ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2006年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 

 2006年の美術界を揺るがした最大の事件は、いわゆる「和田義彦事件」であった。芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した和田義彦の受賞対象作品がイタリアのある画家の作品からの盗作である疑いが強まり、授賞が取り消しとなった。私は和田の作品もイタリアの画家の作品も見ていないが、報道された画像を見る限り、盗作または無断借用としか言えないように思える。報道された本人の「弁明」もほとんど意味不明である。

 授賞取り消しに反対する声は、私の知る限り全く聞かれなかったが、主催者の文化庁や作品を推挙した選考委員の責任問題になると意見が分かれた。当事者たちは「弁明」に終始し、評論家たちのコメントは「明日は我が身」と考えたのか歯切れが悪かった。

 しかし、同じような問題は身近なところにも起こりうる。昨年、私はこの欄で「宮城県芸術祭絵画展」の会場で見たことについて次のように書いた。

 

 「…この会場で高名な作家の代表作をほとんどそのまま画面に取り込んだ作品が見られた。作者の意図の推察に苦しむが、仮にその作家へのオマージュとして制作したとしても、あまりにも安易な「引用」は許されるべきではないだろう。」

 

 県の芸術祭絵画展は、県芸術協会の会員を初めとするそれなりのレベルの作品が並ぶ場である。そこに、某大家の作品のコピーが画面の半分近くを占めるような作品がまじってよいものだろうか。作家個人のレベルを超えた主催者全体のモラルが問われる問題である。和田事件は決して対岸の火事ではないことを関係者は銘記すべきだろう。 

 

 第70回河北美術展(4月28日~5月10日・仙台・藤崎本館)の日本画の部入賞者とその作品は次のとおりであった。(審査員・那波多目功一、川崎春彦)

 河北賞 宮澤早苗《残照》

 宮城県知事賞 阿部悦子《夕面(ゆふも)》

 一力次郎賞 千葉勝子《夏の詩》

 東北放送賞 阿部志宇《秋彩》

 宮城県芸術協会賞 真下みや子《収穫の時》

 新人奨励賞 針生卓治《季蹟》

 東北電力賞 梅森さえ子《蘇る(よみがえる)》 

 

 賞候補として石川ちづ江、紺野トシ子、深村宝丘、諸星美喜、吉田輝、渡辺房枝の各氏の名が挙がった。

 宮澤の《残照》は、昨年の作とは打って変わって強烈な赤と茶色で立ち枯れのヒマワリを縦長の画面いっぱいに描く。朱から臙脂、茶色まで「多彩な赤」と金箔を効果的に用いた意欲作である。阿部悦子はさまざまなイメージの断片を重ね合わせ、さらにそれを人物像と組み合わせた作品に毎回取り組んでいるが、今年の作は水しぶきのような白い斑点とそれを避けようとするかのような女性の不安げなポーズが印象に残る。タイトルと重ね合わせると得体の知れぬ不安なイメージが浮かび上がる。千葉は廃墟風のコンクリート建造物とヒマワリを組み合わせた独特のモチーフを描き続けているが、情緒的なタイトルは似合わない。阿部志宇は霧の立ちこめた晩秋の落葉樹林を丁寧に描く。昨年の作に比べ画面の奥行きが生まれ、リアルな空間表現になったが、枝や葉の表現がそれと釣り合っていない。真下のモチーフは昨年と全く同じ大豆の乾燥風景だが、「再現」から「表現」への飛躍が見られ、今後の展開が期待される。針生はゾウという動物の存在感をどう表すかで苦悶したことだろう。降る雪の中に立たせることで静かな意志が、紗を箔押しのように使うことで素朴な性格が、見る者に伝わって来る。所々でモチーフを直線的に断ち切るなど、画面がデザイン的になるのを防ごうとしているが、模索の最中のようにも見える。梅森は青を基調とした画面にアザミの切枝を白抜きで押し花風に並べる。所々でモチーフを直線的に断ち切るなど、画面がデザイン的になるのを防ごうとしているが、模索の最中のようにも見える。

 受賞作以外では、紺野トシ子《願いをこめて》は飾り付けをする人物を無彩色に描くことで七夕飾りを引き立たせた発想を買う。奥山和子《望郷》は、故郷に想いを馳せる二人の少女を濃厚な色調で画面いっぱいに描くが、以前見られた大胆な構図は影を潜めた。石川ちづ江《奥山へ…》は巨木を横長の画面に描くという困難な課題に挑戦しているが、画面に奥行きが出た反面、類型的な小枝の形などに不統一が見られる。深村宝丘《ひととき》は母娘らしい二人の女性を描いただけだが、人体の周辺の隅取りが強すぎてせっかくの余白を無意味にしている。及川聡子《Candy》は技法的には手堅いが、キューピーやミッキーマウスなどのキャラクターを子どもたちの姿と重ね合わせた意図がいまひとつ鮮明でなく、印象を散漫にしてしまった。 

