ものろぐ「J-ART」 美術と人間/美術と社会

「日本美術史」を大学や街の講座で語りつつ、多少は自分の仕事の痕跡を残そうとして建てた「物置」のようなもの。

蠣崎波響の初期の作風について ―画技の習得と建部凌岱―     

はじめに



蠣崎波響(宝暦十四年・一七六四~文政九年・一八二六)の初期の作品は、建部凌岱や宋紫石の作風の影響を強く受けて、細密な筆致と極彩色、そして緊張感ある構図をもつ南蘋風の作風を特色とする。しかし市場に出回っている多くは円山応挙の門に入ったとされる後期の四条派風の作品である。また、少なくない贋作の存在(1)によって、波響に対する評価が損なわれてきたことも否定できない(2)。たとえば、辻惟雄氏は一九九一年に開かれた「蠣崎波響とその時代」展図録の中で次のように述べている。

図版でみる限り、波響の遺品の中で大多数を占める四条円山派の作品は、「松前応挙」の誉れにかかわらず、南蘋派時代の数少ない作品にくらべ、おおむね緊張感やオリジナリティの点で物足りない。抱一の作品が往々にしてそうであったように、弟子の代筆が含まれているのかも知れない。とくに、梁川移封に際して資金捻出のため濫作したとすれば、当然それはあっただろう。(辻一九九一)

こうした評価に多少とも修正を加えるためには、可能な限り多くの初期作品を現存の有無にかかわらず改めて検討し、作風の形成過程を探りつつ、その特徴を明確にして評価する必要がある。また少なくない贋作や弟子による代作の問題も避けて通れぬ課題となろう。
本稿では、その第一段階として、まず波響(廣年)の生い立ちから画技の習得、そして建部凌岱との出会いまでの経緯を再検討する。あわせて近年確認された初期作品の紹介を通じて、あらたに注目すべき問題を指摘したい。
なお、本稿では「波響」の画号を記した最初の作品を確認できる寛政六年より前の時期については、原則として「廣年」の名で表記する(3)。

(一)生涯と代表作
蠣崎波響は、宝暦十四年(一七六四)五月二十六日、松前藩主第十二代松前資廣の五男として福山(松前)城内に生まれた(4)。名は廣年、字は世祜である(5)。翌年、家老蠣崎家の養子となる。松前藩随一の碩学といわれた叔父の松前廣長の教育を受けて成長した。早くから画才を表わしたと伝えられ、はじめ建部凌岱に画を学んだとされるが、後述のように最晩年の凌岱との具体的な接触の事実は確認されていない。
凌岱の死後は、江戸で南蘋派の絵師として活躍を始めていた宋紫石の門で本格的な画技を習得した。二十歳ころまでに松前に戻って藩務につき、松前を訪れた大原左金吾(呑響)と親交を結び、その後も交流を続けた。
寛政元年(一七八九)、東蝦夷地クナシリ・メナシ地方でアイヌと和人の間に衝突、いわゆる寛政蝦夷騒動が起こり、和人七十一名が殺害された。これに対し松前藩は鎮圧隊を派遣して三十七名のアイヌを処刑し、騒動を収束させた。波響はそのとき事態の収拾に功があったとされるアイヌ指導者十二名の肖像を藩命によって描き、翌寛政二年に完成させた。これが《夷酋列像》である(6)。
波響はこの列像を京都に運び、高山彦九郎らの協力を得て光格天皇の叡覧を受けた。列像に描かれた人物の異貌と精緻な表現は京中に大きな反響を呼んだ。波響はこの上洛の間に円山応挙や門人たちとの交友を通じてその平明で洒脱な画風を学び、作風に厚みを加えていった。波響はその後寛政六年、寛政十二年にも上洛してそのたびに皆川淇園、釈六如、菅茶山ら多くの文人墨客と交わった。
その後、松前藩は大原左金吾の著作などをきっかけにその北方経営を疑われるようになり、寛政十一年(一七九九)、幕府は東蝦夷地を松前藩から取りあげて直轄とした。さらに文化四年(一八〇七)には蝦夷全島を直轄とし、松前藩を陸奥梁川に転封した。家老となっていた波響は、若き藩主章広を助けて復領のために奔走するいっぽう、画作にも力を注ぎ、この時期に多くの優品をのこした。
藩は文政四年(一八二一)に復領を許され、松前に戻った波響は、隠居後も藩主に代わって江戸に赴くこともあったが、ようやく悠々自適の日々を得て、文政九年(一八二六)、六十三歳で歿した。(7)
波響の代表作としては、すでに挙げた《夷酋列像》(ブザンソン美術博物館、函館市中央図書館)のほか、次のようなものがある。
  《瀑布双鳩図》天明年間か(北海道立近代美術館)(図1)
  《柴垣群雀図》寛政八年(一七八六)(松前町郷土資料館)(図2)
  《釈迦涅槃図》文化八年(一八一一)((函館・高龍寺)
  《梁川八景図》文化九年(一八一二)((函館市中央図書館)
  《唐美人図》文化十一年(一八一四)( (市立函館博物館)
  《名鷹図》文化十二年(一八一五)(北海道立函館美術館)
  《瑞鶴祥雛図》文政九年(一八二六)(北海道立函館美術館)


