ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

2004年 宮城県日本画のうごき

                             井上 研一郎

  2004年の県内日本画をめぐる動きを述べる前に、畑井美枝子の逝去を取りあげなくてはならない。

 十二月一日、突然の訃報であった。享年八十八歳。一九一六(大正五年仙台に生まれ、三五年(昭和一〇)年に宮城県女子専門学校を卒業、まもなく畑井小虎と結婚して一男一女をもうけ、主婦業のかたわら日本 画を描き続けた。

 一九三六(昭和十一)年、河北美術展に初入選、以後連続入選二十回という。六五(昭和四十)年からは招待作家、八三年に顧問となった。一九五五(昭和四十)年、日展の山口蓬春に師事し、同年の第8回新日展に《待宵》で初入選、以後入選8回。日春展には六十七(昭和四十二)年以降十七回入選している。蓬春の死後は加藤東一の「轍会」に参加した。

 一九六九(昭和四十四)年には日本画サークル「未生会」を設立、八五(昭和六十)年には「日本画研修のつどい」を主宰、また市民センターや文化教室の講師を永年勤めるなど、後進の指導、養成にも熱心であった。葬儀のとき小野恬が「県内日本画界のお母様」と弔辞のなかで表現したように、現在県内で活躍する日本画家には、畑井のもとで学んだものが少なくない。

 畑井自身の作品は、身近な題材をモダンな明るい調子で描いたものが多く、宮城県美術館には《庭にて》(一九五五)、《化石の渓》(一九七八)の2点が収蔵されている。

 永年の制作と活動に対しては、一九八一(昭和五十六)年に「宮城県教育文化功労者」、八四(昭和五十九)年に「仙台市市政文化功労者」、九三(平成五)年に「地域文化功労者」(文部大臣表彰)、二〇〇二(平成十四)年に「河北文化賞」などの表彰を受けている。

 私事にわたることだが、最晩年の畑井さんは筆者が講師を務めていた日本美術史の講座の受講生でもあった。日本画教室の講師をやめられたあと「今度は生徒になります」と言われて、杖をつきながら通ってこられた。最後まで学ぶ姿勢を失わないその生き方には感服するのみである。心からご冥福をお祈りする。

 

 「第六十八回河北美術展」(四月二十三日~五月五日・仙台・藤崎本館)の日本画部門では、次の7名が受賞した。

「河北賞」《幸》高橋 宏宣

「宮城県知事賞」《水のスイング》諸星 美喜

「一力次郎賞」 《去りし人に》遠州 千秋

「東北放送賞」《空へ》田名部 典子

「宮城県芸術協会賞」《キッチン》高瀬 滋子

「新人奨励賞」《刻》大嶋 幸悦

「東北電力賞」《ぬくもり》梅森 さえ子

 諸星、大嶋をのぞく5名が宮城県(仙台市)在住者である。

 高橋《幸》は、椅子に座る母娘(作者の長女と孫)を細かな線描で描く。モザイクか点描に近い画肌が何気ない風景に物語性を与えている。オレンジがかった色調と人物の穏やかな眼差しが印象的であった。油彩の制作が多く、日本画は十数年ぶりの挑戦という。諸星《水のスイング》は、水中を自在に泳ぐアナゴを真上から描く。近寄ってリアルな描写を確かめるのもいいが、離れてそのリズミカルな動きを追うほうが楽しめる。たくさんに見えるアナゴは、じつは1匹なのかもしれない。遠州《去りし人に》は、花を植える幼い日の自身の写真をモチーフにしたという。俯瞰的な構図は亡き父のまなざしを意味することが、タイトルからもうかがえる。田名部《空へ》は群生する極楽鳥花の上を舞う1枚の羽をリアルに描くが、空間は水墨のたらし込みで埋め尽くされ、むしろ抽象的な印象を与える。新しい表現である。高瀬《キッチン》は、慌ただしい朝の台所の情景をほとんど真上からの視点で大胆に表現する。ここに来て作者独自の色調と俯瞰的な構図が確立したかに見える。破綻しそうな構図を乳白色の色調が支えている。大嶋《刻》は、杉の巨木を根本から見上げたこれも大胆な構図。全体を細かい筆致と抑えた色調で描きつつ、折れた梢とその周囲の色調を変えて作者の意図を表わしている。右下の空を舞う鷲は効果的だが、説明が過ぎる気もする。梅森《ぬくもり》は新境地である。並んだ白いカブを色とりどりの野菜が囲む。カブのみずみずしさと非現実的な色彩の共存が楽しい。

 受賞者以外では、三浦長悦《樹声》丹念に描かれた細枝の間から見える高層アパート。仰角で描いたことで空間が一気に広がった。枝はもう少し整理してもよかった。石川ちづ江《初冬の森》霧の中のブナ林を描くが、背景に均等に具がかかったために奥行きが失われた。霧の表現は難しい。鈴木利平《唐黍畑晩秋》収穫を終えたトウキビ畑を線描を生かした細密な表現で画面いっぱいに描くが、クモの巣とキジのつがいに視線が奪われ、せっかくの力強いイメージがこわされている。阿部志宇《春装》イチョウの巨樹(乳銀杏)と若葉。雰囲気は感じられるが、新芽の形が単調なためにいまひとつの生命感が不足している。後藤佐幸《晩秋の籾殻焼き》は、実際の籾殻を用いたマチエールが面白い。今野しげよ《光芒》の白骨のような立ち枯れの樹木と空間。千葉勝子《夏のソナタ》ヒマワリの背景を群青jでまとめるという大胆な意欲。佐々木啓子《空》ミルクタンクローリーの凸面鏡のような表面に映る空を捉えた意欲作。 

 

 グループ展ではまず「第7回実生会小品展」(5月21日~26日・せんだいメディアテーク)をあげなくてはならない。 「実生会」は畑井美枝子が主宰していた日本画サークル。2003年は小品展開催の年に当たっていた。47人の会員のうち43名が合計86点を出品、 元会員3名と畑井自身の作品をふくめ90点余りが会場に並んだ。小品とはいえ、これだけの点数が並んだ会場は圧巻であった。熊谷眞由美《秋明菊》は短冊形の画面を生かしてシュウメイギクの優美な姿を捉えた。梅森さえ子《白いシャツ》は風に翻る白いシャツから生まれる幻想を形象化しようとする異色の画面。荒敬子《処暑Ⅱ》朱色のミョウガと染付けの香炉を銀地に浮かべるという洒落た構成が目を引いた。この他、田名部典子、大泉佐代子、毛利洋子、佐藤朱希らの作品がそれぞれに光っていた。指導者を失ったこの会が今後どのような道を歩むのか、気がかりである。 

 

 実生会とほとんど時を同じくして、飯川竹彦の主宰する竹彩会の「さわらび展」(5月18日~23日)が開催された。飯川は丸森町の齋理屋敷でも「絹とあかり展」(11月2日~28日)を開催するなど、絹地に描く古来からの技法を現代に生かそうと地道な活動を展開している。飯川の発言については以前触れたことがあるが、作品は今回初見であった。イタリア、アッシジでの取材による《Day-light》《Night-light》のシリーズに見られるように、光を最も重要なテーマとしているようだ。堅実な技法に裏打ちされた開拓精神が生み出す画面に今後とも注目していきたい。 

 

 「蒼風社展」(9月28日~10月3日・東北電力グリーンプラザ)、墨葉社「第25回墨画展」(5月28日~6月2日・せんだいメディアテーク)、第12回人物画研究会作品展2004」(10月29日~11月3日・せんだいメディアテーク)などが開かれた。人物画研究会展での田名部典子《竜田》は、現代的な装いの女性の上半身を横長の画面に描き、頭部の周囲を深紅の紅葉が乱舞するというもので、画肌もよく工夫され、写実と装飾、古典と現代の融合をめざす作者の思いがよく伝わる佳品であった。

 個人では 奥山和子「日本画のみち」展(11月26日~12月1日・せんだいメディアテーク)は、作者初めての個展で、10年間の制作を振り返る展示。 身近な人物像が中心で、自身も語るように、構図や形より色遣いを楽しんでいるような自由な雰囲気が伝わる。河北展で見たとき気になった《唐花草(ホップ)を持つ女》も、ここで見るとあの浮いたようなホップの葉の色にこそ作者の心が込められていたと知らされる。

 、このほか、昨年に引き続き櫻田勝子が「日本画展」(4月13日~25日)を開き、佐々木裕美子(9月21日~26日・古川市民ギャラリー緒絶の館)、及川聡子(9月23日~30日・スペースumu)もそれぞれ個展を開催したが、櫻田以外は見逃した。 

 2005年後半の大きな話題は、仙台では17年ぶりという「日展」巡回展(6月19日~7月11日・せんだいメディアテーク)の開催であろう。日本画75点をはじめ、油彩、彫刻、工芸、書、あわせて304点という大規模な展観は、来場者を圧倒するに十分であった。日本画75点の中には宮城、岩手の関係作家7点が含まれた。また本展が宮城県美術館でなくせんだいメディアテークで開催されたことに端を発し、公募展の会場問題が再燃したかに見えたが、新聞などの論調は公立美術館の現行の運営方針を大きく揺さぶる方向には進まなかった。 

 その宮城県美術館で開かれた「福田豊四郎展」(11月2日~12月19日)は、《秋田のマリヤ》で知られるこの画家の全貌を初めて宮城県民の前に明らかにしてくれた。モダニズムの直中に身を置きながら、ふるさと秋田をこよなく愛し、描き続けた画家の足跡は、宮城になぜこのような画家が生まれないのかという素朴な疑問をも喚起したように思う。

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この文章は、『宮城県芸術年鑑  平成16年度』(2005年)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。 

 

 

2003年 宮城県日本画のうごき

『宮城県芸術年鑑  平成15年度』(2003年3月・宮城県環境生活部生活・文化課)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。 

