ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2009年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 

 「政権交代」がキーワードとなった二〇〇九年、宮城県内日本画の世界にはどんな変化がもたらされただろうか。結論を出すにはもちろんまだ早いが、敢えて言うなら、一進一退、次代を担う新星いまだ見えず、といったところか。急速な支持率低下を止められない連立内閣がこの国をどこへ導こうとしているのか不透明な現状と、どこか似通っているように思われる。

 

 公募展、団体展の動きとして、例年通り河北展から始めよう。

 河北美術展(四月二十七日~五月六日・藤崎本館)の受賞作はつぎのとおりであった。

○河北賞 阿部悦子《沈く》

 難解な題名と謎めいた画面を描き続ける作者が、ようやく自分の姿を素直に表現できたといえようか。両手の形は作りすぎの感がある。次の段階への脱却が課題となろう。

○宮城県知事賞小林道子《かえり道》

 通勤電車の車内風景。作者の誠実さが伝わる微笑ましい作品だが、ガラスに映った姿の方が鮮やかに見える。もう少し押さえるか、逆に実像のほうを押さえても良かった。

○一力次郎賞 小野寺君代《冬の華》

 枯れ薄の群落を描く徹底した写実に敬服する。上部の背景はよく描けているが、右下の部分は地面か水面か判然としない。表現に工夫がほしかった。

○東北放送賞 吉田輝《吉実彩祭》

 大胆な色彩に目を奪われるが、構図にもう少し統一感がほしい。新聞紙の断片を実際のモチーフとして使うのは、コラージュ本来の意義を見失うことにならないだろうか。

○宮城県芸協賞佐藤松子《記念日》

 着飾った少女を平面的に配置した面白さがある。三人がもし同一人物なら、絵巻に見られる「異時同図」ということになり、卓抜な着想に拍手したいところだが、果たして…。

○新人奨励賞 伊藤文子《夕悠(最上川)》

 河口付近の風景を鳥瞰的に手堅くまとめる。緻密ではないが、造形的な面白さがある。巨大な夕日は、人間の目にはこれくらいに見えるもの、写真にはできない表現だ。

○東北電力賞 阿部あや子《12月の窓》

 明治時代とちがって現代ではモチーフになりにくい電柱を手前の萎れた草花と重ねた発想の妙を賞めたい。サッシュで截然と区切られているはずの初冬の冷気と部屋のぬくもりが、視界の中で一体化する不思議さ。電柱を描いて電力賞とは偶然か。

○賞候補 大森ユウ子《渓音》は白絵具の垂れ具合が流れ落ちる滝を効果的に表現している。田中順子《飛石の秋》は「飛び石」というには空間が狭すぎる。石の上の一枚の落ち葉もわざとらしく見える。田名部典子《ひずみ》は意欲作。手から落ちるカーネーションをもっと効果的に使いたかった。茅野淑《かたらい》はほのぼのとした情感が伝わる。二人の子どもの配置に一工夫あっても良かった。

 受賞作以外で目についた作品をあげる。

 青木淳子《会者定離》は空間を描ききる難題に挑戦。抑制した表現は見事だが、日本画で描く必然性が見えてこない。梅森さえ子《静穏》今回は色数を抑えて正解だった。リアルな表現と夢幻の世界が爽やかに溶け合う。遠州千秋《レインダンス》は「雨の踊り」か「雨の中の踊り」か、映る影に少々難はあるが、完成に近い世界だ。この先が興味深い。佐々木昭子《氷のシンフォニー》小石のリアルな表現と水(氷?)の抽象的な形状─折り合いがむずかしい。菅原キク子《時空を越えて》縄文土器とハスの異質性がいまひとつ伝わってこない。蓮の横の白く立ち上る蒸気のようなモノは何か。武田久美子《祈り、広瀬川・郡山堰》は部分にこだわりすぎた。つねに画面全体を見ながら仕上げていくことが大切だ。針生卓治《キョウノチ》題意が不明、モチーフも曖昧だ。去年の堂々とした姿勢はどこへ行ったのか。松本洋子《唐箕》は古い農機具の造形的な面白さをねらったが、もっと思い切った単純化が必要だろう。赤い部分の意味不明。三浦孝《週末の二人》は人物と外景のどちらに重点があるのか曖昧だ。一方をシルエットにしても良かった。宮澤早苗《予感》今回はリスも鳥もいない。木の芽の赤い色と小枝の渦巻く姿に生命感をという意図は分かるが、作りすぎの感がある。守屋亜矢子《ラボラトリ》は線描を重視する姿勢を評価したい。その線に個性を持たせる工夫が課題だろう。

 近年、世界遺産を思わせる大樹を画面いっぱいに描く作品が目立つ。エコロジー・ブームの現われと速断するつもりはないが、山奥まで行かずとも「大自然」と向き合える感性も芸術家には必要ではないかと思う。また、指導者を容易に推測できる作品も、相変わらず少なくない。こうした反面、時代を鋭く映し出す作品がほとんど見られないのは寂しい限りだ。日本画はもはや歴史とともに歩むことをやめたのだろうか。