(二) 蠣崎家の「嗣子」か「嗣孫」か
廣年(波響)が蠣崎家に入った経緯について、『北海道史 第一』(一九一八年)には「藩老蠣崎将監廣當の嗣孫となり其家を継ぎぬ」と簡潔に記すが、同書の編纂に携わった河野常吉(犀川)は、のちに「北鳴新報」に寄せた一文で次のように述べている。

波響は松前藩主若狭守資廣の弟なり、今を距ること百四十三年前、明和元年五月二十六日福山城内に生まる、同二年六月君命を以て藩老蠣崎将監廣武(一書廣當に作る今松前家記に拠る)の嫡孫となる(河野一九〇七)

  ここで「将監廣武」とあるのは「元右衛門廣武」の誤記と思われ、さらに河野自身が「今松前記に拠る」とするなら、「嗣孫」でなく「嗣子」でなくてはならない。河野は「北海道史」の附録として編集した「北海道人名字彙」(一九七九年刊行)ではこれを改めて「(明和)二年六月家臣蠣崎将監廣當の嗣孫となる」とした。
しかし、なぜ「廣武の嗣子」でなく「廣當の嗣孫」なのか。郷土史家の越崎宗一はここに疑問を抱いた。(越崎一九四四)すなわち、松前廣長自筆本『𦾔記抄録』(『松前町史・史料編』第三巻所収、以下「旧記抄録」)には、明和二年正月十四日に廣年(波響)を将監廣當の嫡孫とする君命が下り、六月十六日に「嫡孫」となったという記述がたしかにある。だが、新田千里編『松前家記 附録三』(『松前町史・史料編・第一巻』所収(以下「松前家記」)では、廣年は元右衛門廣武の「養子」となったことになっている。
越崎はこの食い違いについて、蠣崎啓次郎(8)の手記にある説明がそうした「定説」の根拠となっていたと推測する。すなわち、廣年は明和二年六月に廣武の養子となったが、幾何もなく廣武が死去したため、祖父廣當の嗣孫となって家督を継いだというものである。
しかし、この説明でも矛盾が生じると越崎は言う。廣武が死去したのは十年後の安永四年である。「幾何もなく」と言える年数ではない。しかもその二年前に廣當は他界している。蠣崎家の過去帳によれば、「五代将監廣當」は安永二年八月五日に六十七歳で死去、「六代元右衛門廣武」は安永四年十二月十六日に二十四歳で死去している。つまり、蠣崎啓次郎の手記のように「廣武が死去したため祖父廣當の嗣孫となった」という説は成り立たないのである。
そこで越崎は「廣武が生存中に廣年が嗣孫となって家督を継いだものとすれば、廣武という人は何らかの理由で廃嫡されたと考えなければならぬ」と、一歩踏み込んだ。そうであれば、「過去帳には六代元右衛門廣武とあって一度は家督を継いだ人であるから、廣武の嗣子説と合致する」というわけである。廣武が一度は家督を継ぎながら廃嫡された理由について越崎は何も述べていないが、生来病弱であったか、あるいは何らかの後天的な障害を持っていたなどの事情があったと考えられる。
ちなみに「旧記抄録」には廣當の死去により廣武が家督を継いだとする記述があるが、同書にはその五日前、廣當が病気のため退役し、その功労により廣年が西部木之子村を一代限り拝領したことも記されている(9)。家督は二十二歳の廣武に継がれても、蠣崎家のいわば「代表権」は十歳の廣年(波響)にあったことになる。
永田富智は、これらの件について、前述の『旧記抄録』の記事を引いて「蠣崎将監方の嫡孫として金介(廣年)を遣わさるべき旨の君命あり」(原漢文)とあることから、父資廣の命によって将監流蠣崎家の養嗣子となる事が決まっていたことを重視する(永田一九八八)。すなわち五代目将監廣當亡きあと六代目を継ぐべき元右衛門廣武は病弱で嗣子がなかったので、跡継ぎをスムーズに行うには藩主の命が必要であるが、このとき藩主資廣は余命幾ばくもないほど体調を崩していた。資廣の存命中に蠣崎家の跡継ぎを確実にする必要から、誕生日前の幼い金介を一刻も早く養嗣子とすることが求められていたのである。
以上、やや不自然に見える継承関係ではあるが、いずれにしても、廣年(波響)はこのあと「廣當の嗣孫」そして「廣武の嗣子」という立場を背負い、家禄五百石の蠣崎家の跡継ぎとして成長していくのである。