 昨年、「『日本画』は彷徨う」と題する一文の中で、現代の「日本画」が抱えている根元的な問題を指摘し、なぜ「日本画」を描くかを問い返してほしいと述べた。(『宮城 県芸術年鑑 平成14年度』(2003年3月・宮城 県環境生活部生活・文化課))

 その直後の2003年3月、〈転位する「日本画」〉と題するシンポジウムが横浜で開かれた。2日間にわたる報告と討論は、「朝日」「毎日」などの全国紙や「河北」でも取り上げられ、予想以上に大きな反響を呼んだようだ。私は残念ながら初日しか参加できなかったが、その後のいくつかの論評を含め、大いに学ぶべき点があった。

 しかし、私自身の昨年の主張を基本的に変更する必要は感じない。手短にくりかえせば、「日本画」を描く人たちは、なぜ「日本画」なのかを絶えず自身に問い返してほしいということ、「日本画家」こそ「日本画」によりかかってはならないということであった。

 

 まず、おもな全国規模公募展への県関係作家の入選は、次のとおりである。

 「第三十五回日展」入選者

 佐藤朱希 《秋陽 透る》

 七宮牧子 《刻》

 天笠慶子 《魅せられて育てて》 

 

「再興第八十八回院展」入選者

 小野恬(特待) 《惜春》

 大泉佐代子(初) 《望郷》

 伊藤英(初) 《春光》

 毛利洋子 《萌し》 

 

「第三十九回日春展」入選者

 天笠慶子 《アイリスに染まる》

 安藤瑠璃子 《春を待つ》

 佐藤朱希 《春の望むままに》

 七宮牧子 《暮れる》

 高瀬滋子 《もり》

 福田眞津子 《ナターシャーの春》

 松谷睦子 《小春》 

 なお、能島千明が日春展会員となった。

 

 

 東北最大規模の公募展「第六七回河北美術展」(四月二十五日~五月七日・藤崎本館)の「日本画」部門では、次の七名が入賞した。

 

 「河北賞」《いのちを守る為に》遠州千秋

 「宮城県知事賞」《道の向こう》佐々木順子

 「一力次郎賞」《シャモ》堤久美子

 「東北放送賞」《十一月の地》渡辺房枝

 「宮城県芸協賞」《紋》月舘圀夫

 「新人奨励賞」《女の子と女》早坂有可

 「東北電力賞」《悲》安藤瑠璃子

 

 早坂有可氏をのぞく六氏はいずれも宮城県出身者である。 

 遠州《いのちを守る為に》は、画面中央に二本のチューリップが横たわるだけの無駄のない構図が目をひいた。佐々木《道の向こう》は線描に徹して成功した。堤《シャモ》のこれほど強い赤は珍しい。シャモだから許される色なのだろう。渡辺《十一月の地》では田の畦を、月館《紋》では水面を、いずれも真上から見た構図が一見抽象的とも思える効果を生み出している。早坂《女の子と女》のデッサンと構成、細部への気配りは将来が楽しみだ。安藤《悲》の強烈な赤は、身体を寄せ合う男女の思いを伝えて余りある。

 賞候補として選ばれた作品にも注目すべきものがあった。多彩な手法と大胆な構成、そして謎めいた題を得意とする阿部悦子《貝》、単なる装飾を超えた構成の妙が冴える梅森さえ子《マーガレットの詩》、水辺の紅葉を淡色で仕上げて成功した佐々木玲子《煌奏》、など、相変わらず女性が圧倒的だが、能島千明《猫と》に見られる猫と首をかしげた人物のかたちの対比は面白く、金沢光策《無人島》の幻想的風景も捨てがたいものがあった。昨年河北賞を受賞した高瀬滋子の独特の空間意識は、今年の作品には見られなかった。 

 

 第四十回宮城県芸術祭絵画展(十月三~十五日・せんだいメディアテーク)では、次のように「日本画」部門の受賞者が決まった。

 

  県芸術祭賞 宮沢早苗《時》

 県知事賞 佐々木啓子《Eternal Season 4》

 仙台市長賞 三浦ひろみ《花03-13 Germinal  Fear》

 河北新報社賞 毛利洋子《兆し》

 県美術館賞 千葉勇作《月天心―政宗想う》

 成瀬美術記念館賞 松谷睦子《秋立つ》 

 

 宮沢は、自身も一緒に網繕いをしているような光景を、絵の具の盛り上げを多用して丹念に作り上げた。佐々木の作品は松(?)の花と枯れススキとの対比が見事であった。三浦の水墨表現はスピード感のある筆さばきによって効果をあげている。毛利は複雑な枝ぶりの樹木表現に挑戦しているが、今回は細枝にとらわれすぎて太枝が埋もれた感がある。線やかたちの面白さは、その仕組みを理解していないと空虚な図形に堕する危険を孕んでいる。千葉の画面は、襖絵のような松島の景観を背景に独特の表現で伊達政宗を描く。松谷の画面で不揃いに見える輪郭線は、意図的なものだろうか。 

 

 グループ展に移ろう。

 畑井美枝子の「日本画」サークル「実生会」の第十六回作品展(六月二〇~二五日・せんだいメディアテーク)には、総計五十一点(目録では五十四点)が出品された。岩佐安子《冬樹》深緑の中に白く浮かぶ大樹の幻想的な姿。小川品子《明日への望み》は、関根正二を思わせるひたむきな表現がタイトルの陳腐さを救っている。黒田文子《侑香と侑美》の向かい合って笑う二人の少女の楽しそうな表情、ポーズも自然でよい。後藤とし子《散歩》は茶髪の現代的な娘と犬。突き出した顎に性格が表れ、後ろの犬との対照もおもしろい。佐藤松子《黍籠》はトウキビを入れた籠を持つ少女。黄橙色系で季節感を出し、珊瑚(?)の髪飾りも効果的。菅井粂子《厨にて(祖母93歳)》では、割烹着の後ろ姿に作者の想いが託されている。吉田三千子《小憩》は仕事の疲れを癒すひととき。線描で表したパソコンがすべてを語る。無駄のない構成。

 これらのほか、武田睦子《憩う》、上地静枝《潮騒》、梅森さえ子《時の色》、加藤淳子《風に遊ぶ》、草刈はな《湿原の彩り》、西村彰子《春愁(唐三彩)》などが印象に残った。

 元会員では、大泉佐代子《終わる春》の大作が目を引いた。池と対岸の樹木を緻密に描き、わずかな桜が題意を強調する。佐藤朱希《風と》、高倉勝子《春》、小野恬《ふたつ》も各々豊かな表現を見せていた。

 墨葉社の「第二十四回墨画展」(五月三十日~六月四日・せんだいメディアテーク)は、主宰者の大羽比羅夫(二〇〇二年十一月没)を追悼する場となり、大羽の遺作三点、大羽貞子特別出品一点、奥山佳雪らの百四十点が一堂に並んだ。

 高倉勝子の主宰する「第二十二回墨彩会水墨画展」(九月五日~十日・せんだいメディアテーク)は、二十人が四十九点を出品、作者の想いがそれぞれ素直に表出された詩情豊かな展観であった。齋藤たま《若葉風》湖面をわたる風《緑陰に憩う》公園の母子像。にじみを生かした画面。新井田峰雪《霧の晴れ間から》ほか広大な空間表現。細部に神経行き届く。深堀水聲《Brotherhood》ユニークな発想と文人風素朴表現が融合。主宰・高倉勝子:《弓弭の泉》《北上の流れ幻想》奥羽をめぐる蝦夷と朝廷の攻防と盛衰の歴史を文書と絵でつづる力作。

 このほか、「第三回浅葱会日本画展」(六月十七日~二十二日・東北電力グリーンプラザ)、「第二十二回墨泉会水墨画展」(九月五~十日・せんだいメディアテーク)、「遊美会」(七月・東北電力グリーンプラザ)などで、いずれも真摯に取り組んだ作品が見られた。

 

 個人レベルの展観では、櫻田勝子が二度にわたる個展(四月十三~二十五日・晩翠画廊、七月八~一七日・藤田喬平ガラス美術館)を開催した。京都の桜と東北のブナという一見対照的な題材が、自然の生命力への畏敬という作者の姿勢によって統一されている。また主宰する「日本画」教室の受講生作品展(十一月十八~二十四日・東北電力グリーンプラザ)には力作が並んだ。今後自らの作風の幅を広げることによって受講生の多彩な成長を期待したい。

 金沢光策個展(六月三~八日・晩翠画廊)も見応えある展観であった。「日本画」の画材を油彩画のように自由に使いこなして創られる重厚な画面は、見る者の襟を正すような風格を持っている。

 このほか、「高橋睦 日本画作品展](六月一~八日・一番町画廊)などは見ることができたが、仕事の都合で見逃してしまったものも多い。また、中国の画家による「日本画」展という、不思議な展観が目立った年でもあった。 

 

 美術館・博物館等で開催された展観にもひとこと触れておきたい。

 宮城県図書館蔵の生物図鑑『禽譜・観文禽譜』『魚蟲譜』が、同館で「宮城の至宝展」として公開された(二月十一日~三月二十八日)。一月に県指定有形文化財(書籍)の指定を受けたもので、美術的にも価値が高い。だが、最初で最後の公開と騒がれたにしては説明が少なく、誤りも散見され、物足りなさが残った。今後は研究者・作家や学生に対する特別観覧等の配慮が望まれる。

 

 最後に二つの展覧会の名称だけあげて、これらの企画への努力に敬意を表したい。

○「生誕百年記念展 棟方志功―わだばゴッホになる」(四月五日~六月十五日・宮城県美術館)

○「伊達家の茶の湯」(四月十八日~五月二十五日・仙台市博物館)

 

 