 

 第六十四回春の院展(五月十三日~二十二日・仙台三越)には、本県関係作家として小野恬《聴春》、三浦長悦《静秋》、宮澤早苗《十月の池》が出品された。

 宮城県芸術祭絵画展(十月二日~十四日・せんだいメディアテーク)は、十分な時間をとって見ることができなかったので、受賞作を列挙するにとどめる。

○宮城県芸術協会賞 及川聡子《放》

○宮城県知事賞 梅森さえ子《花の音》

○河北新報社賞 佐々木志津子《祈り-トバ・バタック族-》

○仙台市長賞 宮澤早苗《行く秋》

○(財)カメイ社会教育振興財団賞 富樫清子《藤華》

○宮城県教育委員会教育長新人賞 檜森勢津子《アブシンベル神殿》

○賞候補 金子利宇《曜》 毛利洋子《火山湖》

 受賞作の他では、斎藤ミツ《樹下通り径》、佐々木園美《華》、吉田輝《春喜》などが印象に残った。

 

 個人の動きに移ろう。

 髙瀬滋子作品展(三月五日~十五日・藤田喬平ガラス美術館)Präparat(プレパラート)と題した作品群は、作者の言葉によれば「生命(いのち)」を大きなテーマに「もり」や「まち」を一つの生命体としてとらえようとする。文字どおり顕微鏡で標本をのぞいたような形態を点描風に描いた画面は、ミクロの世界にも、遥かな銀河宇宙の姿にも見える。

 佐藤朱希日本画展「風・光・音のポエム」(四月二十九日~七月七日・大衡村ふるさと美術館)には、日展出品の大作七点をふくむ十四点が並んだ。柔らかな雰囲気の近作に混じって、《現代母子図考》(一九八九)が印象に残った。直立する二人の女性像に込められた強いメッセージ性が、その後の作品では影をひそめ、穏やかな表現に変わっている。その変化の必然性が、わずか一点の旧作では見てとることができないのが残念だった。なお、佐藤は平成二十年度宮城県芸術選奨を受賞した(授賞式六月十五日)。

 櫻田勝子は、三月に岩出山(十三~十五日・大崎市岩出山スコーレハウス)で、四月に仙台(十四~十九日・晩翠画廊)で自らの作品展を開いた。仙台の展観では、作者が追い続けている重厚なブナの大樹と繊細な枝垂れ桜を中心に十五点ほどが並んだ。このほか、八月には櫻庭が主宰する日本画教室「彩耀塾」の第四回作品展が開かれた(二十五~三十日・東北電力グリーンプラザ)。

 天笠慶子が講師を務めるNHK文化センターの受講生による「日本画を楽しむ」作品展が行われた(六月十二~十七日・せんだいメディアテーク)。教室を始めて七年目、初の作品展だが、多彩で自由な表現が見られたと同時に、天笠の指導による揉み紙を用いた作品が目を引いた。

 飯川竹彦は、平成十九年にドレスデンで個展を開いた後も、現地の独日協会などと連携してさまざまな企画を続けているが、今年は夫人の知世とともに同地で二人展を開催した。(九月二十五日~十月三十日・クライシャ教会)

 梅森さえ子日本画展(十月二十七日~十一月一日・晩翠画廊)は、花や実などの植物をモチーフに、明るい色調の作品約二十点が並んだ。装飾的な画面の中にしっかりした線描が生きており、変化に富んだ構図と合わせて爽やかな印象の展観となった。

 登米市高倉勝子美術館が十月四日、高倉の郷里、登米市登米町に開館した。高倉が私費を投じて建設し、自作九十三点とともに登米市に寄贈した。高倉の画業を紹介するとともに、周辺の施設と併せた地域文化振興の拠点としての有効な活用が望まれる。

 

 最後に、美術館の活動を概観しておく。

 荘司福展(四月十一日~六月十四日・神奈川県立近代美術館・葉山)仙台で画家としての前半生を過ごした荘司福の代表作約九十点による没後初の展観。「東北の生活や信仰に共感を寄せ」(同館案内文)た一九五〇年代以降、アジア、アフリカの精神文化に題材を求め、さらに「自然と融和した精神状態」(同前)での晩年の作に至るまでを一堂に集めたとのことだが、残念ながら見損なった。

 京都画壇の華─京都市美術館所蔵名作展(八月二十九日~十月四日・宮城県美術館)優れた日本画コレクションで知られる京都市美術館の所蔵品を選りすぐった展観。ふだん目にすることの少ない京都画壇の名作が並ぶ充実した内容であった。筆者は請われて会期中に「伝統と、革新と」と題する講話を行ったが、一般の聴衆に混じって県内外の日本画家や愛好者の姿が多く見られた。彼らになにがしかの刺激とヒントが与えられたとすれば、展観は無形の成果を上げたと言えるだろう。