(三)画才の発揮、廣長の教育
波響の幼少年期から青年期にかけての動静はほとんど知られていない。わずかに安永二年(一七七三)、波響十歳のとき、曾祖父廣當の退役にあたり木之子村の一代支配を申しつけられたことは前述したが、これとて波響自身の行為の事跡とは言えない。
ただひとつ、これまで幾度となく語られてきた次のような「出来事」がある。

廣年は幼より画を好み八歳の時城内の馬場に於て馬術を練習するのを見て騎馬奔駞の状を描き、大人をして驚かしめたという。(越崎一九四四)

  廣年は幼少より画を好み、八歳の時、城内の馬場で馬術の練習を見て、騎馬奔駞の状を描き、見る者皆舌を捲いて驚いた。 (武内一九五四)

武内収太は市立函館博物館の初代館長で、戦後散佚しつつあった波響作品の調査と収集に努め、『松前波響遺墨集』の刊行を実現した。ほぼ同文と言えるこれら二者の文章は、おそらく河野常吉による次の記事を典拠としたものであろう。

波響幼にして頴悟、最も絵画を好む八歳のとき藩侯城内の馬場に於て馬術を練習す波響馬見所に在り忽然懐より紙を出し侯の騎馬奔騰馳駆の状を描く、見るもの驚嘆せざるなし、波響の画に於ける天稟と云ふべきなり(河野一九〇七)

管見の限りでは、明治以降の記録の中でこれが最も早い叙述である。河野によれば「馬術を練習」していたのは「藩侯」つまり兄の道廣だったことがわかる。しかし、これにも典拠は示されていない。波響に関する江戸期の文献にも、幼時の事跡に触れたものは知られていないので、河野はこれもおそらく前述した蠣崎啓次郎ほか三名の協力者(10)から伝え聞いたことを記したものと思われる。
また、波響末裔の蠣崎廣根は、祖父蠣崎敏から、八歳の波響が「懐紙に矢立の墨を小指の爪につけて、疾走する馬の様子をスケッチし」たという話を繰り返し聞かされたという。(蠣崎廣根一九九〇)
これらはいずれも伝聞の域を出ないが、波響が幼いころから画才を発揮したことを否定する資料もないので、ひとまずそのまま受容するとして、次の問題は本格的な画技の習得開始についての問題である。これについて、河野は伯父の松前廣長が最初の師であったとする。

波響稍稍長じ伯父松前廣長に従ひ其の教を受く。廣長は(中略)池大雅に就きて画を学び梅竹を善くす。廣長深く波響を愛し心を尽くして教育したれば波響は益々画に長じ又文学を善くするに至れり。(河野一九〇七)

松前廣長(一七三八~一八〇一)は、松前藩随一の碩学と言われた人で、藩の正史とされる『福山秘府』ほか多くの著書もあり、自作の画もいくつか知られている。波響にとってはおそらく最も信頼できる人生の師であった。その廣長が池大雅(一七二三~七六)とのつながりがあったとすれば、江戸においてもさまざまな絵師との交流があったであろうことは当然考えられる。そのなかで、宝暦十二年 (一七六二)には建部凌岱が「香道および国学の師匠として」江戸の松前藩邸に出入りしており(11)、さらには明和七年 (一七七〇)、廣長が進めていた松前道廣と花山院常雅の娘との婚約にあたっては、花山院の側近としての役目を果たしている。また後年のことではあるが、松前の廣長の邸に建部凌岱の画があったことも記録に見える(12)。
したがって、松前廣長は波響の画の師とまでは言えないとしても、ある程度の手ほどきはできたはずで、加えて波響を凌岱に引き合わせることができる立場にあったことも確かである。