「日本画」は彷徨う

                                井上 研一郎

はじめに

 「日本は疲れています。日本は自信をなくしています。日本人は彷徨い続けています。」という書き出しで始まった2002年の文化審議会の中間答申序文は、最終答申では素っ気ない文章の「まえがき」のさらに前の落ち着かないところに掲げられているが、この文章の「日本」「日本人」を「日本画」に置き換えてみると、これは当たっているかもしれないという気がしてくる。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/021201.htm

 明らかにいま「日本画」は彷徨っている。たとえば、青梅市立美術館の松平修文氏は、次のような表現で現状を憂えている。

 「脳天気な自然賛美や装飾の域を出ない花鳥、人物、風景画、底の浅い現代アートまがいの真似っこ画が横行する日本画界…」

 たしかに、そうした作品は少なくない。とくに公募展の会場に行くとその傾向ははっきりと見て取れる。相変わらず師弟関係と団体のピラミッド構造の中に安住する作家の多いことがうかがえる。それはほかのジャンルにも当てはまる現象ではあるが、「日本画」においてはとくに著しい。そしてその構造はより単純化された形で「中央」から「地方」へと波及していく。

 

中央と地方の乖離

 2002年の夏、私は知人の美術館学芸員を通じて、某新聞社が主催する「日本画大賞」の作品推薦委員を委嘱された。「21世紀の美術界を担う新進気鋭の日本画家の表彰」「次代をリードする画家の発掘」が目標という。全国で45人の美術館学芸員、評論家らが推薦委員として選ばれたという。筆者は仙台に住む身で、東京へは年に数度しか出ないし、まして関西へ行くことは少ない。そんな人間が委嘱されるということは、宮城 県内で該当する有望な作家を見つけろということなのだと解釈して、引き受けた。

 それにしても、なぜ今さら「日本画大賞」か、いささか不可解ではあった。以前は東京の日本画専門の美術館が大賞を設け、若手日本画家の登竜門となっていた。それが数年前に休止されたあとだけに、今回の大賞も新人発掘が眼目なのだと私は考えて、ある作家を推薦した。資料をそろえるにあたっては地元の新聞社にも無理を言ってご協力いただいた。グランプリは無理でも予選には入るかもしれないと予測していた。

 選考の結果が発表され、私の予測は見事にはずれた。大賞の受賞者は2名、いずれも前の日本画専門美術館の大賞を受賞し、美術大学の教員をつとめる作家であった。何のことはない、すでに功成り名を挙げた人たちではないか。入選作品はわずか十四点、これも多くが美術大学の教員であった。中には私が前から注目している作家も幾人か含まれていたが、それにしてもこれでは地方の若手作家が入り込むすきはほとんどない。選ばれたのは明らかに「中堅作家」たちであった。

 同展のカタログに記載された作家略歴を見ると、まず十四人の出身地はすべて東京以西である。東京など関東地方が九名、近畿地方が四名、北限は茨城県。出身大学は東京藝術大学が六名、京都市立芸大が専攻科を含めて三名。以下武蔵野美大三名、多摩美大、愛知芸大が各一名。受賞歴は創画会賞五名、日本美術院賞・大観賞三名、山種美術館大賞二名、東京セントラル美術館大賞一名など。優秀賞、奨励賞のたぐいはほとんどの入選作家が受賞している。団体所属を見ると、創画会が会員・会友合わせて五名、院展同人が三名、日展が会員・会友合わせて二名となる。最後に入選者たちの現職。十四人のうち八人が東京藝術大学はじめ美術大学の教員である。

 この数字は、現代日本画壇の「中堅作家」たちの現状を反映していると言ってよいだろう。東京と関西に偏在する限られた作家群。もちろん、北海道から沖縄まで全国には多数の画塾があり、無数の日本画愛好者がいる。しかし、その指導的存在たるべき「中堅作家」は、ごらんの通り東京と関西にしかいないのだ。これが「日本画」であろうか。いっそのこと「東京・関西画」と呼んだ方がよいのではないだろうか。

 主催者からの文書では「当初三十作品程度を第一次選考で選ぶ予定」だったが、「選考の結果」こうなったとある。これには入選作を並べる会場の狭さ(入選作品の巨大さ?)が影響していたという話も聞くが、いずれにせよ主催者や選考委員の思惑と地方の推薦委員の思い入れとの間には、相当な隔たりがあったのではないだろうか。

 選考委員たちの言葉をカタログから拾ってみると、「…痛感したことは、有力な作家の活動に目配りする一方、新たに意欲的な作家を発掘する推薦委員の方々の重要な役割である」と述べる浅野徹氏のような推薦委員の役割を評価する意見がある一方、「今回推薦を受けたのは四十二名の作家で、意外に重複が少なかったし、これはほかの選考委員からも聞かれたが、もし自分が推薦する立場なら当然推薦すると思う人達が推薦されていなかった」とする内山武夫氏のように推薦委員との認識のズレをはっきり指摘する意見もある。

 一つの事例にすぎないこの問題に、立ち入りすぎたかもしれない。しかし、せっかく推薦を委嘱されて、それなりに悩んだすえに下した判断が、主催者の意向とすれ違いに終わってしまったという今回の結果は、どうも現在の「日本画」界における「中央」と「地方」の関係を端的に現しているような気がしてならない。

 

日本画」とは何だったのか

 この小文で「日本画」とつねにカッコ付きで表記するのは、私がこの概念について疑いを持ち始めているからだ。そもそも「日本画」という言葉は、明治維新という未曾有の「構造改革」のなかで生み出された用語であった。それは、江戸時代までの伝統的絵画とは一線を画した革新的な絵画の創造を意味していた。そして、その「創造」が成就した暁には、「日本画」と「西洋画」の区別すら消滅するはずであった。明治の「日本画家」菱田春草が次のように語ったことはよく知られている。

  「現今洋画といはれてゐる油絵も水彩画も又現に吾々が描いてゐる日本画なるもの  も、共に将来に於いては、…勿論近いことではあるまいが、兎に角日本人の手で作  成したものとして、凡て一様に日本画として見らるゝ時代が確かに来ることゝ信じ  てゐる。」

日本人が描く絵は「凡て一様に日本画」と言われる日が来る、つまり「日本画」が油絵や水彩画などの「洋画」を取り込みながら新たな「日本画」となる―春草はそう信じつつ、短い生涯を閉じた。しかし、その春草が所属した日本美術院は、いまだに「洋画」とは別の団体として健在である。創設百周年を迎えたとき「院展はもう解散してもいいのではないか」という声が一部で囁かれたと聞くが、いつの間にかそれも忘れ去られたようだ。

 その後の日本社会の「構造改革」の激しさに比べると、「日本画」が担っていた「革新」と「創造」は、不徹底なままであった。「洋画」は「日本画」に吸収合併されることはなく、「日本画」はつねに「洋画」に対する用語として使われつづけてきた。いまや「日本画」と「洋画」を区別する唯一最大のよりどころは、画材・技法上の区別にすぎないようにも見える。

 顔料と墨と膠を用いた伝統的な技法による絵画を「日本画」と呼ぶなら、油彩画は(水彩画も含めて)いつまでも「西洋画」と呼ばれなくてはならないだろう。いっぽう、展色剤の区別によって「油彩画」という呼称があり続けるのなら、「日本画」は思い切って「膠彩画」と名称変更しなければ生き残れないことになる。かつてそういう議論もあったのだが、そうなると「水彩」絵の具も展色剤は「アラビアゴム」であって「水」ではないし、「日本画」でも最近は膠以外の展色剤を用いることもあるようだから、私もあまり語感のよくない「膠彩画」などという呼び方にこだわるつもりはない。では「日本画」は「日本画」のままでほんとうによいのか。

 墨や膠をもちいる絵画が日本だけのものでないことは明白だ。もともと中国に生まれて周辺に広がったこれらの材料と技法が、たまたま日本にも定着して今日に至っているのだという、ともすれば忘れられがちな事実。これを認めたうえで「日本画」をあらためて考える必要があるだろう。

 いうまでもなく、日本にもたらされたこれらの画材と技法は、中国とも朝鮮ともちがう独自の発達を遂げた。では、それを現代の「日本画」はどのように受け継いでいるのだろうか。現代の「日本画」が自己の存在を主張できる根拠が、画材による区別以外に果たしてあるかどうか。さらに、もしその根拠があるなら、それを見るものに対して積極的に訴えようとしている画家がどれだけいるだろうか。「日本画」はこういった厳密な議論からつねに逃げてきたのではないか。

 

大賞受賞作に見る「日本画」の姿

 「日本画大賞」のあり方については先に批判的な考えを述べたが、大賞受賞作そのものについては私もその価値を認めるにやぶさかではない。

 内田あぐりの《吊された男―'00M》は、吊され浮遊する人体を激しい筆致と緊密な構成で横六メートルの大画面にまとめ上げた力作である。そこには写生を尊び、筆遣いを重んじる伝統的な「日本画」の姿は微塵も感じられない。一貫して人体と取り組んできた作者は、そうした伝統的な表現では捉えきれない現代の人間像をどうしても描きたかったのだ。自由に動き回る舞踊家をモデルにして、極限の人体表現を試みた。「動いてもらったら予想しなかった形が見え隠れし、周囲の空間も変わってきた。それが面白かった」という。(2002/10/21日本経済新聞

 浅野均の《雲涌深処》は、大きな屏風ほどの画面に緑の山腹を画面一杯に描いたもので、画題こそ古風だが画面は新鮮だ。画面を斜めに走る稜線の大きな動きと人家などの細密な表現が溶け合って、見る者を風景の中に引き込む。「外から見ていると窓枠から見たような風景になるが、土地に入り込むと東洋的な深い精神の山水になる。それが日本画だと思っている」と語るように、何度も現場を訪れ、歩き回った末の作品である。(2002/10/21日本経済新聞

