囲は、一昨年の個展(仙台三越)で見た《一瞬の権現》の風景そのままだ。「林の後ろに見え隠れする褐色の塊が示唆的」と書いたが、地震の前兆が能島には見えたのだろうか。能島は東京で文部科学大臣賞受賞記念素描展(二月十日~十六日・銀座松屋)に続き、個展(三月三日~九日・日本橋高島屋)を開催した。

 櫻田勝子絵画展(十一月九日~二十八日・蔵の郷土館齋理屋敷)には、2009年の院展入選作を含む十九点が並んだ。副題に「樹木の恵みにに生かされて」とあるように東北のブナ林を精力的に、また京都をはじめ各地のサクラを丹念に描く。会場に並んだ作品は、額にはめ込まれたアクリルの反射が強すぎて、鑑賞には不向きな状態であった。主催者には効果的な対策を望みたい。

 昨年十月に開館した登米市高倉勝子美術館が「開館一周年特別展」を開催した(~十月三十一日)。筆者は残念ながら会期中には観覧できなかったが、その後の常設展にも一九五〇年代の作品から近作まで二十点余りが展示され、画家の全体像を知るには十分な手応えがあった。

 高橋睦個展(~五月十六日・白石市 寿丸屋敷)には花や野菜を描いた二十点が並んだ。よく観察された平明な写実描写に好感が持てた。

2009年度の宮城県芸術選奨および新人賞については、日本画部門の受賞者はなかった。また、文化の日表彰の対象者もなかった。

 最後に、日本画・東洋画関係の美術館活動を列挙しておく。

○「めでた掛け・福笑い」(一月六日~三月三日・共生福祉会福島美術館)

○「知っておきたい郷土の作家~得楼・速雄・耕年・天華~」(四月二日~五月三十日・共生福祉会福島美術館)

○「絵画にみる江戸時代のみやぎ」(四月二十四日~六月六日・東北歴史博物館)

○「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」四月二十日~五月三十日・仙台市博物館)