(四)建部凌岱との出会い
建部凌岱(一七一九~七四)と蠣崎波響の師弟関係について、『画乗要略』はじめ近世の文献で言及したものはない。近代に入り最初にそれが現れるのは、管見の限りだが、これも河野常吉の前述の記事においてである。

波響廣長に従ひ江戸深川邸に在るや廣長又波響をして建凌岱に就きて学ばしむ。 (中略)波響が其の初東岱と称したるは之れによるなり。(河野一九〇七)

河野は、波響が凌岱に師事したのは伯父廣長のはからいによるとする。しかし、入門させたことを示す具体的根拠は示されていない。おそらくはこれも文末にある材料提供者から得た情報であろうが、後述のように松前藩と凌岱がもともと浅からぬ繋がりを持っていたことから、自明のこととしたのかもしれない。
河野のあとは、やはり前出の越崎、武内による叙述がつづく。両者はここでも河野の文章をほぼそのまま踏襲している

廣年の叔父松前廣長は、(中略) 悧巧で絵心のある少年廣年を愛して教育し、江戸に遣して建部凌岱に入門せしめた。廣年は幼にして凌岱に南蘋風の画を習ったが凌岱は安永三年武州熊谷駅で五十六歳で歿して居り明和元年生の廣年は年齢僅かに十一歳であったから、凌岱に受けた画は少年時代の手ほどきに過ぎなかった。凌岱に師事して彼は東岱と号した。」(越崎・前掲)

叔父廣長は、彼を江戸の藩邸に遣して、当時名声を馳せた建部凌岱の門に学ばせた。(中略) 少年廣年はこの優れた画人を師とし、凌岱の一字をとって東岱と号して、南蘋風の画法を学んだのである。建部凌岱は安永三年(一七七四)武州熊谷駅で五十六才をもって惜しくも病歿したが、当時廣年は十一才の年少であった。」(武内一九五四)

ただ、越崎の叙述には新たな一文が加わる。すなわち凌岱が旅先の熊谷で歿したとき、廣年はまだ十一歳であったという事実である。この年齢でどれだけのことが習得できるか、河野が触れなかったこの点を越崎は疑問視したのかもしれない。武内も、おそらく越崎の指摘に倣って同趣旨の一文を添えているが、こちらは必ずしも疑問視した表現ではない。
この凌岱と廣年(波響)の出会いについて、谷澤尚一は厳密な検討を加えた。そもそもなぜ廣長は江戸にいた多くの絵師たちの中から凌岱を選んだのか。谷澤は凌岱が宝暦十二年以降、はじめ香道の師として松前家に出入りしていたことを述べ、その行動を詳細に追跡しながら、彼が廣年と接触する可能性のあった時点を割り出した。(谷澤一九八五⑫~⑭)
まずは廣年の兄道廣(十三歳)が志摩守に任ぜられて初めて松前に向かう明和三年(一七六六)二月十六日の朝、凌岱は風邪気味の身体を厭わず発駕を見送ったという。しかし、このとき廣年はまだ三歳で「襁褓(むつき)の中に在る」。
次の機会は、明和七年(一七七〇)十一月、道廣(十七歳)が参勤すると、凌岱も十一月七日に江戸に着き、親しく対面した。このとき七歳の廣年は陪席するなどして凌岱に対面できた可能性があることになる。例の「城内の馬場で騎馬奔騰馳駆の状を描く」のは翌年のことであるが、このとき与えられた指導や助言によって画技が向上した結果であったのかもしれない。
この年の凌岱の江戸下向は、自らが側近を務める花山院家の娘敬子と松前藩の若き藩主となった道廣との婚約を滞りなく進めることが主要な任務であった。凌岱は江戸と京都を結ぶ慌ただしい日々を送り、その間に花山院の死去などもあったが、敬子の輿入れは無事に行われた。
そのあと安永二年まで、凌岱が廣年と出会う機会はなかったと谷澤は推定する。そして年末、旅先の桐生で体調を崩した凌岱は、翌年熊谷に移って療養するも病状好転せず、江戸に戻って間もなく三月十八日に歿した。この経過から考えて谷澤は、安永二年から三年にかけての期間に凌岱が廣年に直接画技を教授することは不可能であったと結論づけた。

