ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

「日本画」は彷徨う

                                井上 研一郎

はじめに

 「日本は疲れています。日本は自信をなくしています。日本人は彷徨い続けています。」という書き出しで始まった2002年の文化審議会の中間答申序文は、最終答申では素っ気ない文章の「まえがき」のさらに前の落ち着かないところに掲げられているが、この文章の「日本」「日本人」を「日本画」に置き換えてみると、これは当たっているかもしれないという気がしてくる。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/021201.htm

 明らかにいま「日本画」は彷徨っている。たとえば、青梅市立美術館の松平修文氏は、次のような表現で現状を憂えている。

 「脳天気な自然賛美や装飾の域を出ない花鳥、人物、風景画、底の浅い現代アートまがいの真似っこ画が横行する日本画界…」

 たしかに、そうした作品は少なくない。とくに公募展の会場に行くとその傾向ははっきりと見て取れる。相変わらず師弟関係と団体のピラミッド構造の中に安住する作家の多いことがうかがえる。それはほかのジャンルにも当てはまる現象ではあるが、「日本画」においてはとくに著しい。そしてその構造はより単純化された形で「中央」から「地方」へと波及していく。

 

中央と地方の乖離

 2002年の夏、私は知人の美術館学芸員を通じて、某新聞社が主催する「日本画大賞」の作品推薦委員を委嘱された。「21世紀の美術界を担う新進気鋭の日本画家の表彰」「次代をリードする画家の発掘」が目標という。全国で45人の美術館学芸員、評論家らが推薦委員として選ばれたという。筆者は仙台に住む身で、東京へは年に数度しか出ないし、まして関西へ行くことは少ない。そんな人間が委嘱されるということは、宮城 県内で該当する有望な作家を見つけろということなのだと解釈して、引き受けた。

 それにしても、なぜ今さら「日本画大賞」か、いささか不可解ではあった。以前は東京の日本画専門の美術館が大賞を設け、若手日本画家の登竜門となっていた。それが数年前に休止されたあとだけに、今回の大賞も新人発掘が眼目なのだと私は考えて、ある作家を推薦した。資料をそろえるにあたっては地元の新聞社にも無理を言ってご協力いただいた。グランプリは無理でも予選には入るかもしれないと予測していた。

 選考の結果が発表され、私の予測は見事にはずれた。大賞の受賞者は2名、いずれも前の日本画専門美術館の大賞を受賞し、美術大学の教員をつとめる作家であった。何のことはない、すでに功成り名を挙げた人たちではないか。入選作品はわずか十四点、これも多くが美術大学の教員であった。中には私が前から注目している作家も幾人か含まれていたが、それにしてもこれでは地方の若手作家が入り込むすきはほとんどない。選ばれたのは明らかに「中堅作家」たちであった。

 同展のカタログに記載された作家略歴を見ると、まず十四人の出身地はすべて東京以西である。東京など関東地方が九名、近畿地方が四名、北限は茨城県。出身大学は東京藝術大学が六名、京都市立芸大が専攻科を含めて三名。以下武蔵野美大三名、多摩美大、愛知芸大が各一名。受賞歴は創画会賞五名、日本美術院賞・大観賞三名、山種美術館大賞二名、東京セントラル美術館大賞一名など。優秀賞、奨励賞のたぐいはほとんどの入選作家が受賞している。団体所属を見ると、創画会が会員・会友合わせて五名、院展同人が三名、日展が会員・会友合わせて二名となる。最後に入選者たちの現職。十四人のうち八人が東京藝術大学はじめ美術大学の教員である。

 この数字は、現代日本画壇の「中堅作家」たちの現状を反映していると言ってよいだろう。東京と関西に偏在する限られた作家群。もちろん、北海道から沖縄まで全国には多数の画塾があり、無数の日本画愛好者がいる。しかし、その指導的存在たるべき「中堅作家」は、ごらんの通り東京と関西にしかいないのだ。これが「日本画」であろうか。いっそのこと「東京・関西画」と呼んだ方がよいのではないだろうか。

 主催者からの文書では「当初三十作品程度を第一次選考で選ぶ予定」だったが、「選考の結果」こうなったとある。これには入選作を並べる会場の狭さ(入選作品の巨大さ?)が影響していたという話も聞くが、いずれにせよ主催者や選考委員の思惑と地方の推薦委員の思い入れとの間には、相当な隔たりがあったのではないだろうか。

