ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

御後絵(おごえ)─復元か、再生か、それとも─  佐藤文彦『遙かなる御後絵』によせて

御後絵(おごえ)─復元か、再生か、それとも─ 

佐藤文彦『遙かなる御後絵』によせて

 

「沖縄研究ノート」17号(宮城学院女子大学キリスト教文化研究所・2008年3月)

アイヌ肖像画との対比
歴代琉球王の肖像画である「御後絵(おごえ)」に筆者が関心を抱いたのは、江戸後期に描かれたアイヌ指導者たちの肖像画である《夷酋列像(いしゅうれつぞう)》についての調査研究を続けるうちに、同じ東アジアの肖像画に見られる共通点と相違点を明らかにしたいと考えたことによる。
《夷酋列像》は、一七八九(寛政元)年に蝦夷地の国後・目梨地方で起こったアイヌと和人の大規模な衝突事件に際し、結果的に松前藩に協力的な立場をとったアイヌ指導者たち十二名の肖像を一七九〇(寛政二)年に蠣崎波響(一七六四~一八二六)が描いたものである。その精緻な筆致と鮮烈な彩色、厳しい表情の人物表現は京都の上流階級や江戸の大名たちの間で話題となった。とくに、アイヌ指導者たちが身に纏っている中国製の衣服は「蝦夷錦」と呼ばれて珍重されたもので、金糸をふんだんに用いて雲龍文様を刺繍した豪華な品であったが、波響はそれを見事な質感表現によって迫真的に描ききっている。
琉球の御後絵にも同じ衣服が登場する。中国が清代にはいると琉球王の冠服もそれに応じて大きく変わり、両肩および両袖に雲龍文を刺繍した衣装が現れる。
現存する《夷酋列像》としては、戦前から知られる原本の一部に加え、戦後になって別の一組の原本と考えられる作品がフランスで発見された。これによって、波響が天覧に備えて《夷酋列像》を再制作し、正本・副本を用意したことが裏付けられた。また近年では国立民族学博物館の共同研究グループ(代表者・大塚和義氏)による調査やシンポジウムなどにより、多くの写本を含ふくむ多面的な検討が行われ、徐々に成果が生まれつつある。
これに対して、御後絵は沖縄戦(一九四五)の最中に消滅して、一点も残っていないという。わずかに戦前撮影された十枚の白黒写真が、現代にそのイメージを伝えているのみである。こうした状況のもとでは、御後絵と《夷酋列像》を直接比較検討することは不可能であり、筆者も最近までその可能性を見出せないでいた。
ところが、一九九三年、沖縄の若い油彩画家・佐藤文彦氏が白黒写真を手がかりに御後絵の復元に挑戦し、一九九六年までに十点の作品を完成させた。さらに二〇〇三年、作品制作の経緯を詳しく述べた『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(註1)を上梓したのである。

