ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2005年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 このテーマで書き始めて五年目を迎える。まだ県内日本画の全貌を見渡すほどの知見はなく、他県と比較する材料はさらに乏しく、況わんや東京・京都の動きを一瞥した程度では、それらと比較して本県の日本画の特質を論じることなど不可能である。これまでと同じように公募展、秀作展、個展、グループ展の順にこの一年の動きを概観することで、責めを塞ぐこととしたい。

 

 第六九回河北美術展(四月二二日~五月四日・仙台・藤崎本館)の日本画の部入賞者とその作品は次のとおりであった。(審査員・福田千惠、田渕俊夫)

 

河北賞《寂静》佐々木 玲子

宮城県知事賞《息》田名部 典子

一力次郎賞《眺望駒草平にて》渡辺 房枝

東北放送賞《生きる》菅井 粂子

宮城県芸術協会賞《森の目覚め》宮澤 早苗

新人奨励賞《春愁》佐々木 宏美

東北電力賞《水のフィル》諸星 美喜

 

 今年は三年ぶりに受賞者全員が女性という結果になった。入選者全体を見ても女性の比率は七割を超えている。おそらくは全国的な傾向だろうが、平成十七年度の第三十七回日展における「出品委嘱者」三十七名中、女性は約二割、日春展の入選者中の女性は約五十五%という数字と比べてみると、地方ほど女性の比率が高いということになろうか。

 入選作を概観すると、佐々木《寂静》は細かいタッチを丹念に重ねる手法で静謐な湿地の秋景をあらわす。絵本の世界のような幻想性が審査員の心をつかんだようだ。田名部《息》は画面左に重心を寄せた不安定な構図が目を引く。空中に浮遊する花束、舞い落ちる一片の羽毛。を受け止めようとする素描風の裸婦…。亡き師畑井美枝子への追悼の心を込めたという。渡辺《眺望…》は日本画としては重厚な存在感を持つ。スピード感ある墨線に「表現を試すつもり」という作者の意図が素直に感じられる。菅井《生きる》は繊細ながらも強靱な描線と最小限に施された彩色が強いメッセージを放つ。相次いでなくした大切な人を思い浮かべながらの制作という。宮澤《森の目覚め》は巨樹にからむ細い枝と蔦、樹上に一匹のリスを配する。「雪解けの森で見た生命の胎動」が素直な筆致で表されている。佐々木《春愁》は窓際のテーブルに上半身を預けてもの思いにふける女性を描くが、やや小道具に拘り過ぎた感がある。諸星《水のフィル》は水面を真上から見るお得意の構図で水族館のマハゼを描く。技法的にも一定の域に達している作者にはぜひ新境地への挑戦を望みたい。

 女性の入選者が多いということは、当然ながら応募者も女性優位ということだろう。街なかの日本画教室の受講生の大半は女性である。今回審査員に女性が加わったことで会場の雰囲気に何らかの変化があったかといえば、それほどの変化は感じられない。しかし、団塊の世代と言われる人びとが退職年齢を迎え、男性の受講者が増える可能性が予想される現在、河北展の会場の雰囲気はどのように変わるのだろうか。あるいは変わらないのだろうか。

 受賞作のほかでは、遠州千秋、相原幹男、奥山和子、千葉勝子、小野寺康、大泉具子らが目についた。難解なタイトルと緊張感ある構図を得意とする阿部悦子は、緊張が解けたのかやや平凡な作に終わっている。昨年新たな展開を見せた梅森さえ子は、色数を整理したものの構図が纏まりきれなかった感がある。

 会場の一角を占める審査員、顧問、招待の作品群では、佐藤朱希、能島和明、天笠慶子、金沢光策等の作に自らの作風を打ち破る意欲が感じられたいっぽう、必ずしもこの場にふさわしいと思えぬ作品が見うけられた。高齢、多忙、寡作、種々の事情はあろうが、小品であっても一般出品者の範となるべき作が求められるべきだろう。

 

 平成十六年度宮城県芸術選奨には、安住小百合が新人賞に選ばれた。多摩美術大学で加山又造に学び、写実性と装飾性を併せ持つ明快な作風を作りあげている。今後の新たな展開に期待したい。

 「みやぎ秀作美術展2005」では、過去三年間の秀作として、日本画部門では遠州千秋《いのちを守る為に》、大場茂之《時々刻々》、小野恬《過ぎし日の白―絆―》、佐藤朱希《光色舞いながら》、高瀬滋子《騒がしい朝》、高橋宏宣《幸》、能島和明《山の人》、能島千明《追憶》、本郷榮一《千手》、宮澤早苗《時》、毛利洋子《セピア色の追憶》、山田伸《想》の十二点が選ばれて展示された。