 二人に共通するのは、まず自分の表現したい内容を明確に持っていることだろう。内田は日ごろから「人間の体でどんな表現ができるのか、極限の形を見たいと思」い続けていたからこそ、モデルに動いてもらったときに「予想もしなかった形」を見つけることができたのである。浅野も少年時代から親しんだという山岳を主題に選び「風土の根本に触れ、自然と自分の結びつきを絵にしたかった」という。その思いが彼を何十回も現地に足を運ばせる原動力となった。

 つぎに二人は、いずれも伝統的な手法にこだわらずに、伝統的な日本絵画がかつて表現しえた境地に迫ろうとしている。内田は伝統的な輪郭線は捨てたが、動きを表わす線を駆使して「予想しなかった形」を見つけ出した。高校時代、俵屋宗達の《風神雷神図屏風》に心を動かされたという彼女は、自由に天空を駆けめぐる宗達の造形を現代の視点で捉えなおそうとしているのかもしれない。浅野は、伝統的な山水画の構図はおろか、西洋画の透視遠近法とも無縁の型破りな構図のなかにかえって東洋的な精神世界を描き出した。現地を訪れ、その土地を知り尽くした上で描く手法は、江戸時代の「真景図」の思想に通じるところがある。単に目で見た世界を画面に写し取るのではなく、対象に自分から飛び込んでいってそれを感じとっているのだ。

 そして二人が異口同音に強調するのは、「日本画」への信頼感だ。内田は「日本画だからこそできる表現の幅の広さがある」と言う。浅野は「光や空気といった形のないものを表現するのにもっとも適した画材が日本画の材料だと考えている」という。伝統的な手法にこだわらないというよりも、こだわるべき伝統的手法など始めからないのではないか。

日本画」にはそれだけの懐の深さがあるのではないだろうか。宗達の自由な表現を見れば見るほどそう思えてくるし、浅野が「すべての点で完成されている」と言う平安絵画に見られる「吹抜屋台」や「異時同図」といった表現も、西洋の窮屈な遠近表現に比べて何と自由な空間と時間までをも描き出していることか。

 先に浅野の受賞作《雲涌深処》の大胆な構図が伝統的な山水画のそれとは無縁だと述べた。しかし、浅野はその大画面の中にほんの指先ほどの小さな人家を描き、傍らにピンクの花咲く樹木を配した。人家といっても茅葺きの民家ではなくモダンな雰囲気さえ感じられるが、それらは紛れもなく中国山水画や日本のやまと絵景物画に見られる添景としての家屋や樹木と同質のアイテムであって、大自然の姿を描きつつ、その懐に抱かれた人間の存在を象徴している。「日本画の」豊かな表現力が十分に生かされた作品ということができよう。

 

時代とともに生きる

 しかし、そのような「日本画」も現代美術が抱えている普遍的な問題から逃れることはできない。科学技術の進歩が無条件に人類の発展を保証するとは、もはや誰も思っていない。かといって、宗教がすべての人を苦悩から解放するかといえば、逆にあちこちで血みどろの対立抗争を生み出している。この現実に芸術だけがかかわらずにすむだろうか。美術はどうあるべきか。日本画は何ができるか。

 かつて夏目漱石は『草枕』のなかで、画家の使命は「住みにくい人の世」を「束の間でも住みよく」することにあると述べた。今風にいえば「癒し系」の職業ということになろうか。「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、有難い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。」という漱石の論調は、「私はハスの花は描くが、泥は描かない」と述べた平山郁夫にも通じるところがある。

 しかし、その平山は、内戦のさなかにも絵を描き続けたサラエボの画家たちとの出会いの中で、次第にその気持ちを動かされていった。泥の中から生えるからこそハスの花は美しいのだ。平山は、その年の院展出品作の構想を変えて、サラエボの廃墟とそこに立つ子供たちの姿を描いた。「美術はきれいだから、かわいいから描くというものではないと思う」という内田あぐりの言葉にそれは連なっていく。

 外界の事物からもたらされた感動は、自分の内部で生まれる思いと結びついたときに初めて自分だけの表現となる。ときにそれは「きれい」ではない風景や「かわい」くない人物や動物をも対象とするだろう。それだけではない。時代の証言者としての画家の目は、醜い、悲しい光景を捉えてしまうこともあるに違いない。平山がサラエボの廃墟を見て心を動かされたのは、彼の心の奥にヒロシマがあったからだ。

 被爆者でもある平山は、かつて《広島生変図》(一九七九)のなかで紅蓮の炎の中に立つ不動明王の姿を描いた。不動は燃えさかる広島の街を見下ろし「不死鳥のように生きよ」と呼びかけている。忌まわしい過去に翻弄され続けて終わるのでなく、あるべき未来に向けて歩み始めること―時代とともに生きる以上、時代を作る主体の側に立たなければ、人間の存在価値は半減する。

 

生活に根ざす

 田窪恭治といえば、ヴェネチア・ビエンナーレ日本代表にも選ばれた現代美術家だが、彼がフランス北部ノルマンディーの寒村サン・マルタン・ド・ミューにあった無人の礼拝堂を十年がかりで修復し、内部に壁画を描き、復活させて村人たちに返したという話は、テレビでも放映されて話題を呼んだ。

 三年くらいでできると思ったその事業は困難の連続ではあったが、田窪はそれを地元の人たちといっしょに乗り切った。壊れた屋根の修理、ガラス瓦の焼成、風見鶏の取り付け、壁の絵具塗り…。初めはすべて日本人の手でやろうとしたが、無理だとわかる。そこに暮らす人たちの力を借り、そこにもとからあるものをうまく使いながら進めていくうちに、自然に人々との交流も生まれ、困難は乗り越えられていく。

 何よりも、礼拝堂の壁に何を描くか―「キリスト以前」のイメージを探そうとして試行錯誤を重ねた末、田窪が選んだのは「リンゴ」であった。村がリンゴを植え始めたのは二百年前のことで、「キリスト以前」にはとても及ばないのだが、ここで作られるリンゴ酒カルバドスは、いまでは村の誇りだ。彼は、村人との交流を通じてこの村の「生命」を支えているものがリンゴであることに気づく。それは、妻と三人の子どもを抱えて移り住むという無謀とも思える彼の行為に応えて、村人たちが贈った無言のサインだったのかもしれない。田窪はようやく心を決める―村の「生命」を描こう、と。

 田窪がしみじみ語るのは、この仕事が「美術」かそうでないかなどということは、自分にとってどうでもよくなったということ。ここ(サン・マルタン・ド・ミュー)では家族が四六時中自分を見ている。金はないし、フランス語もいちばん下手だし、いい格好をすることはできない。だがその必要もない。こういう経験は東京では得られない。東京にいると「絵描きになることが目的になってしまう」、そして、いま、「今度こそ本気で絵描きになりたいと思った」こと。等々…。

 村の人と生活をともにし、彼らと同じ速さで歩けるようになって、初めて生活に根ざした作品が生まれる。「生活に根ざす」と言えば聞こえはいいが、それでは日本でも青森や長野に住めばリンゴをテーマに絵が描けるか。山形でサクランボの、山梨でブドウの絵を描くことがその土地の生活に根ざした芸術を生むことになるのか。それなら宮城では何を描けばいいのか。ことはそう単純素朴ではない。それは、田窪がたどりついたような「美術かどうかはどうでもいい」境地に至ったとき、初めて目に見える形を表してくるものなのだ。

 

なぜ「日本画」か

 「日本画」を描く人たちは、いまひとたび自分にとって「日本画」とは何だったのかを問い返してほしい。私からも敢えて問いたい。油彩ではなく、版画でもなく、「日本画」を選んだ理由とは、突きつめれば偶然だったのではないか。「日本画」は手段の一つにすぎなかったのではないか。

 「いや、ちがう!」と力んでほしいのではない。「日本画」にしかできないこと、それはほんの僅かなことなのだ。そう考えないと、「日本画」さえ描いていれば日本の伝統文化は守れるという錯覚すら生まれてしまう。「日本」の文化とは、そんな薄っぺらな土壌に育つものではない。「日本画」は手段だとひとまず割りきることによって、自分は何を表現したいのかが初めて見えてくるのではないか。それでも「日本画」を描きたいという心の底からの叫びがほしい。「日本画家」こそ、「日本画」によりかかってはならないと思う。

 

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この文章は、『宮城 県芸術年鑑 平成14年度』(2003年3月・宮城 県環境生活部生活・文化課)に掲載された「特集 21世紀を拓く(一)『日本画』は彷徨う」を、ブログ掲載にあたり加筆修正したものです。

 

2002年 宮城県日本画のうごき

                             井上 研一郎

 

 「日本画」という「ジャンル」が本当に意味を持つのか、今年も悩みながらの執筆である。本号では「二十一世紀を拓く」と題して特集が組まれることになり、従来の「ジャンル」区分に従って「日本画」がトップバッターになった。この問題については、多少とも具体的な発言の機会を与えられたので、議論はその拙稿に譲り、本稿ではこの一年間の県関係「日本画」の動向のみを羅列するにとどめることとする。 

 とはいえ、二〇〇二年には全国レベルの「日本画」にとってひとつの大きな出来事があったことを指摘しておかなくてはならない。「東山魁夷記念・日経日本画大賞」の創設である。日本画の登竜門と言われた山種美術館賞が一九九七年に廃止されて以来、五年ぶりに設定された制度だが、十一月に第一回受賞者が決まった。全国の美術館学芸員、評論家らによって四十二作家の作品四十七点が推薦され、そのうちから内田あぐりと浅野均の二人が選ばれた。一次選考を突破したのはわずか十四点で、本県関係者は残念ながら選に漏れた。このことについては、本号特集の拙稿で詳しく触れている。 

 例年の全国規模公募展では、第34回日展に天笠慶子、佐藤朱希、七宮牧子の三名が入選した。天笠、七宮の両氏は初入選である。また本県出身の能島千明は《追憶》で特選となり、審査委員を務めた能島和明は栗駒山中の生活を題材にした《山の人》を出品した。、また、第87回再興院展では佐々木啓子が院友に推挙された。