本書の構成
本書の内容は、大きく前半と後半に分かれる。著者自身の執筆による前半では、著者が御後絵と出会い、その再生を果たすまでの経過が綴られている。後半部は、初期の御後絵研究者の一人、比嘉朝健が地元新聞に発表した論文、琉球絵画関係年表、および御後絵に関連する用語の事典などからなる、いわば付属資料編である。
五章に分かれた前半を概観すると、まず第一章では著者を御後絵研究にみちびく役割を果たした鎌倉芳太郎の名著『沖縄文化の遺宝』、琉球の古美術研究に功績のあった比嘉朝健、はじめて御後絵の写真を出版物に掲載した真境名安興等が紹介され、こうした先人たちとの「出会い」が著者を御後絵再生へと導いたことが語られている。
実物が失われ、白黒写真しか残らない御後絵の復元は、焼失した法隆寺金堂壁画の場合と比べてもはるかにむずかしい。法隆寺金堂壁画は、皮肉なことに模写作業中の失火による火災の犠牲となったが、専門業者によって撮影されていたカラー写真の分解ネガがあり、これによってかなり精密な復元模写が可能となった。御後絵の場合はそうした記録は全くないという。著者があえて「復元」と言わず「再生」と呼ぶのはそのことを考慮してのことであろう。
御後絵再生の最大の動機について、著者は「鎌倉芳太郎の沖縄文化に対する徹底した探求心と鮮明な写真画像に私自身の魂が激しく揺すぶられたからであった」と述べ、「現代絵画から見れば陳腐に感じるこの絵も、シルエットを描き色彩を施す過程のなかにこの王国独自の深い精神性に触れることができるかも知れない」という期待をもってこの仕事に打ち込んだという。
つづく第二章「遙かなる御後絵」で、著者は御後絵をはぐくんだ琉球王朝の歴史をふりかえり、中国(明・清)との冊封関係とその中で育まれた中華思想的な美の様式が御後絵の特徴的な構図をつくり出したと述べる。
ついで著者は御後絵を描いた宮廷画家=絵師の考察に移り、鎌倉芳太郎の研究成果に沿って、琥自謙(石嶺伝莫・一六五八~一七〇三)、呉師虔(山口宗季・一六七二~一七四三)、殷元良(座間味庸昌・一七一八~一七六七)、向元瑚(小橋川朝安)らを紹介する。最後に、第二尚氏初代王の尚圓(一四一五)~一四六七)を描いた御後絵をとりあげ、その特徴を指摘する。
第三章は、いよいよ御後絵再生の具体的な過程が作品ごとに語られるが、著者はそれに先立ち「現代絵画を専攻した者が…古い国王の肖像や民族的風俗画にのめりこんでいいものかという自問のくりかえし」があったことを率直に告白している。それに対しては「完成された古典画の様の中にこそ理想としての永遠の美が隠されているはず」と自らに言い聞かせてきたという。そして、最後の一枚が完成した瞬間、画面からオーラを感じ取り、身体全体が宙に浮くような浮遊感覚に襲われたという。
つぎに、著者は御後絵の表現が全体として古代中国絵画における勧戒画の流れをくみながら、琉球独自の様式を生み出している点として、山水画のように「絶対的存在感を示す聳え立つ国王像」をあげている。国王と従臣の像の大きさを極端に変えることにより、「そびえ立つ山を仰ぎ見るような国王像」がつくり出される。
以降、再生御後絵の制作過程が作品ごとに詳細に語られる。その中で最大の困難が彩色の特定であったことは容易に想像される。唯一の客観的な手がかりは鎌倉芳太郎が撮影した白黒写真であり、構図や形状はかなりの程度再現できたとしても、写真の明暗は必ずしも彩色の濃淡を示すとはかぎらない。色相の違いが感光剤の反応に影響して明暗となって現れることもあるからである。
写真に比べて主観的要素が多くなるとはいえ、御後絵を実見した人たちの記憶や印象も無視することはできない。著者は「後半の作品は実見した人物の助言を受けた後に描いたため、歴史的な背景を考慮したり、細部まで緻密に描くなど試行錯誤のあとがみられる作品群となった」と述べている。
第四章「図像解釈学からみた御後絵」では、イコノロジー(図像解釈学)の観点からあらためて御後絵を分析している。正面性(フロンタルビュー)の構図、明朝が国王用に制定した皮弁冠服の着用、衣服に表された龍の文様、国王が手にしている「圭」、王と従臣たちの足下を飾る敷瓦などについての考察がある。
さらに、著者は明代の御後絵と清代の御後絵の表現の違いを明確に指摘し、なかでも絵画空間の表現に大きな違いが見られるという。明代の御後絵が近景、中景、遠景と積み重ねたような奥行きを示しているのに対し、清代の御後絵では中景の一部と遠景が省略され、雲形を配した幕のようなものが背景を埋め尽くしている。すなわち、明代では王の後ろに大きな衝立があり、その奥に文房具が描かれ、さらに細い格子のはまった窓(明かり障子か)があるなど、現実の宮殿内に近い表現であるのに対し、清代では特設舞台のように単純で平面的な背景に変わっている。
また、国王と従臣たちの関係を見ると、明代の御後絵では像の大きさがせいぜい二対一程度であるのに対し、清代にはいるとその比は三対一ほどになり、国王の圧倒的な迫力が強調される結果となっている。その結果、清代の御後絵では「国王像の強調と装飾化」がすすむことになる。
著者は、最後に地域的な影響関係の考察に入り、東アジア各国の国王級肖像の比較対照を試みている。いずれも中国を軸に交易関係、冊封関係のあった地域であり、共通する点は多い。とくに、朝鮮との関係は、背景の日月を描いた衝立などとも合わせ、図像的に極めて近いものがある。
以上の比較検討を経て、著者はアジア諸国の肖像画と御後絵の表現様式について、次の三点を指摘する。
一、中国との朝貢・冊封関係を反映した絵画様式であること
二、明朝から清朝への移行に対応して御後絵の表現様式が明確に変化すること
三、琉球の絵師が養成されることにより琉球独自の絵画様式が確立したこと
第五章は、琉球王朝時代の画人「五大家」の第一と言われる自了(欽可聖、城間清豊・一六一四~一六四四)の生涯と作品についての紹介である。