 選考委員たちの言葉をカタログから拾ってみると、「…痛感したことは、有力な作家の活動に目配りする一方、新たに意欲的な作家を発掘する推薦委員の方々の重要な役割である」と述べる浅野徹氏のような推薦委員の役割を評価する意見がある一方、「今回推薦を受けたのは四十二名の作家で、意外に重複が少なかったし、これはほかの選考委員からも聞かれたが、もし自分が推薦する立場なら当然推薦すると思う人達が推薦されていなかった」とする内山武夫氏のように推薦委員との認識のズレをはっきり指摘する意見もある。

 一つの事例にすぎないこの問題に、立ち入りすぎたかもしれない。しかし、せっかく推薦を委嘱されて、それなりに悩んだすえに下した判断が、主催者の意向とすれ違いに終わってしまったという今回の結果は、どうも現在の「日本画」界における「中央」と「地方」の関係を端的に現しているような気がしてならない。

 

日本画」とは何だったのか

 この小文で「日本画」とつねにカッコ付きで表記するのは、私がこの概念について疑いを持ち始めているからだ。そもそも「日本画」という言葉は、明治維新という未曾有の「構造改革」のなかで生み出された用語であった。それは、江戸時代までの伝統的絵画とは一線を画した革新的な絵画の創造を意味していた。そして、その「創造」が成就した暁には、「日本画」と「西洋画」の区別すら消滅するはずであった。明治の「日本画家」菱田春草が次のように語ったことはよく知られている。

  「現今洋画といはれてゐる油絵も水彩画も又現に吾々が描いてゐる日本画なるもの  も、共に将来に於いては、…勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の手で作  成したものとして、凡て一様に日本画として見らるゝ時代が確かに来ることゝ信じ  てゐる。」

日本人が描く絵は「凡て一様に日本画」と言われる日が来る、つまり「日本画」が油絵や水彩画などの「洋画」を取り込みながら新たな「日本画」となる―春草はそう信じつつ、短い生涯を閉じた。しかし、その春草が所属した日本美術院は、いまだに「洋画」とは別の団体として健在である。創設百周年を迎えたとき「院展はもう解散してもいいのではないか」という声が一部で囁かれたと聞くが、いつの間にかそれも忘れ去られたようだ。

 その後の日本社会の「構造改革」の激しさに比べると、「日本画」が担っていた「革新」と「創造」は、不徹底なままであった。「洋画」は「日本画」に吸収合併されることはなく、「日本画」はつねに「洋画」に対する用語として使われつづけてきた。いまや「日本画」と「洋画」を区別する唯一最大のよりどころは、画材・技法上の区別にすぎないようにも見える。

 顔料と墨と膠を用いた伝統的な技法による絵画を「日本画」と呼ぶなら、油彩画は(水彩画も含めて)いつまでも「西洋画」と呼ばれなくてはならないだろう。いっぽう、展色剤の区別によって「油彩画」という呼称があり続けるのなら、「日本画」は思い切って「膠彩画」と名称変更しなければ生き残れないことになる。かつてそういう議論もあったのだが、そうなると「水彩」絵の具も展色剤は「アラビアゴム」であって「水」ではないし、「日本画」でも最近は膠以外の展色剤を用いることもあるようだから、私もあまり語感のよくない「膠彩画」などという呼び方にこだわるつもりはない。では「日本画」は「日本画」のままでほんとうによいのか。

 墨や膠をもちいる絵画が日本だけのものでないことは明白だ。もともと中国に生まれて周辺に広がったこれらの材料と技法が、たまたま日本にも定着して今日に至っているのだという、ともすれば忘れられがちな事実。これを認めたうえで「日本画」をあらためて考える必要があるだろう。

 いうまでもなく、日本にもたらされたこれらの画材と技法は、中国とも朝鮮ともちがう独自の発達を遂げた。では、それを現代の「日本画」はどのように受け継いでいるのだろうか。現代の「日本画」が自己の存在を主張できる根拠が、画材による区別以外に果たしてあるかどうか。さらに、もしその根拠があるなら、それを見るものに対して積極的に訴えようとしている画家がどれだけいるだろうか。「日本画」はこういった厳密な議論からつねに逃げてきたのではないか。

 

大賞受賞作に見る「日本画」の姿

 「日本画大賞」のあり方については先に批判的な考えを述べたが、大賞受賞作そのものについては私もその価値を認めるにやぶさかではない。

 内田あぐりの《吊された男―'00M》は、吊され浮遊する人体を激しい筆致と緊密な構成で横六メートルの大画面にまとめ上げた力作である。そこには写生を尊び、筆遣いを重んじる伝統的な「日本画」の姿は微塵も感じられない。一貫して人体と取り組んできた作者は、そうした伝統的な表現では捉えきれない現代の人間像をどうしても描きたかったのだ。自由に動き回る舞踊家をモデルにして、極限の人体表現を試みた。「動いてもらったら予想しなかった形が見え隠れし、周囲の空間も変わってきた。それが面白かった」という。(2002/10/21日本経済新聞