従って、江戸における金助(廣年)の師事説が、もし誤りないとすれば、七歳の時、兄に扈従しての明和七年(一七七〇)冬しかないわけで、巷間伝えられている八歳以後の師事説は、全く根拠のないものである」。(谷澤一九八五・⑭)

凌岱と松前家が娘の婚姻の仲立ちまで関わるという深い関係を持っていたにもかかわらず、凌岱の出会いの機会は廣年七歳の時以外なかったことになる。十一歳での師事にも疑問を持っていた(と思われる)越崎、武内の両者にとっては、到底受け入れられる結論ではなかっただろう。
しかし、師との直接の対面が七歳という幼少時であったからといって、それでは師事したことにならないと簡単に結論づけることはできない。のちに谷澤は改めてこの間の経緯をあらためて述べた上、つぎのように言う。

金助(波響の幼名)には、伯父廣長、兄道廣から間接ではあるがある程度の知識が得られ、嫂敬子によって、長崎派といわれる凌岱の技法を聊かなりと会得できた筈である。最初の雅号(を)東岱とするのが、画風を慕ってのことと解しても撞着しない。すなわち手本とすべき画帳の数々は、殆どすべて刊行されており、容易に入手できたのである。(谷澤一九九〇、括弧内は引用者による)

谷澤はつづいて凌岱が次々刊行した画譜を列挙する。

宝暦十年成、同十二年刊、寒葉齋画譜五冊。(初版は二冊本)
明和八年刊 李用雲竹譜
明和七年成、安永元年刊、孟喬和漢雑画五冊。
安永元年成、同四年刊、建氏画苑三冊。 海錯譜一冊
安永八年刊 漢画指南二冊

これに「寒葉齋画譜」の別冊として明和元年に刊行された「百喜図」を加えると、凌岱が著した画法書の全てとなる。(13)
これらのうち『寒葉齋画譜』は、廣年が七歳の時すでに刊行されており、幼い廣年がそれらを見ながら独学で画技を習得することは、不可能とは言えない。しかも、その画譜が松前藩の文庫にも所蔵されていたと考えられる事実がある。浅利政俊によれば、高倉新一郎所蔵の「福山御文庫現在書目」は松前藩校徽典館の蔵書の一部をなすと考えられる資料である(浅利一九八四)が、そのなかに「寒葉齋画譜」の記載を確認することができる。ほかにも「芥子園画傳」「圖絵寳鑑」「佩文斎書画譜」なども所蔵されている。一般の藩士が日常的にこれらの書物に触れることが出来たかどうかは別として、藩重臣の家に育った廣年であればそれはたやすいことであったはずである。
また、兄道廣の正室敬子についても、谷澤は

画技を善くし、しかも凌岱直伝の画法を会得しており、それがかりそめの師とし      ての可能性を秘めていた。また、敬子に侍した(小磯)逸子も花山院家で教養を身につけたといわれる。(谷澤一九九〇、括弧内は引用者による)

とし、さらに、宝暦二年に藩主資広が凌岱の画を家臣に与えたこと、また前述した木村謙次『北行日録』に廣長の邸に凌岱の絵が掛けられていたことを付け加え、「凌岱の画は早くから松前に齎らされ、珍重されていたとみられる。」(谷澤一九九〇)としている。
永田富智も著書の中でこの問題をとりあげている。

彌次郎(廣年)が凌岱から絵を学んだとしても、七、八歳の数か月であったと考え  
られる。しかし、彌次郎が凌岱に師事後、氏の一字を採って東岱と号しているので、
く師弟の画業の接触はなかったとは考えられない。(中略)廣長と凌岱は以前から知  
温であって、その誼を通じて何らかの接触(作品添削などの通信)が行われていたか
もしれない。(永田一九八八)