作品実見と所見
筆者(井上)は、二〇〇七年度の沖縄現地調査にあたり、本書の著者・佐藤文彦氏に面会する約束を取り付け、十二月十八日に作品の実見と聞き取り調査を行った。
伝統的な画法によらず、しかも白黒写真から彩色画の復元ができるのか。素朴な疑問とともに、そうした難題に挑戦する画家の意図がどこにあるのか確かめたいという、いささか好奇心も手伝っての会見であった。
佐藤文彦氏は、一九六六年東京都生まれ。一九七四年、家族とともに沖縄県那覇市へ移転、今日に至る。沖縄県立芸術大学卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術(油画)専攻修了、博士(美術)学位を取得した。現在は沖縄県立芸術大学非常勤講師。
佐藤氏の案内で沖縄県立芸術大学に保管されている作品二点を実見させていただいた。

〈第十四代尚穆(シヨウボク)王〉 一九九五(平成七)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×168

佐藤文彦《御後絵 十四代尚穆王》1995  

〈第三代尚真王〉 一九九六(平成八)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×174

佐藤文彦《御後絵 三代尚真王》1996  

実際の画面は、図版で見ていたときよりも落ち着いた色調であり、アクリル絵の具を用いているにもかかわらず、日本画の画面に近い印象を受けた。佐藤氏によると、第一作〈第八代尚豊王〉の制作を始めたときから、アクリル絵の具だけでは東洋画の雰囲気が表現できないので、顔料をアクリル・グルーと混ぜて併用したという。また、支持体の綿布に部分的に和紙を貼って東洋画の質感を出したという。
予想よりは落ち着いた色調とはいえ、〈第十四代尚穆王〉では黄色系の色がかなり強く、江戸後期十八世紀末の絵画としてはやや異質な色調といえよう。〈第三代尚真王〉のほうは、一部の従臣たち(王に最も近い四人)の衣装の色をのぞけば違和感はそれほど強くない。むしろ思ったより繊細で古様な画面に驚かされた。

復元は可能か
「再生」された御後絵は、沖縄県内で大きな反響を呼んだ。しかし、必ずしも肯定的な評価ばかりがあるわけではない。氏が自ら同書中で述べているように、すでに制作中から「国王の衣裳の色が違う」という指摘が実際に御後絵を見た真栄平房敬氏によって行われている。
佐藤氏は、最初の作品である「第八代尚豊王」の衣裳の色を、白黒写真から得た自身のイメージによって青と決め、それを浮き立たせるために周囲の人物や調度を赤系の配色で描いた。ついで、第二作「第十一代尚貞王」からはがらりと赤系の配色に変わるが、そのきっかけは「当時復元して間もない首里城の色彩から受けるイメージがあまりに強烈だったこと」、そして東京で見た尚家関係資料の中の国王衣裳が赤地であったことなどであった。第三作、第四作、第五作まで進んだとき、佐藤氏は先の指摘に出会ったのである。御後絵を実見した者の「証言」の重みは大きい。
直感的な断定、あるいは類推による色彩の決定については、当然ながら研究者の間からも批判が起こるであろう。佐藤氏が強烈なイメージを受けたという復元首里城の色彩にしても、決定までには国内外の資料による厳密な検討が行われている。また、氏が東京で見た尚家関連資料の中にはたしかに赤色の唐衣裳(清代)があるが、同時に頒賜品の生地を琉球国内で仕立てたと思われる真っ青な唐衣裳(同)もある。
御後絵の「再生」に使われた画材がアクリル絵具とキャンバスであることも、批判の対象となりうるだろう。伝統的な画材を用いてこそ復元の意味があるという理念的な主張はともかく、細部の線描や色面の微妙な質感はそうした画材を用いなければ表現できない部分があるのではないか。
さらにその線描について言えば、国王をはじめ人物の面貌表現に見られる描線の質は、明らかに日本画のそれではない。佐藤氏はむしろ意識的に無性格な描線を描いているようにも見える。それは写真から得られる情報がそれ以上のものでないからであろう。清朝期の御後絵である尚穆王の顔面に現れているはずの陰影表現が曖昧な印象を与えるのも、同じ原因によるものかもしれない。
御後絵を「復元」する手だては、果たして皆無であろうか。
すでに鎌倉芳太郎が指摘しているように、「諸臣肖像画」と呼ばれるもののなかに絵画作品として高い価値を持つものがあり、その何点かが現存する。佐々木利和氏(国立民族学博物館)は、東京国立博物館在職中にこれらを含む琉球絵画の基礎的調査を実施し、報告書「民族誌資料としての琉球風像画の基礎的研究」(一九九八年)において三点の現存作品を紹介している。(註2)
1.紙本著色片目の地頭代倚像 乾隆二四(一七五九・宝暦九)
2.紙本著色東任鐸倚像 道光一九(一八三九・天保一〇)
3.紙本著色宮良長延坐像
これらの現存作品に共通するのは、佐々木氏が述べているように「格段に高い画技」とすぐれた「写実描写」である。なかには宮廷画師・殷元良の関与が推定されるものさえあり、御後絵との関連で無視できない。
これらの直接的な参考資料に加えて、文献による検討も必要である。中国王朝から琉球王朝への冊封に際して頒賜された王冠や唐衣裳を初めとするさまざまな頒賜品の記録などに手がかりとなる情報が残されている可能性もあろう。また近年、豊臣秀吉に頒賜された明代の冠服の存在が明らかとなり、これと琉球国王の冠服との類似性から新たな知見が報告されている(註3)。これらの調査研究と並行して御後絵の復元事業の動きもあるという。研究の進展にともなう復元の可能を期待したい。