 こうした作家の活躍をのぞけば、本県関係「日本画家」の仕事は必ずしも全国レベルに達しているとは言い難い。「東京・関西画」とでも呼びたくなるような「日本画」の現状を少しずつでも変えていく動きは、どこから生まれてくるだろうか。 

 県内の動きに入ろう。

 「第39回宮城 県芸術祭絵画展」(2002/9/27~10/9・せんだいメディアテーク)は、日本画部門に五十六点が出品され、次の各氏が受賞した。

 宮城 県芸術祭賞 《街道沿いのまち》 高瀬 滋子

宮城 県知事賞 《Eternal Season 3 》 佐々木 啓子

仙台市長賞 《花 02-13》 三浦 ひろみ

河北新報社賞 《男(生きる)》 安藤 瑠吏子

宮城 県美術館賞 《初夏》 熊谷 理恵子

鳴瀬美術記念館賞 《大地のように》 毛利 洋子 

 安藤瑠吏子《男(生きる)》は、正面と背面を向いた男性像を二点対で描いた。一対のイメージによって表現する手法は古くから日本の絵画表現に用いられてきたものである。熊谷理恵子《初夏》は、黒田清輝の《智・感・情》を思わせる理知的な構成の中に、衣をつまむ手など情感を誘う表現が共存していた。佐々木啓子《Eternal Season 3 》は水草の間を泳ぐ鯉を描き、色調を押さえた画面と水草の表現が見事であった。高瀬滋子の《街道沿いのまち》は、緩やかな弧を描く道路の両側に商店街の家並みを展開図のように描くという大胆な構図に挑戦した。円山応挙が淀川の両岸をこの手法で描いたことはよく知られている。三浦ひろみ《花 02-13》の墨による細密な表現は、日本絵画において白描画の伝統が健在であることを示している。毛利洋子《大地のように》の倒木に生えた苗木を描くという発想は面白い(あるいは実景かもしれない)が、構図にいまひとつ工夫が欲しい。その他、七宮牧子《三つのかたち》は人物三人を描く力作であり、吉田三千子、宮澤早苗、松根睦子、千葉勇作、深村宝丘、福田眞津子らの作品が印象に残った。 

 「みやぎ秀作美術展2002」(2002/11/22~12/3・せんだいメディアテーク)は二〇〇一年に発表された作品を中心に構成されるため前号で触れたものが多いので詳しく触れないが、小野恬の《惜春》(第86回院展入選作)、佐々木啓子の《秋仕舞》(同)、三浦長悦《翁樹》(同)、山田伸《真夏の夜の夢》佐藤朱希《陽色のワルツ》(第33回日展入選作)、能島和明《しじま》(同)、能島千明《風車》(同)といった中央展での入選作が見られたことは県民にとっては収穫だったといえよう。 

 東北全域を対象とする公募展「第66回河北美術展」(2002/4/26~5/8・藤崎本館)の日本画部門では、土屋禮一(日展)、松尾敏男(院展)を審査員に迎え、次の各氏が受賞した。

 河北賞 《騒がしい朝》 高瀬 滋子

文部科学大臣奨励賞 《家路》 澤瀬 きよ子

宮城県知事賞 《秋の終わり》 渡辺 房枝

一力次郎賞 《ふたり》 安藤 瑠吏子

東北放送賞 《庭の花たち》 伊東 忠夫

宮城県芸協賞 《一流》 阿部 悦子

新人奨励賞 《茂る》 長谷川 さやか

東北電力賞 《岩館港の廃船》 成田 昭夫 

 「騒がしい朝」とは、作者本人によれば「慌ただしい朝にウサギがかごから脱走する、という光景」とのことだが、思い切った俯瞰的構図と明るい色調で表された画面は《信貴山縁起絵巻》の冒頭場面にも似た軽妙な味がある。自由な視点による天衣無縫な形体は見る者の心を和ませる。 

 グループ展では「第6回実生会小品展」(2002/4/19~4/24・せんだいメディアテーク)今年は同会にとって小品展開催の年にあたるが、四十二名の会員のほとんどに加え、数名の元会員が出品した会場は作品展にせまるほどの充実した内容を持っていた。梅森さえ子、黒田文子、武田睦子はじめ多くの力作がみられた。このほか、 個人レベルでは、県内で二つの意義深い展観があった。どちらも仙台からやや離れた地での開催だったため、必ずしも多くの人々の目に触れられなかったのは残念だったが、期せずして両展とも近年まで本県で活躍した作家とその後継者の仕事が同時に紹介された。

 「千葉謙澄日本画展 天地悠々~みちのくからシルクロードへ」(2002/10/9~10/20・古川市民ギャラリー緒絶の館)一九八五年、六十五歳で急逝した千葉謙澄の遺作展が故郷の古川市で開かれ、日本画四十一点とパステル画六点が出品された。副題にあるように、東北の風景を題材としたもの、ヒマラヤ・ネパールに取材したものを中心としながら、日常の何気ない風景を丹念に形象化した作品もあり、静謐な画面には祈りにも似た作者の心境がうかがえた。四十歳を過ぎてから公募展入選を果たすという遅いスタートだったが、河北展や日展、日春展等で活躍しながら後進の育成にも努めた功績は大きい。「謙澄の愛弟子展」も同時開催され、千葉清澄、佐々木裕美子らの作品が並んだ。

 「能島康明コレクション 和明、瑠吏子作品展」(02/8/31~12/5・大衡村ふるさと美術館)二〇〇〇年に亡くなった能島康明と能島和明、安藤瑠吏子の父子三人の展覧会が開かれた。能島康明の作品は同館に寄贈された五点。どれも風景を正面からとらえ、堅固な構図と重厚な画肌が融合して独特の世界が描き出されている。和明、瑠吏子はともに人物を主題とした量感あふれる形体をたらし込みを多用した画面に表すが、和明の人物が自然の中に溶け込んで内面を見つめるいっぽう、瑠吏子の人体にはみなぎる想いをかろうじて押さえているような躍動感がある。両者とも「日本画」の画材による表現の可能性に挑戦する熱意が感じられた。会場のスペースの狭さもあるが、作品数が少なく、照明などもやや見づらい展示だったのが惜しまれる。

「大泉佐代子日本画展」(2002/11/19~11/24・晩翠画廊)春の院展入選作を中心に、堅実な手法と淡い色調で穏やかだが深い精神性を感じさせる作品が並べられた。

「飯川竹彦日本画展」(2002/1/18~24・藤崎美術工芸サロン)および「川村妙子個展・豪奢な朝」(2002/9/25~29/・県民ギャラリー)は残念ながら見逃したが、かつて仙台の作家たちの「プロ意識の欠如」を指摘した飯川の仕事には今後注目していきたい。

 日本美術院(院展)評議員の荘司福が十月十九日、九十二歳で亡くなった。長野県出身で女子美術学校卒業後、結婚を機に仙台に住み、河北美術展、さらに院展を舞台に精神性の強い硬質で重厚な画面を追求し続けた。その真摯な制作態度は県内の多くの作家に大きな影響を与え、「東北人以上に東北人らしく、自分のモチーフを一心に追究されていた」(宮城正俊)という。

 紙幅が尽きたので詳細は述べられないが、仙台市博物館が開催した「菊田伊洲展」は仙台四大画家のひとり伊州の作品に対する通念を一変させるほどの衝撃的な展観であった。狩野派の画家がこんな絵も描いていたのかという率直な驚きが会場内で多く聞かれた。今後も通説を転覆させるような大胆な発想と細心の準備による企画を期待したい。

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この文章は、『宮城県芸術年鑑 平成14年度』(2003年3月・宮城県環境生活部 生活・文化課)に掲載した原稿を、ブログ掲載にあたって一部書き換えたものです。

 

 

2001年 宮城県内日本画のうごき

                            井上 研一郎

 芸術は戦争の前に無力か 

 二〇〇一年という年は、二十一世紀最初の年としてよりも、同時多発テロの起こった年としておそらく世界史に残るだろう。テロの直後、ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と叫び、報復攻撃が始まった。議会はただ一人の議員をのぞいてこれを支持した。だが、アメリカ人のすべてがそうだったわけではない。目立ったのは著名な芸術家たちが報復に「NO!」を唱えたことだった。

 仙台文学館長の井上ひさしも「『ならず者国家』を指定しているアメリカ自身が『ならず者』であることを知った方がいい」と東京で語ったが、宮城の芸術家に目立った動きはなかった。タリバンによって破壊されたバーミヤーンの大仏のように、芸術や文化は戦争という非文化的、反文化的な行為の前に無言で立ちつくすしかないのだろうか。

 タリバンは、バーミヤンの巨大石仏を完全に破壊するという行為によってその名を知られていた。日本文化の遠い淵源を思わせる彼の地を揺るがした轟音は、多くの日本人の心のどこかに痛みを伴って響いたことだろう。

 しかし、バーミヤンの大仏は束の間の平和も守れぬ愚かな人間を嘆いて自ら崩れ落ちたのだという人もいる。仏像は人の世に平和をもたらすことはできないのか。夏目漱石が『草枕』の冒頭で言い切ったように、芸術は「人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする」ことはできないのだろうか。

 年が明けてから知ったことだが、美智子皇后は、この大仏破壊に寄せて次のような歌を詠まれていたという。

 

 知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くる バーミアンの野にみ仏在(ま)さず 

 

 宮内庁ホームページの解説には、「人間の中にひそむ憎しみや不寛容の表れとして仏像が破壊されたとすれば、しらずしらず自分もまた一つの弾(たま)を撃っていたのではないだろうか」とある。同時テロが起こる半年も前にこの歌は詠まれていた。そのころ、私は何を考えていただろうか。

 

