ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2004年 宮城県日本画のうごき

                             井上 研一郎

  2004年の県内日本画をめぐる動きを述べる前に、畑井美枝子の逝去を取りあげなくてはならない。

 十二月一日、突然の訃報であった。享年八十八歳。一九一六(大正五年仙台に生まれ、三五年(昭和一〇)年に宮城県女子専門学校を卒業、まもなく畑井小虎と結婚して一男一女をもうけ、主婦業のかたわら日本 画を描き続けた。

 一九三六(昭和十一)年、河北美術展に初入選、以後連続入選二十回という。六五(昭和四十)年からは招待作家、八三年に顧問となった。一九五五(昭和四十)年、日展の山口蓬春に師事し、同年の第8回新日展に《待宵》で初入選、以後入選8回。日春展には六十七(昭和四十二)年以降十七回入選している。蓬春の死後は加藤東一の「轍会」に参加した。

 一九六九(昭和四十四)年には日本画サークル「未生会」を設立、八五(昭和六十)年には「日本画研修のつどい」を主宰、また市民センターや文化教室の講師を永年勤めるなど、後進の指導、養成にも熱心であった。葬儀のとき小野恬が「県内日本画界のお母様」と弔辞のなかで表現したように、現在県内で活躍する日本画家には、畑井のもとで学んだものが少なくない。

 畑井自身の作品は、身近な題材をモダンな明るい調子で描いたものが多く、宮城県美術館には《庭にて》(一九五五)、《化石の渓》(一九七八)の2点が収蔵されている。

 永年の制作と活動に対しては、一九八一(昭和五十六)年に「宮城県教育文化功労者」、八四(昭和五十九)年に「仙台市市政文化功労者」、九三(平成五)年に「地域文化功労者」(文部大臣表彰)、二〇〇二(平成十四)年に「河北文化賞」などの表彰を受けている。

 私事にわたることだが、最晩年の畑井さんは筆者が講師を務めていた日本美術史の講座の受講生でもあった。日本画教室の講師をやめられたあと「今度は生徒になります」と言われて、杖をつきながら通ってこられた。最後まで学ぶ姿勢を失わないその生き方には感服するのみである。心からご冥福をお祈りする。

 

 「第六十八回河北美術展」(四月二十三日~五月五日・仙台・藤崎本館)の日本画部門では、次の7名が受賞した。

「河北賞」《幸》高橋 宏宣

「宮城県知事賞」《水のスイング》諸星 美喜

「一力次郎賞」 《去りし人に》遠州 千秋

「東北放送賞」《空へ》田名部 典子

「宮城県芸術協会賞」《キッチン》高瀬 滋子

「新人奨励賞」《刻》大嶋 幸悦

「東北電力賞」《ぬくもり》梅森 さえ子

 諸星、大嶋をのぞく5名が宮城県(仙台市)在住者である。

 高橋《幸》は、椅子に座る母娘(作者の長女と孫)を細かな線描で描く。モザイクか点描に近い画肌が何気ない風景に物語性を与えている。オレンジがかった色調と人物の穏やかな眼差しが印象的であった。油彩の制作が多く、日本画は十数年ぶりの挑戦という。諸星《水のスイング》は、水中を自在に泳ぐアナゴを真上から描く。近寄ってリアルな描写を確かめるのもいいが、離れてそのリズミカルな動きを追うほうが楽しめる。たくさんに見えるアナゴは、じつは1匹なのかもしれない。遠州《去りし人に》は、花を植える幼い日の自身の写真をモチーフにしたという。俯瞰的な構図は亡き父のまなざしを意味することが、タイトルからもうかがえる。田名部《空へ》は群生する極楽鳥花の上を舞う1枚の羽をリアルに描くが、空間は水墨のたらし込みで埋め尽くされ、むしろ抽象的な印象を与える。新しい表現である。高瀬《キッチン》は、慌ただしい朝の台所の情景をほとんど真上からの視点で大胆に表現する。ここに来て作者独自の色調と俯瞰的な構図が確立したかに見える。破綻しそうな構図を乳白色の色調が支えている。大嶋《刻》は、杉の巨木を根本から見上げたこれも大胆な構図。全体を細かい筆致と抑えた色調で描きつつ、折れた梢とその周囲の色調を変えて作者の意図を表わしている。右下の空を舞う鷲は効果的だが、説明が過ぎる気もする。梅森《ぬくもり》は新境地である。並んだ白いカブを色とりどりの野菜が囲む。カブのみずみずしさと非現実的な色彩の共存が楽しい。