復元か、「再生」か、それとも
佐藤氏は、もちろろんそのことに気づいていた。第六作「初代尚円王」からは、キャンバスに和紙を貼り、絵の具にアクリル・グルーをまぜて日本画の質感を出そうとした。「和紙と絵の具は良く馴染み、筆の運びもスムーズに描けるようになった。」さらに第七作では和紙に加えて絹布を貼り込み、次第に伝統的な手法に近づいていく。筆者が実見したのは、こうした試行錯誤がようやく一つの回答を見出した 第八作「第十四代尚穆(シヨウボク)王」と、第十作「第三代尚真王」であった。紙幅の関係で細かい分析は記せないが、そこにはおぼろげながら浮かび出た歴代の御後絵のイメージとともに、明快な色調と軽快な線で作り出された佐藤文彦自身の世界があった。
もともと、佐藤氏はこの仕事を敢えて「復元」と呼ばず「再生」と言い続けてきた。学術的にに厳密な復元を目指したのではなく、琉球王府時代の絵師の心境に少しでも近づき、そこから何かを学び取ろうとしたのだとすれば、彼の目的はほとんど達せられたことになるだろう。
佐藤氏は、前半の五点については「後日改画の予定である」という。仄聞する御後絵復元の動きも気にかかるが、筆者は氏の「改画」を必ずしも期待しない。試行錯誤を重ねて制作された大作の「改画」は容易な作業ではないだろう。それに費やすエネルギーは莫大な量となろう。むしろ、「再生」御後絵の制作の過程で獲得したさまざまな知見と体験を、新たな創作に活かすことこそ、彼にふさわしい仕事なのかもしれない。
蠣崎波響は、《夷酋列像》を再制作したあと、二度とこの種の作品を描かなかった。その理由はまだ解明されていないが、極限まで追求された精緻な表現は、その後の作品の随所に活かされ、数々の名作が生まれている。《夷酋列像》はたしかに波響の代表作だが、決して代名詞ではない。
佐藤氏の感性と技倆、そして情熱が御後絵だけに費やされることなく、新たな沖縄美術の創生に注がれることを切望するとともに、学術的な立場からの御後絵復元の条件が整うことを期待したい。

註1 佐藤文彦『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(二〇〇三年・作品社・二八〇〇円)
註2 佐々木利和(研究代表者)『民族資料としての琉球風俗画の基礎的研究』(一九九八年・平成七~九年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書)
註3 那覇市歴史博物館編『国宝「琉球国王尚家関係資料」のすべて 尚家資料/目録・解説』(二〇〇六年・沖縄タイムス社)

謝辞 本稿の執筆にあたり、ご協力いただいた佐藤文彦氏、および貴重なお話しをいただいた父上の佐藤善五郎氏に厚くお礼申し上げます。