畑井美枝子の受賞

 この一年間の宮城の日本画界の動きでは、まず畑井美枝子の河北文化賞受賞を取り上げたい。「七十年にわたる画業で地方画壇に確固たる地歩を築き、中央画壇にも進出、後進の指導・育成に尽力し、東北の芸術文化振興に大きく寄与した」という授賞理由は、何人も異論のないところであろう。筆者は畑井の作品を初見して、極めて自然な人物表現のなかに対象の気分や感情をしっかりと描き込んでいるという印象を持った。「技術的に上手な絵より、人の心を打つような良い絵を描いてほしい」と語る畑井の思いを、若手の作家たちはしっかりと受け止めてほしいと思う。

 

各種の展覧会

 「第六五回河北美術展」では次の七名が入賞した。

 河 北 賞  毛利洋子《萌し》

 文科大臣奨励賞 阿部悦子《一輪》

 宮城県知事賞  鈴木和彦《裸婦》

 一力次郎賞   澤瀬きよ子《蓮》

 東北放送賞   高橋栄子《花桜の交響曲》

 宮城県芸協賞  梅森さえ子《生命缶》

 東北電力賞   奥山和子《黒い服の女》

 毛利洋子の作品は、蔵王山麓で取材したという倒木の絡まるような枝を画面いっぱいに配し、その前で木の実を食べるリスを描く。薄暗いバックに浮かぶ枝のうねるような形が画面に動きを与え、無心に木の実を食べるリスの姿がタイトルに込められた作者の感動を物語る。阿部悦子の《一輪》は、物思いに耽る若い男の姿にコラージュやたらしこみ的技法を大胆な構成でつなぎ合わせ、やや謎めいたタイトルとともに見る者を引きつける。高橋栄子は老樹に咲き乱れる枝垂桜を全面に描き、そこに微かな風の動きを加えて繊細かつ華麗な空間を創り出した。梅森さえ子の《生命缶》は、牛乳缶から牛乳が星くずのようにほとばしり出るさまを日本画には珍しい鮮やかな原色の画面に描いた意欲作である。奥山和子は、白いベッドにうつ伏せになってほおづえをつく女性を、大胆にも頭の方から眺めて縦長構図におさめた。常識にとらわれない発想の妙がある。色数を押さえたことも成功した。油彩で入賞した経験を持つ鈴木和彦の《裸婦》は、人体の強烈な色調とたらしこみの多用によって単純な画面に変化をつけ、また生命感のある強さを生み出している。澤瀬きよ子の《蓮》は伝統的画題だが、迫町長沼で実際に見た光景に感動して描いたもの。手堅い手法でまとめている。成田昭夫《岩館港の廃船Ⅱ》は、力強い構成と質感の見事さが光る。滅びゆくものに注がれるまなざしが優しい。

 伝統的手法がほとんど見あたらない中で水墨による杉山陽介の《住処》は貴重な存在だが、ネコの毛並みの向きなど対象をもっとよく見つめたい。

「河北美術展に出品する人は、技術的にはかなりいい線いっています。あとは、自分の気持ち、例えば心の痛みや喜びがもっと絵に出てくるといいですね。」という佐藤圀夫の言葉も、畑井美枝子と共通するものがあろう。

 

「第三十三回宮城県芸術祭絵画展」では、宮城県芸術祭賞を受賞した天笠慶子の《リズム》が三美神を思わせる人物を大画面にもかかわらず破綻のない構図でまとめ、文字どおりリズミカルな動きを見せていた。宮城県美術館賞の小野寺君代《星の華》は一面に咲くジャガイモの花を真上から描く。テントウムシへのまなざしが見る者にも伝わってくる。櫻田勝子《御室の桜》は花の装飾的な平面と画面全体の奥行き感が面白い対象を見せた。七宮牧子《かたち》には線描を排した色面のおもしろさがあり、安住小百合《花片》の明快な色調、大泉佐代子《ミセスK(母となって故郷へ)》の重厚なマチエールと深い精神性が印象に残った。気になったのは、暗褐色の似通った色調がいくつかの作品に見られたことで、単なる偶然か、時代の反映か、しばらく注目してみたい。

 畑井美枝子の主宰する「第十五回実生会」も充実した内容であった。小野恬の《献花》は黒、茶、灰色、黄色にピンクという配色と左に寄せた構図の妙が新鮮な感覚を見せた。新緑と山桜の対比が美しい岩佐安子の《萌芽》、未消化ながら大胆な構成の梅森さえ子《夏空の下》、箔の用法に新味を見せた後藤とし子の《放心》のほか、佐藤松子、田名部典子、二戸美有、星けさよ、佐藤朱希等の作品が目を引いた。佐藤朱希は第三十三回日展でも《陽色のワルツ》で入選を果たしている。

 ジャンルを超えた新しい表現がますます盛んになっている昨今、日本画だけが孤塁を守ることは不可能だろう。ボーダーレス、グローバル化などという言葉は今や子供でも知っているが、それは決して世界中の食事がすべてハンバーガーになることではない。それぞれの味を守りつつ、他流試合もやる。その意味で第四回を迎えたという「青藍会展」の意欲は評価されてよいと思ったが、残念ながら実見の機会を逃した。

 

「東北」で「日本画」を描くということ

 二〇〇一年という年に、東北の地で絵を描くということはどういうことなのだろうか。身の回りの日常を描く、東北の自然を描く―それはそれで大切な視点だ。だが、インターネットでも衛星放送でも瞬時に地球の裏側の情報が手に入るこの時代に、それだけでいいとは言い切れまい。平和な国で絵を描くことのできる境遇と、空爆にさらされながら逃げまどう人々がいるという事実とのあまりに遠い距離、矛盾。そのこと自体が創作のモチーフ(動機)となることがあっていいのではないだろうか。少なくとも洋画部門には見られるそうした作品が、日本画には全く見られないのはどうしたことだろうか。

 さらに、たとえば「河北展」洋画部門受賞者の大崎智尋の「油絵の具の発色が好きだが、表現方法は日本画が(自分に)合っている」などという発言を聞くと、批評する側もまたいつまでも境界を固定したままでいいのかと考えさせられる。いずれにせよ、この年鑑の評者がそろって取り上げたくなるような企画や作品が生まれてほしいものだ。

 

美術館の企画展

 美術館、博物館で開催された展覧会のうち、日本画・古美術関係で印象に残ったものをあげておきたい。

「生誕百年記念・小松均展」(宮城県美術館)

 京都大原に自給自足の暮らしを営み「仙人」と呼ばれた日本画家、小松均の本格的な回顧展。故郷の最上川を源流から河口まで描ききろうとした情熱が力強い筆致によってこまやかな生活感あふれる光景を生み出していた。六十歳を過ぎて故郷山形を流れる最上川を描き始めた小松は、源流から河口まで、描き上げるまでその場を離れずひたむきに川の姿を写したという。見る者は川の造り出す壮大なドラマをまるで画家の肩越しに眺めているような錯覚に陥るだろう。画面を横にも縦にも連続させていく自由な発想は、大河の一生を描いた《生々流転》の横山大観をしのぐといっても過言ではない。最上川という素材と小松という才能が幸せな再会を果たすために六十年という他所での歳月が必要だったとしても、今日の東北で描き続ける画家たちに必要なことは、その生活の場を離れることではない。日々の生活の場を離れて描き続けることのできる画家などいない。反対に、現実と真摯に向き合ってこそ自分の才能をぶつける対象=素材と出逢うことができるのだ。その点で、東北の画家たちは素材に恵まれすぎているのではないかと私は思う。足りないのはそれを見出す機会と手段ではないか。

 共生福祉会福島美術館の企画展「空間の美―仙台藩ゆかりの対幅」は、伊達家旧蔵の対幅作品を中心に、先人たちが遺した画題と構図の工夫を探ろうとする展観だった。こうした作品を数多く鑑賞することで、往時の人々は自然界のバランスを学び、取り合わせや配色のセンスを磨いていたのだろう。現代の画家が学ぶべきものも必ずあるはずである。

 以上のほかにも「みやぎの美術―明治から現代まで」(宮城県美術館)、「仙台開府四百年記念特別展・仙台城―しろ・まち・ひと」「世界遺産・醍醐寺展」「競う!江戸時代のスポーツ」「おもしろ収蔵品展」(以上、仙台市博物館)、「はるかなみちのく―古典文学と美術に見る姿」(東北歴史博物館)など充実した展観がつづいた。美術館をめぐる環境は厳しく、各館とも真剣な対応を迫られているなかで、館蔵品をつかってどれだけ新しい切り口が見せられるか、学芸員の知恵が試されている。

 なお、濱田直嗣氏が仙台市博物館在職中の研究成果をまとめ、仙台開府四百年と自身の還暦を記念して『東北の原像―美と風土と人の文化誌』を上梓された。「当時の仙台人は、まず自分の文化を踏まえて、中央を見るという気概があった。古美術に込められた当時の人たちの思いを知ってほしい。」と語る氏の思いに心から共感を覚える。

 

人間らしく

 戦争のない国で絵を描くことができる自分たちがいる一方で、人間として扱われず、明日の命も保証されない境遇の人間がいるという現実を忘れないこと―「心の痛みや喜びがもっと絵に出てくる」とは、「人の心を打つような良い絵」とは、つまるところ人間らしくありたいという心の底からの叫びにほかならないと思う。

 

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この文章は、2002年4月に発行された『宮城県芸術年鑑 平成13年度』(宮城県環境生活部 生活・文化課)に掲載された「各ジャンルの動向・日本画」を、ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。

 

御後絵(おごえ)─復元か、再生か、それとも─  佐藤文彦『遙かなる御後絵』によせて

御後絵(おごえ)─復元か、再生か、それとも─ 

佐藤文彦『遙かなる御後絵』によせて

 

「沖縄研究ノート」17号(宮城学院女子大学キリスト教文化研究所・2008年3月)