 受賞者以外では、三浦長悦《樹声》丹念に描かれた細枝の間から見える高層アパート。仰角で描いたことで空間が一気に広がった。枝はもう少し整理してもよかった。石川ちづ江《初冬の森》霧の中のブナ林を描くが、背景に均等に具がかかったために奥行きが失われた。霧の表現は難しい。鈴木利平《唐黍畑晩秋》収穫を終えたトウキビ畑を線描を生かした細密な表現で画面いっぱいに描くが、クモの巣とキジのつがいに視線が奪われ、せっかくの力強いイメージがこわされている。阿部志宇《春装》イチョウの巨樹(乳銀杏)と若葉。雰囲気は感じられるが、新芽の形が単調なためにいまひとつの生命感が不足している。後藤佐幸《晩秋の籾殻焼き》は、実際の籾殻を用いたマチエールが面白い。今野しげよ《光芒》の白骨のような立ち枯れの樹木と空間。千葉勝子《夏のソナタ》ヒマワリの背景を群青jでまとめるという大胆な意欲。佐々木啓子《空》ミルクタンクローリーの凸面鏡のような表面に映る空を捉えた意欲作。 

 

 グループ展ではまず「第7回実生会小品展」(5月21日~26日・せんだいメディアテーク)をあげなくてはならない。 「実生会」は畑井美枝子が主宰していた日本画サークル。2003年は小品展開催の年に当たっていた。47人の会員のうち43名が合計86点を出品、 元会員3名と畑井自身の作品をふくめ90点余りが会場に並んだ。小品とはいえ、これだけの点数が並んだ会場は圧巻であった。熊谷眞由美《秋明菊》は短冊形の画面を生かしてシュウメイギクの優美な姿を捉えた。梅森さえ子《白いシャツ》は風に翻る白いシャツから生まれる幻想を形象化しようとする異色の画面。荒敬子《処暑Ⅱ》朱色のミョウガと染付けの香炉を銀地に浮かべるという洒落た構成が目を引いた。この他、田名部典子、大泉佐代子、毛利洋子、佐藤朱希らの作品がそれぞれに光っていた。指導者を失ったこの会が今後どのような道を歩むのか、気がかりである。 

 

 実生会とほとんど時を同じくして、飯川竹彦の主宰する竹彩会の「さわらび展」(5月18日~23日)が開催された。飯川は丸森町の齋理屋敷でも「絹とあかり展」(11月2日~28日)を開催するなど、絹地に描く古来からの技法を現代に生かそうと地道な活動を展開している。飯川の発言については以前触れたことがあるが、作品は今回初見であった。イタリア、アッシジでの取材による《Day-light》《Night-light》のシリーズに見られるように、光を最も重要なテーマとしているようだ。堅実な技法に裏打ちされた開拓精神が生み出す画面に今後とも注目していきたい。 

 

 「蒼風社展」(9月28日~10月3日・東北電力グリーンプラザ)、墨葉社「第25回墨画展」(5月28日~6月2日・せんだいメディアテーク)、第12回人物画研究会作品展2004」(10月29日~11月3日・せんだいメディアテーク)などが開かれた。人物画研究会展での田名部典子《竜田》は、現代的な装いの女性の上半身を横長の画面に描き、頭部の周囲を深紅の紅葉が乱舞するというもので、画肌もよく工夫され、写実と装飾、古典と現代の融合をめざす作者の思いがよく伝わる佳品であった。

 個人では 奥山和子「日本画のみち」展(11月26日~12月1日・せんだいメディアテーク)は、作者初めての個展で、10年間の制作を振り返る展示。 身近な人物像が中心で、自身も語るように、構図や形より色遣いを楽しんでいるような自由な雰囲気が伝わる。河北展で見たとき気になった《唐花草(ホップ)を持つ女》も、ここで見るとあの浮いたようなホップの葉の色にこそ作者の心が込められていたと知らされる。

 、このほか、昨年に引き続き櫻田勝子が「日本画展」(4月13日~25日)を開き、佐々木裕美子(9月21日~26日・古川市民ギャラリー緒絶の館)、及川聡子(9月23日~30日・スペースumu)もそれぞれ個展を開催したが、櫻田以外は見逃した。 

 2005年後半の大きな話題は、仙台では17年ぶりという「日展」巡回展(6月19日~7月11日・せんだいメディアテーク)の開催であろう。日本画75点をはじめ、油彩、彫刻、工芸、書、あわせて304点という大規模な展観は、来場者を圧倒するに十分であった。日本画75点の中には宮城、岩手の関係作家7点が含まれた。また本展が宮城県美術館でなくせんだいメディアテークで開催されたことに端を発し、公募展の会場問題が再燃したかに見えたが、新聞などの論調は公立美術館の現行の運営方針を大きく揺さぶる方向には進まなかった。 

 その宮城県美術館で開かれた「福田豊四郎展」(11月2日~12月19日)は、《秋田のマリヤ》で知られるこの画家の全貌を初めて宮城県民の前に明らかにしてくれた。モダニズムの直中に身を置きながら、ふるさと秋田をこよなく愛し、描き続けた画家の足跡は、宮城になぜこのような画家が生まれないのかという素朴な疑問をも喚起したように思う。

 ………………………………………………

この文章は、『宮城県芸術年鑑  平成16年度』(2005年)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。