こうした環境のもとで、少年廣年は当時の江戸で隆盛となりつつあった中国絵画の新しい傾向に触れながら、折に触れて伯父廣長から画の手ほどきを受け、徐々に技能を習得していったと想像される。彼を取り巻く環境は想像以上に画技の習得にふさわしいものであったことは疑いがなく、必ずしも専門画師に直接教えを乞う必要はなかったかもしれないのである。
ただ、初期作品に見られる雅号の「東岱」について言えば、師の名の一字をとって名乗るということは、たんに画譜を通して学ぶだけの師弟関係では許されないであろう。やはりそれは直接の対面によって初めて実現したのではないか。凌岱は、目の前にいる七歳の少年の画才を見抜いて、自らの一字を与えたと考えるべきであろう。そして、廣年はそのことを宋紫石の門下にあっても誇りとし、「東岱」の号を使い続けたのである。
 しかし、廣年が「東岱」の名をしばらくの間でも使い続けるには、やはり師の宋紫石の了解が必要だったのではないか。とすれば、凌岱は死ぬ前、自分の死後は宋紫石に就いて学ぶようにと廣年に伝えていた可能性が考えられる。越崎が「宋紫石に就いたのは凌岱の遺言によったものであるとも伝えられている」(越崎・前掲)とし、武内が同様に「廣年は、師の遺言によって (中略) 宋紫石に就いて南蘋派の業を続けた」としたのも、そうした判断によると思われる。しかし、実質的に遺言といえるような書簡や覚え書きの存在はこれまでに知られていない。
 凌岱が歿した十二年後の天明六年に、紫石も他界した。その四年後の寛政二年、、廣年は驚くべき精緻な技法と鮮やかな彩色による《夷酋列像》を完成させた。いったい、廣年はどのようにして周囲を驚愕させる超絶画技を身につけたのであろうか。


(五)波響の初期作品
 凌岱の作風の影響が見られるものを中心に、現在所在不明の作品を含むいくつかの初期の波響作品を検討する。なお、《東武画像》(天明三年)および《夷酋列像》(寛政二年)については、ここでは検討の対象としない(14)(15)。

 

《松瀑双鶴》絹本 款記「丁未仲春/冨春館京雨画」天明七年(一七八七)・所在不明 (図1)
 昭和十四年(一九三九)に函館で開かれた「松前波響遺作展覧会」に《松上の鶴》の題名で出品、同二十九年(一九五四)刊行の『松前波響遺墨集』に掲載された。いずれの時点でも所蔵先は北大図書館とあるが、現在は所在不明。
 図版での考察にとどまるが、南蘋派に多く見られる癖の強い樹法が特徴的である。

図1 蠣崎波響《松瀑双鶴図》(所在不明)

《雪景山水》絹本 款記「戊申初秋/毛夷國/冨春館/廣年画」天明八年(一七八八)(図2)
 緻密な樹法と皴法による幽玄な雰囲気の雪景であるが、昭和二九年(一九五四)刊行の『松前波響遺墨集』掲載以降、所在不明。
 「毛夷國」という款記を持つ作品は本図以外に知られていない。藩外の人物へ送ることを前提とした制作であったかもしれない。

図2 蠣崎波響《雪景山水図》(所在不明)

《懸泉幽居図》絹本墨画淡彩 款記「東岱画」・天明年間か・個人蔵(図3)
 波響初期の作品として早くから知られながら長く行方が知れず、近年ようやく所在があきらかになったもの。樹法や点苔などに凌岱画譜との共通点を見ることができる。

図3 蠣崎波響《懸泉幽居図》(個人蔵)

《蓮蛙図》絹本着色 署名「波響製」・松前町郷土資料館 (図4)
ごく最近存在が知られるようになった注目すべき作品。画面中央の蓮の葉の上に蛙が描かれ、上半身は枯れた蓮の葉の陰に隠れているが、反転した像が手前の水面に映るという特異な構図である。枯れた蓮と蛙を組みあわせた構図は凌岱『孟喬和漢雑画』巻之四に「秋水敗荷」があり、本図はそれを下敷きにしたとも考えられるが、今述べた主要部分は喜多川歌麿の『画本虫撰』中の一図「蛙・こがねむし」に酷似する。(16)同書は蔦屋重三郎が版元となり、歌麿が全十五図を描いた狂歌絵本で、尻焼猿人(酒井抱一)、四方赤良(太田南畝)ら著名人が狂歌を寄せている。
波響の兄池田頼完(よりさだ)は笹葉鈴成を名乗る狂歌師として知られ、『百千鳥狂歌合』などに歌を寄せているが、本書には登場していない。しかし、こうした人物を兄に持つ波響であれば、刊行後間をおかずに本書を入手したと考えても不思議ではない。本図にある水面の反転像は『画本虫撰』以外からの借用はあり得ないであろう。したがって、本図は同書刊行の天明八年(一七八八)から間もない時期の作であることが推定される。