アイヌ肖像画との対比
歴代琉球王の肖像画である「御後絵(おごえ)」に筆者が関心を抱いたのは、江戸後期に描かれたアイヌ指導者たちの肖像画である《夷酋列像(いしゅうれつぞう)》についての調査研究を続けるうちに、同じ東アジアの肖像画に見られる共通点と相違点を明らかにしたいと考えたことによる。
《夷酋列像》は、一七八九(寛政元)年に蝦夷地の国後・目梨地方で起こったアイヌと和人の大規模な衝突事件に際し、結果的に松前藩に協力的な立場をとったアイヌ指導者たち十二名の肖像を一七九〇(寛政二)年に蠣崎波響(一七六四~一八二六)が描いたものである。その精緻な筆致と鮮烈な彩色、厳しい表情の人物表現は京都の上流階級や江戸の大名たちの間で話題となった。とくに、アイヌ指導者たちが身に纏っている中国製の衣服は「蝦夷錦」と呼ばれて珍重されたもので、金糸をふんだんに用いて雲龍文様を刺繍した豪華な品であったが、波響はそれを見事な質感表現によって迫真的に描ききっている。
琉球の御後絵にも同じ衣服が登場する。中国が清代にはいると琉球王の冠服もそれに応じて大きく変わり、両肩および両袖に雲龍文を刺繍した衣装が現れる。
現存する《夷酋列像》としては、戦前から知られる原本の一部に加え、戦後になって別の一組の原本と考えられる作品がフランスで発見された。これによって、波響が天覧に備えて《夷酋列像》を再制作し、正本・副本を用意したことが裏付けられた。また近年では国立民族学博物館の共同研究グループ(代表者・大塚和義氏)による調査やシンポジウムなどにより、多くの写本を含ふくむ多面的な検討が行われ、徐々に成果が生まれつつある。
これに対して、御後絵は沖縄戦(一九四五)の最中に消滅して、一点も残っていないという。わずかに戦前撮影された十枚の白黒写真が、現代にそのイメージを伝えているのみである。こうした状況のもとでは、御後絵と《夷酋列像》を直接比較検討することは不可能であり、筆者も最近までその可能性を見出せないでいた。
ところが、一九九三年、沖縄の若い油彩画家・佐藤文彦氏が白黒写真を手がかりに御後絵の復元に挑戦し、一九九六年までに十点の作品を完成させた。さらに二〇〇三年、作品制作の経緯を詳しく述べた『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(註1)を上梓したのである。

本書の構成
本書の内容は、大きく前半と後半に分かれる。著者自身の執筆による前半では、著者が御後絵と出会い、その再生を果たすまでの経過が綴られている。後半部は、初期の御後絵研究者の一人、比嘉朝健が地元新聞に発表した論文、琉球絵画関係年表、および御後絵に関連する用語の事典などからなる、いわば付属資料編である。
五章に分かれた前半を概観すると、まず第一章では著者を御後絵研究にみちびく役割を果たした鎌倉芳太郎の名著『沖縄文化の遺宝』、琉球の古美術研究に功績のあった比嘉朝健、はじめて御後絵の写真を出版物に掲載した真境名安興等が紹介され、こうした先人たちとの「出会い」が著者を御後絵再生へと導いたことが語られている。
実物が失われ、白黒写真しか残らない御後絵の復元は、焼失した法隆寺金堂壁画の場合と比べてもはるかにむずかしい。法隆寺金堂壁画は、皮肉なことに模写作業中の失火による火災の犠牲となったが、専門業者によって撮影されていたカラー写真の分解ネガがあり、これによってかなり精密な復元模写が可能となった。御後絵の場合はそうした記録は全くないという。著者があえて「復元」と言わず「再生」と呼ぶのはそのことを考慮してのことであろう。
御後絵再生の最大の動機について、著者は「鎌倉芳太郎の沖縄文化に対する徹底した探求心と鮮明な写真画像に私自身の魂が激しく揺すぶられたからであった」と述べ、「現代絵画から見れば陳腐に感じるこの絵も、シルエットを描き色彩を施す過程のなかにこの王国独自の深い精神性に触れることができるかも知れない」という期待をもってこの仕事に打ち込んだという。
つづく第二章「遙かなる御後絵」で、著者は御後絵をはぐくんだ琉球王朝の歴史をふりかえり、中国(明・清)との冊封関係とその中で育まれた中華思想的な美の様式が御後絵の特徴的な構図をつくり出したと述べる。
ついで著者は御後絵を描いた宮廷画家=絵師の考察に移り、鎌倉芳太郎の研究成果に沿って、琥自謙(石嶺伝莫・一六五八~一七〇三)、呉師虔(山口宗季・一六七二~一七四三)、殷元良(座間味庸昌・一七一八~一七六七)、向元瑚(小橋川朝安)らを紹介する。最後に、第二尚氏初代王の尚圓(一四一五)~一四六七)を描いた御後絵をとりあげ、その特徴を指摘する。
第三章は、いよいよ御後絵再生の具体的な過程が作品ごとに語られるが、著者はそれに先立ち「現代絵画を専攻した者が…古い国王の肖像や民族的風俗画にのめりこんでいいものかという自問のくりかえし」があったことを率直に告白している。それに対しては「完成された古典画の様の中にこそ理想としての永遠の美が隠されているはず」と自らに言い聞かせてきたという。そして、最後の一枚が完成した瞬間、画面からオーラを感じ取り、身体全体が宙に浮くような浮遊感覚に襲われたという。
つぎに、著者は御後絵の表現が全体として古代中国絵画における勧戒画の流れをくみながら、琉球独自の様式を生み出している点として、山水画のように「絶対的存在感を示す聳え立つ国王像」をあげている。国王と従臣の像の大きさを極端に変えることにより、「そびえ立つ山を仰ぎ見るような国王像」がつくり出される。
以降、再生御後絵の制作過程が作品ごとに詳細に語られる。その中で最大の困難が彩色の特定であったことは容易に想像される。唯一の客観的な手がかりは鎌倉芳太郎が撮影した白黒写真であり、構図や形状はかなりの程度再現できたとしても、写真の明暗は必ずしも彩色の濃淡を示すとはかぎらない。色相の違いが感光剤の反応に影響して明暗となって現れることもあるからである。
写真に比べて主観的要素が多くなるとはいえ、御後絵を実見した人たちの記憶や印象も無視することはできない。著者は「後半の作品は実見した人物の助言を受けた後に描いたため、歴史的な背景を考慮したり、細部まで緻密に描くなど試行錯誤のあとがみられる作品群となった」と述べている。
第四章「図像解釈学からみた御後絵」では、イコノロジー(図像解釈学)の観点からあらためて御後絵を分析している。正面性(フロンタルビュー)の構図、明朝が国王用に制定した皮弁冠服の着用、衣服に表された龍の文様、国王が手にしている「圭」、王と従臣たちの足下を飾る敷瓦などについての考察がある。
さらに、著者は明代の御後絵と清代の御後絵の表現の違いを明確に指摘し、なかでも絵画空間の表現に大きな違いが見られるという。明代の御後絵が近景、中景、遠景と積み重ねたような奥行きを示しているのに対し、清代の御後絵では中景の一部と遠景が省略され、雲形を配した幕のようなものが背景を埋め尽くしている。すなわち、明代では王の後ろに大きな衝立があり、その奥に文房具が描かれ、さらに細い格子のはまった窓(明かり障子か)があるなど、現実の宮殿内に近い表現であるのに対し、清代では特設舞台のように単純で平面的な背景に変わっている。
また、国王と従臣たちの関係を見ると、明代の御後絵では像の大きさがせいぜい二対一程度であるのに対し、清代にはいるとその比は三対一ほどになり、国王の圧倒的な迫力が強調される結果となっている。その結果、清代の御後絵では「国王像の強調と装飾化」がすすむことになる。
著者は、最後に地域的な影響関係の考察に入り、東アジア各国の国王級肖像の比較対照を試みている。いずれも中国を軸に交易関係、冊封関係のあった地域であり、共通する点は多い。とくに、朝鮮との関係は、背景の日月を描いた衝立などとも合わせ、図像的に極めて近いものがある。
以上の比較検討を経て、著者はアジア諸国の肖像画と御後絵の表現様式について、次の三点を指摘する。
一、中国との朝貢・冊封関係を反映した絵画様式であること
二、明朝から清朝への移行に対応して御後絵の表現様式が明確に変化すること
三、琉球の絵師が養成されることにより琉球独自の絵画様式が確立したこと
第五章は、琉球王朝時代の画人「五大家」の第一と言われる自了(欽可聖、城間清豊・一六一四~一六四四)の生涯と作品についての紹介である。

作品実見と所見
筆者(井上)は、二〇〇七年度の沖縄現地調査にあたり、本書の著者・佐藤文彦氏に面会する約束を取り付け、十二月十八日に作品の実見と聞き取り調査を行った。
伝統的な画法によらず、しかも白黒写真から彩色画の復元ができるのか。素朴な疑問とともに、そうした難題に挑戦する画家の意図がどこにあるのか確かめたいという、いささか好奇心も手伝っての会見であった。
佐藤文彦氏は、一九六六年東京都生まれ。一九七四年、家族とともに沖縄県那覇市へ移転、今日に至る。沖縄県立芸術大学卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術(油画)専攻修了、博士(美術)学位を取得した。現在は沖縄県立芸術大学非常勤講師。
佐藤氏の案内で沖縄県立芸術大学に保管されている作品二点を実見させていただいた。

〈第十四代尚穆(シヨウボク)王〉 一九九五(平成七)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×168