 浅野均の《雲涌深処》は、大きな屏風ほどの画面に緑の山腹を画面一杯に描いたもので、画題こそ古風だが画面は新鮮だ。画面を斜めに走る稜線の大きな動きと人家などの細密な表現が溶け合って、見る者を風景の中に引き込む。「外から見ていると窓枠から見たような風景になるが、土地に入り込むと東洋的な深い精神の山水になる。それが日本画だと思っている」と語るように、何度も現場を訪れ、歩き回った末の作品である。(2002/10/21日本経済新聞

 二人に共通するのは、まず自分の表現したい内容を明確に持っていることだろう。内田は日ごろから「人間の体でどんな表現ができるのか、極限の形を見たいと思」い続けていたからこそ、モデルに動いてもらったときに「予想もしなかった形」を見つけることができたのである。浅野も少年時代から親しんだという山岳を主題に選び「風土の根本に触れ、自然と自分の結びつきを絵にしたかった」という。その思いが彼を何十回も現地に足を運ばせる原動力となった。

 つぎに二人は、いずれも伝統的な手法にこだわらずに、伝統的な日本絵画がかつて表現しえた境地に迫ろうとしている。内田は伝統的な輪郭線は捨てたが、動きを表わす線を駆使して「予想しなかった形」を見つけ出した。高校時代、俵屋宗達の《風神雷神図屏風》に心を動かされたという彼女は、自由に天空を駆けめぐる宗達の造形を現代の視点で捉えなおそうとしているのかもしれない。浅野は、伝統的な山水画の構図はおろか、西洋画の透視遠近法とも無縁の型破りな構図のなかにかえって東洋的な精神世界を描き出した。現地を訪れ、その土地を知り尽くした上で描く手法は、江戸時代の「真景図」の思想に通じるところがある。単に目で見た世界を画面に写し取るのではなく、対象に自分から飛び込んでいってそれを感じとっているのだ。

 そして二人が異口同音に強調するのは、「日本画」への信頼感だ。内田は「日本画だからこそできる表現の幅の広さがある」と言う。浅野は「光や空気といった形のないものを表現するのにもっとも適した画材が日本画の材料だと考えている」という。伝統的な手法にこだわらないというよりも、こだわるべき伝統的手法など始めからないのではないか。

日本画」にはそれだけの懐の深さがあるのではないだろうか。宗達の自由な表現を見れば見るほどそう思えてくるし、浅野が「すべての点で完成されている」と言う平安絵画に見られる「吹抜屋台」や「異時同図」といった表現も、西洋の窮屈な遠近表現に比べて何と自由な空間と時間までをも描き出していることか。

 先に浅野の受賞作《雲涌深処》の大胆な構図が伝統的な山水画のそれとは無縁だと述べた。しかし、浅野はその大画面の中にほんの指先ほどの小さな人家を描き、傍らにピンクの花咲く樹木を配した。人家といっても茅葺きの民家ではなくモダンな雰囲気さえ感じられるが、それらは紛れもなく中国山水画や日本のやまと絵景物画に見られる添景としての家屋や樹木と同質のアイテムであって、大自然の姿を描きつつ、その懐に抱かれた人間の存在を象徴している。「日本画の」豊かな表現力が十分に生かされた作品ということができよう。

 

時代とともに生きる

 しかし、そのような「日本画」も現代美術が抱えている普遍的な問題から逃れることはできない。科学技術の進歩が無条件に人類の発展を保証するとは、もはや誰も思っていない。かといって、宗教がすべての人を苦悩から解放するかといえば、逆にあちこちで血みどろの対立抗争を生み出している。この現実に芸術だけがかかわらずにすむだろうか。美術はどうあるべきか。日本画は何ができるか。

 かつて夏目漱石は『草枕』のなかで、画家の使命は「住みにくい人の世」を「束の間でも住みよく」することにあると述べた。今風にいえば「癒し系」の職業ということになろうか。「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。」という漱石の論調は、「私はハスの花は描くが、泥は描かない」と述べた平山郁夫にも通じるところがある。

 しかし、その平山は、内戦のさなかにも絵を描き続けたサラエボの画家たちとの出会いの中で、次第にその気持ちを動かされていった。泥の中から生えるからこそハスの花は美しいのだ。平山は、その年の院展出品作の構想を変えて、サラエボの廃墟とそこに立つ子供たちの姿を描いた。「美術はきれいだから、かわいいから描くというものではないと思う」という内田あぐりの言葉にそれは連なっていく。