 

 春の河北展に対し秋の宮城県芸術祭絵画展には、粒ぞろいの質の高い作品が並ぶが、平成十七年の第四十二回展(九月三十日~十月十二日・せんだいメディアテーク)には、主宰する県芸術協会の会員作品を含め六十四点の作品と遺作一点が出品された。受賞作は次のとおり。

 

宮城県芸術祭賞《彩靄》三浦 長悦

宮城県知事賞《祈りの時》宮澤 早苗

仙台市長賞《Eternal Season 6 畑じまい》佐々木 啓子

河北新報社賞《爽朝の詩》小野寺 君代

成瀬記念美術館賞《Pneuma.2005》及川 聡子

宮城県教育委員会教育長新人賞《百合花開百歳寿》菅井 粂子

 

このほか、安藤 瑠吏子《おやこ》、奥山 和子《チャン・メイとヤン・スー》、三浦 ひろみ《Germinal Allure》の三点が賞候補となった。

 三浦《彩靄》は満開に咲く野生の藤が薄紫の靄に包まれる光景を丹念な筆致で描く。靄は明け方か、それとも夕方か。宮澤《祈りの時》はモスクで祈りを捧げる老若三人の女を横から描く。いま世界中のイスラム教徒の女性たちの胸の中にあるものを、作者はどう考えているだろうか。佐々木《Eternal…》が晩秋の畑で豆の枯れ枝を焼く一人の老人を描く一方、小野寺《爽朝の詩》は春の豆畑と数匹の蝶を霞のような白い縁取りの中に描く。減反とひきかえに増え続ける大豆畑が画家たちの新しいモチーフになりつつあるようだ。及川は河北展の作品とはうってかわり薄氷の張った畦の地面をミクロの視線で大胆に描く。光と影をテーマに視点を縦横に変えて表現しようとする根底にあるものは何だろうか。

 なお、この会場で高名な作家の代表作をほとんどそのまま画面に取り込んだ作品が見られた。作者の意図の推察に苦しむが、仮にその作家へのオマージュとして制作したとしても、あまりにも安易な「引用」は許されるべきではないだろう。

 さて、目を県外に転じると、平成十七年の各団体展ではおよそ次のような人々が入選を果している。「およそ」というのは、筆者自身が上京して確認したものではなく、関係者のご協力を得て入手した情報だからだが、作品を実見したわけでもないので、ここに触れる意義がどれほどあるか、正直なところ毎年躊躇している。

「第四十回日春展」(三月三十日~)

 佐藤 朱希《心美しき春》、七宮 牧子《薄暮》

「第三十七回日展」(十一月二日~)

 佐藤 朱希《咲野うるわし》、安住 小百合《願い》

「第六十回春の院展」(三月二十九日~)

 小野 恬《最上川早春―雛の道》、佐々木 啓子《天壌無窮》

「再興第九十回院展」(九月一日~)

 小 野恬《明日の白―ふたり―》(特待)、大泉 佐代子《母の誕生日》、宮澤 早苗《晩夏》 (初入選)、三浦 長悦《秋彩》

 創画会関係については情報が得られていない。こうした中央展での活動に触れるとき、さらに悩まされるのは、県外を主な活躍の場とする県出身作家の扱いである。小野 恬、能島 和明、安住 小百合らのように県外に居住しながら県内にも一定の活動の場を持ち、県内日本画界との関わりをもつ作家たちと、大場 茂之、山田 伸らのように県出身者ではあるがほとんど県内での活動の見られない作家たちとを、同列に論じるわけにはいかないだろう。しかし、山田はこの年五月に仙台市内で個展を開催している。こうなると触れたほうがいいのかもしれないが、残念ながら見逃した。市内の展観ですら目の及ばないことがあるのだから、県外の事項についてはこうしてただ氏名と作品名を並べるだけの記録にならざるを得ない。

 個展では、櫻田 勝子(五月二十八日~七月十八日・雄勝硯伝統産業会館、七月二十六日~三十一日・晩翠画廊)、及川聰子(七月七日~十五日・What's Art Gallery)、高橋 竹子(八月九日~十四日・晩翠画廊)、飯川 竹彦(八月十日~十一月十日・天平ろまん館)宮澤 早苗(十一月一日~六日・晩翠画廊)佐々木 裕美子(十月・せんだいメディアテーク)などが開かれた。

 グループ展では、筆者が実見した墨盛会(遠藤盛二主宰・六月十日~十五日)を挙げるにとどめ、仙台市博物館が開催した「東東洋―ほのぼの絵画の世界」展が文字どおりほのぼのとした個性あふれる仙台藩御用絵師の全貌を紹介してくれたことを記しておく。