佐藤文彦《御後絵 十四代尚穆王》1995  

〈第三代尚真王〉 一九九六(平成八)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×174

佐藤文彦《御後絵 三代尚真王》1996  

実際の画面は、図版で見ていたときよりも落ち着いた色調であり、アクリル絵の具を用いているにもかかわらず、日本画の画面に近い印象を受けた。佐藤氏によると、第一作〈第八代尚豊王〉の制作を始めたときから、アクリル絵の具だけでは東洋画の雰囲気が表現できないので、顔料をアクリル・グルーと混ぜて併用したという。また、支持体の綿布に部分的に和紙を貼って東洋画の質感を出したという。
予想よりは落ち着いた色調とはいえ、〈第十四代尚穆王〉では黄色系の色がかなり強く、江戸後期十八世紀末の絵画としてはやや異質な色調といえよう。〈第三代尚真王〉のほうは、一部の従臣たち(王に最も近い四人)の衣装の色をのぞけば違和感はそれほど強くない。むしろ思ったより繊細で古様な画面に驚かされた。

復元は可能か
「再生」された御後絵は、沖縄県内で大きな反響を呼んだ。しかし、必ずしも肯定的な評価ばかりがあるわけではない。氏が自ら同書中で述べているように、すでに制作中から「国王の衣裳の色が違う」という指摘が実際に御後絵を見た真栄平房敬氏によって行われている。
佐藤氏は、最初の作品である「第八代尚豊王」の衣裳の色を、白黒写真から得た自身のイメージによって青と決め、それを浮き立たせるために周囲の人物や調度を赤系の配色で描いた。ついで、第二作「第十一代尚貞王」からはがらりと赤系の配色に変わるが、そのきっかけは「当時復元して間もない首里城の色彩から受けるイメージがあまりに強烈だったこと」、そして東京で見た尚家関係資料の中の国王衣裳が赤地であったことなどであった。第三作、第四作、第五作まで進んだとき、佐藤氏は先の指摘に出会ったのである。御後絵を実見した者の「証言」の重みは大きい。
直感的な断定、あるいは類推による色彩の決定については、当然ながら研究者の間からも批判が起こるであろう。佐藤氏が強烈なイメージを受けたという復元首里城の色彩にしても、決定までには国内外の資料による厳密な検討が行われている。また、氏が東京で見た尚家関連資料の中にはたしかに赤色の唐衣裳(清代)があるが、同時に頒賜品の生地を琉球国内で仕立てたと思われる真っ青な唐衣裳(同)もある。
御後絵の「再生」に使われた画材がアクリル絵具とキャンバスであることも、批判の対象となりうるだろう。伝統的な画材を用いてこそ復元の意味があるという理念的な主張はともかく、細部の線描や色面の微妙な質感はそうした画材を用いなければ表現できない部分があるのではないか。
さらにその線描について言えば、国王をはじめ人物の面貌表現に見られる描線の質は、明らかに日本画のそれではない。佐藤氏はむしろ意識的に無性格な描線を描いているようにも見える。それは写真から得られる情報がそれ以上のものでないからであろう。清朝期の御後絵である尚穆王の顔面に現れているはずの陰影表現が曖昧な印象を与えるのも、同じ原因によるものかもしれない。
御後絵を「復元」する手だては、果たして皆無であろうか。
すでに鎌倉芳太郎が指摘しているように、「諸臣肖像画」と呼ばれるもののなかに絵画作品として高い価値を持つものがあり、その何点かが現存する。佐々木利和氏(国立民族学博物館)は、東京国立博物館在職中にこれらを含む琉球絵画の基礎的調査を実施し、報告書「民族誌資料としての琉球風像画の基礎的研究」(一九九八年)において三点の現存作品を紹介している。(註2)
1.紙本著色片目の地頭代倚像 乾隆二四(一七五九・宝暦九)
2.紙本著色東任鐸倚像 道光一九(一八三九・天保一〇)
3.紙本著色宮良長延坐像
これらの現存作品に共通するのは、佐々木氏が述べているように「格段に高い画技」とすぐれた「写実描写」である。なかには宮廷画師・殷元良の関与が推定されるものさえあり、御後絵との関連で無視できない。
これらの直接的な参考資料に加えて、文献による検討も必要である。中国王朝から琉球王朝への冊封に際して頒賜された王冠や唐衣裳を初めとするさまざまな頒賜品の記録などに手がかりとなる情報が残されている可能性もあろう。また近年、豊臣秀吉に頒賜された明代の冠服の存在が明らかとなり、これと琉球国王の冠服との類似性から新たな知見が報告されている(註3)。これらの調査研究と並行して御後絵の復元事業の動きもあるという。研究の進展にともなう復元の可能を期待したい。

復元か、「再生」か、それとも
佐藤氏は、もちろろんそのことに気づいていた。第六作「初代尚円王」からは、キャンバスに和紙を貼り、絵の具にアクリル・グルーをまぜて日本画の質感を出そうとした。「和紙と絵の具は良く馴染み、筆の運びもスムーズに描けるようになった。」さらに第七作では和紙に加えて絹布を貼り込み、次第に伝統的な手法に近づいていく。筆者が実見したのは、こうした試行錯誤がようやく一つの回答を見出した 第八作「第十四代尚穆(シヨウボク)王」と、第十作「第三代尚真王」であった。紙幅の関係で細かい分析は記せないが、そこにはおぼろげながら浮かび出た歴代の御後絵のイメージとともに、明快な色調と軽快な線で作り出された佐藤文彦自身の世界があった。
もともと、佐藤氏はこの仕事を敢えて「復元」と呼ばず「再生」と言い続けてきた。学術的にに厳密な復元を目指したのではなく、琉球王府時代の絵師の心境に少しでも近づき、そこから何かを学び取ろうとしたのだとすれば、彼の目的はほとんど達せられたことになるだろう。
佐藤氏は、前半の五点については「後日改画の予定である」という。仄聞する御後絵復元の動きも気にかかるが、筆者は氏の「改画」を必ずしも期待しない。試行錯誤を重ねて制作された大作の「改画」は容易な作業ではないだろう。それに費やすエネルギーは莫大な量となろう。むしろ、「再生」御後絵の制作の過程で獲得したさまざまな知見と体験を、新たな創作に活かすことこそ、彼にふさわしい仕事なのかもしれない。
蠣崎波響は、《夷酋列像》を再制作したあと、二度とこの種の作品を描かなかった。その理由はまだ解明されていないが、極限まで追求された精緻な表現は、その後の作品の随所に活かされ、数々の名作が生まれている。《夷酋列像》はたしかに波響の代表作だが、決して代名詞ではない。
佐藤氏の感性と技倆、そして情熱が御後絵だけに費やされることなく、新たな沖縄美術の創生に注がれることを切望するとともに、学術的な立場からの御後絵復元の条件が整うことを期待したい。

註1 佐藤文彦『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(二〇〇三年・作品社・二八〇〇円)
註2 佐々木利和(研究代表者)『民族資料としての琉球風俗画の基礎的研究』(一九九八年・平成七~九年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書)
註3 那覇市歴史博物館編『国宝「琉球国王尚家関係資料」のすべて 尚家資料/目録・解説』(二〇〇六年・沖縄タイムス社)

謝辞 本稿の執筆にあたり、ご協力いただいた佐藤文彦氏、および貴重なお話しをいただいた父上の佐藤善五郎氏に厚くお礼申し上げます。

東日本大震災 お見舞いお礼(再掲)

 3月11日発生した巨大地震と大津波は、貞観津波(869年)以来の規模と言われ、まさに千年に一度の大災害となりました。

 当時札幌に出張中だった私は、その日夕方の飛行機で帰仙する予定でしたが、仙台空港が津波に襲われたため帰ることができず、2日後に新潟経由でようやく仙台に戻りました。家族は全員無事です。家は見たところ無事のようですが、専門家に見てもらう予定。ライフラインも29日までにほぼ復旧しました。

 私個人の主な被害は、以下の通りです。

1.乗用車1台(仙台空港駐車場から流失)

2.フクロウ置物(約30点)

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3.脊椎矯正用チェア(1脚)

 これだけで済んだことを感謝しています。なかでも、愛車プリウスは私の身代わりになってくれたのだと思います。数時間の差で、私は命を落とすところでした。

 原発や余震による不安は続いており、食糧や燃料の不足もまだ解消されておりませんが、安易にこの地を離れて暮らすつもりはありません。事態が徐々に安定、復興に向けて改善していくことを信じたいと思います。私の職場もごらんのとおりですが、学生たちの力も借りながら、五月上旬の授業開始をめざして努力していく決意です。

 地震直後から、多くの方々にお見舞いや様々なご支援をいただきました。親族はもちろん、仕事仲間や調査でお世話になった方々、美術館時代の上司や同僚、同窓生、海外の知人、そしておおぜいの教え子たちからも、心のこもった支援物資やメッセージが寄せられました。ここに厚くお礼申し上げます。

 今後は、私どものことはひとまずご放念いただき、より深刻な状況にある被災者の支援、被災した博物館・美術館等の復旧、被災地の文化財の救出・修復・保全等の活動に、一層のご協力を賜りますようお願い申し上げます。

 末筆ながら、みなさまのご健勝を心よりお祈り申し上げます。

            2011年4月

                                                                                   井上 研一郎

少しだけ使っていた某ブログのサポートが終わってしまったので、緊急避難的に使い始めたのがこのブログです。料金1年分だけ払って、使い勝手など試しているところ。

とりあえず旧ブログから少しずつ記事を転載していきます。データが古くなっている部分がありますが、少しずつ改訂しますのでご了承下さい。

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[自己紹介]

愛車プリウスを津波にさらわれながら命拾いした大学教員。

興味: 日本絵画の空間表現(俯瞰法、逆遠近法など),近世北海道美術史(蠣崎波響と夷酋列像),近代北海道絵画史(山口蓬春、三岸好太郎),中世やまと絵史(画題と画面形式の変遷),琉球・沖縄の美術, 美術と戦争, 美術と女性,学芸員課程,博物館教育