 

 第43回宮城県芸術祭絵画展(9月29日~10月11日・せんだいメディアテーク)には、66点の日本画が出品された。

受賞作は次のとおり。

 宮城県芸術祭賞 《氷暈》及川聡子

 宮城県知事賞 《Peace》菅井粂子

 仙台市長賞 《彼らの愛》遠州千秋

 河北新報社賞 《Eternal Season 7(若き後継者)》佐々木啓子

 成瀬記念美術館賞 《幻》松谷睦子

 宮城県教育委員会教育長新人賞 《楽しい時》梅森さえ子

 このほか、賞候補作として金子利宇《残された果実》、福田眞津子《或る家族》、三浦孝《夏の終わりに》が選ばれた。

 及川は、1年ほど前から河北展の出品作とはまるで違う独自なモチーフとスタイルの作品を描き始めた。冬の朝、畦で見かけた薄氷の下の雑草に着目して、それを真上から思い切り拡大してみせるという手法である。ミクロの視野をマクロに再現する過程で見えてくるものがあるに違いない。

 遠州が近年追求している画面は、現実のイメージを解体してそれを遠い記憶と重ね合わせる作業と言えばよいだろうか。これらの作品をまとめて見る機会があってもよい。 

 

 8月には「宮城日展会展」が開かれ、日本画部門には7名の会員が出品した。

 安住小百合《未来へ》

 天笠慶子《遠い夏の日》

 市川信昭《リストラ(ありがとう・さようなら)》

 佐々木麻里子《夏の日》

 佐藤朱希《咲野うるわし》

 七宮牧子《刻》

 能島和明《くれる》

 能島千明《操る男》

 安住は金地に円窓をくり抜き、三人の少女と蝶と白百合を組み合わせ、和洋渾然としたイメージを端正な手法で表現するが、まとまりすぎたきらいがある。天笠は夏の夜に蛍を囲んで眺める五人の少女たちを描く。蛍はおそらく両手を揃えて広げたひとりの掌の上に止まっているのだろう。その指が人形のように硬い感じがするのが残念だ。能島千明が描く人形遣いは、背後に描かれた人形らしい人形ではなく、大きさも顔つきも本物そっくりの「人形」を操ろうとしている、その不気味な存在感が狙い目か。(8月25日~30日・せんだいメディアテーク) 

 

 この1年はこれまでになく職場の業務が重なり、月に数度の徹夜も珍しくなかった。個展、グループ展を見て回る余裕がほとんどなく、十分な報告はあきらめざるを得ない。

「第2回大泉佐代子日本画展」(1月4日~15日・晩翠画廊)

「飯川竹彦&竹彩会・絹に描く日本画展」(3月28日~4月9日・丸森町齋理屋敷)

「櫻田勝子日本画教室『彩輝塾』第三回作品展」(7月25日~30日・東北電力グリーンプラザ)

「斎藤艸雨―墨による表現展」(9月22日~27日・せんだいメディアテーク)

「桑原武史日本画展」(9月19日~24日・晩翠画廊)

 桑原は山形で活躍する院展の作家。しっかりした技術力と対象に迫る真摯な態度が見て取れる。東北にいてこれだけの水準を保ち続けることの難しさは本人も承知と思う。健闘を祈りたい。

 美術館・博物館の企画展は、自治体の財政悪化にともなう指定管理者制度のスタートによって、まともな打撃を受けている。所蔵品展の見せ方を工夫したり、味付けを変えたりするだけでは済まなくなった。その中で、仙台市博物館の主催した「大江戸動物図館―子・丑・寅…十二支から人魚・河童まで―」は、動物を描いた江戸絵画を総覧する好企画であった。カッパや龍の「ミイラ」まで登場するオマケもついて話題づくりに一役買った。(9月22日~11月5日)

 まずは会場に来てもらうことだ。社会福祉法人共生福祉会が経営する福島美術館も、魅力的なテーマとネーミングで企画展を開催した。「『絵の中のヒミツ』~ちいさいモノみつけた!~」9月15日~11月23日)

 

 伝統をふまえつつ、時代を先取りするような新しさを持った意欲的な日本画作品が生まれることを切に希望する。(文中敬称略)

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 この文章は、『宮城県芸術年鑑 平成18年度』に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、 ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。