 外界の事物からもたらされた感動は、自分の内部で生まれる思いと結びついたときに初めて自分だけの表現となる。ときにそれは「きれい」ではない風景や「かわい」くない人物や動物をも対象とするだろう。それだけではない。時代の証言者としての画家の目は、醜い、悲しい光景を捉えてしまうこともあるに違いない。平山がサラエボの廃墟を見て心を動かされたのは、彼の心の奥にヒロシマがあったからだ。

 被爆者でもある平山は、かつて《広島生変図》(一九七九)のなかで紅蓮の炎の中に立つ不動明王の姿を描いた。不動は燃えさかる広島の街を見下ろし「不死鳥のように生きよ」と呼びかけている。忌まわしい過去に翻弄され続けて終わるのでなく、あるべき未来に向けて歩み始めること―時代とともに生きる以上、時代を作る主体の側に立たなければ、人間の存在価値は半減する。

 

生活に根ざす

 田窪恭治といえば、ヴェネチア・ビエンナーレ日本代表にも選ばれた現代美術家だが、彼がフランス北部ノルマンディーの寒村サン・マルタン・ド・ミューにあった無人の礼拝堂を十年がかりで修復し、内部に壁画を描き、復活させて村人たちに返したという話は、テレビでも放映されて話題を呼んだ。

 三年くらいでできると思ったその事業は困難の連続ではあったが、田窪はそれを地元の人たちといっしょに乗り切った。壊れた屋根の修理、ガラス瓦の焼成、風見鶏の取り付け、壁の絵具塗り…。初めはすべて日本人の手でやろうとしたが、無理だとわかる。そこに暮らす人たちの力を借り、そこにもとからあるものをうまく使いながら進めていくうちに、自然に人々との交流も生まれ、困難は乗り越えられていく。

 何よりも、礼拝堂の壁に何を描くか―「キリスト以前」のイメージを探そうとして試行錯誤を重ねた末、田窪が選んだのは「リンゴ」であった。村がリンゴを植え始めたのは二百年前のことで、「キリスト以前」にはとても及ばないのだが、ここで作られるリンゴ酒カルバドスは、いまでは村の誇りだ。彼は、村人との交流を通じてこの村の「生命」を支えているものがリンゴであることに気づく。それは、妻と三人の子どもを抱えて移り住むという無謀とも思える彼の行為に応えて、村人たちが贈った無言のサインだったのかもしれない。田窪はようやく心を決める―村の「生命」を描こう、と。

 田窪がしみじみ語るのは、この仕事が「美術」かそうでないかなどということは、自分にとってどうでもよくなったということ。ここ(サン・マルタン・ド・ミュー)では家族が四六時中自分を見ている。金はないし、フランス語もいちばん下手だし、いい格好をすることはできない。だがその必要もない。こういう経験は東京では得られない。東京にいると「絵描きになることが目的になってしまう」、そして、いま、「今度こそ本気で絵描きになりたいと思った」こと。等々…。

 村の人と生活をともにし、彼らと同じ速さで歩けるようになって、初めて生活に根ざした作品が生まれる。「生活に根ざす」と言えば聞こえはいいが、それでは日本でも青森や長野に住めばリンゴをテーマに絵が描けるか。山形でサクランボの、山梨でブドウの絵を描くことがその土地の生活に根ざした芸術を生むことになるのか。それなら宮城では何を描けばいいのか。ことはそう単純素朴ではない。それは、田窪がたどりついたような「美術かどうかはどうでもいい」境地に至ったとき、初めて目に見える形を表してくるものなのだ。

 

なぜ「日本画」か

 「日本画」を描く人たちは、いまひとたび自分にとって「日本画」とは何だったのかを問い返してほしい。私からも敢えて問いたい。油彩ではなく、版画でもなく、「日本画」を選んだ理由とは、突きつめれば偶然だったのではないか。「日本画」は手段の一つにすぎなかったのではないか。

 「いや、ちがう!」と力んでほしいのではない。「日本画」にしかできないこと、それはほんの僅かなことなのだ。そう考えないと、「日本画」さえ描いていれば日本の伝統文化は守れるという錯覚すら生まれてしまう。「日本」の文化とは、そんな薄っぺらな土壌に育つものではない。「日本画」は手段だとひとまず割りきることによって、自分は何を表現したいのかが初めて見えてくるのではないか。それでも「日本画」を描きたいという心の底からの叫びがほしい。「日本画家」こそ、「日本画」によりかかってはならないと思う。

 

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この文章は、『宮城 県芸術年鑑 平成14年度』(2003年3月・宮城 県環境生活部生活・文化課)に掲載された「特集 21世紀を拓く(一)『日本画』は彷徨う」を、ブログ掲載にあたり加筆修正したものです。