図4の1 蠣崎波響《練蛙図》(松前町郷土資料館)

《鴨図》紙本着色 寛政六年(一七九四)落款「松前波響」広島県立歴史博物館 (図5)
 広島・福山藩の儒学者・漢詩人だった菅茶山の旧蔵品で、京都円山の雙林寺の書画会で出会った画人の絵を中心にまとめた画巻のうちの一図。画面いっぱいに描かれた鴨は、凌岱の画譜にそのままの形はないものの、共通する力強さを感じさせる。いっぽう、足元の酢漿草(かたばみ)の没骨による表現には、すでに円山四条派の影響を見ることができる。現時点で、「波響」の二字をふくむ署名を持つ最も早い作例である。「松前波響」としてある点をふくめ、制作地が京都であったことによるか。

《柴垣群雀図》絹本着色 署名「廣年」・寛政八年(一七九六)・松前町郷土資料館 (図6)

 早くから知られた作品。上部に太原呑響の賛がある。藩主章廣の師として招請された呑響は前年からこの年にかけて松前に滞在し、波響楼を宿所とした。しかしやがて前藩主道廣の言動に疑問を抱き、十月に松前を去る。本作品はその数ヶ月前に描かれたもので、柴垣の形状などに凌岱画譜との共通性が見られる。

図6 蠣崎波響《柴垣群雀図》(松前町郷土資料館)

《瀑布双鳩図》絹本着色 署名「東岱」・北海道立近代美術館 (図7)
宋紫石の《鯉花鳥図》三幅対の右幅を忠実に模写した作品で、師の作風に迫る精緻な筆遣いが見られる。天明年間の作と考えられる。すでに凌岱の門を離れ、新たな師である紫石の作品を模したにもかかわらず「東岱」の画号が用いられている点が注目される。

図7 蠣崎波響《瀑布双鳩図》(北海道立近代美術館)

図8 宋紫石《鯉花鳥三幅対》(所在不明)東京美術倶楽部1973年3月展観入札売立会目録




 以上を概観すれば、天明・寛政期の波響作品の多くに建部凌岱の影響が見られると同時に、波響は宋紫石が得意とした細密な筆致による克明な表現手法をこの間に身につけ、それだけでなく浮世絵作品にまで関心をひろげていたことが見て取れる。今後さらに検討の範囲を広げて、初期の波響作品の全体像を明らかにしていくことを課題としたい。

 

註:

(1) 波響の現存作品は、筆者が調査を始めた一九七七年以降これまでに約二〇〇点(花鳥=約一二〇点、人物=約五〇点、山水=約三〇点)を確認しているが、その間これらとは別に確認した贋作は少なくとも七〇点以上にのぼり(図版のみのものを含む)、その中には数年にわたって古書画目録に掲載されているものもある。

(2) 武内収太は、『松前波響遺墨集』の後記で次のように述べている。

「この(遺墨集刊行のための)調査により波響と称せられるものには、偽作の予                   想外に多く世間に流れていることが判明し、この為に波響の実力に比して世間の評の低い一原因をも知ることが出来ました。」

(3) 寛政六年より前に「波響」の画号を記した作品として、《東武画像》(天明三年・東京国立博物館)が知られているが、作風がこの時期の波響作品と大きく異なり、款記の文字にも問題点が指摘され、さらに他の「波響」落款作品との年代差が大きいことから、ここでは検討の対象から外すこととした。

(4) この年は六月二日に改元があり、以後「明和」となったので、明和元年生まれと表記する文献も少なくない。

(5) 波響の字「世祜」を「世祐」とする文献が散見される。すでに同時代の『淇園文集』写本に「源君世祐」なる表記があり、「祜」と「祐」の旁の草書体が酷似していることからの誤記と考えられる。明治以降も『扶桑画人伝』(古筆了仲一八九五)に「蛎崎氏名ハ廣年字ハ世祐波響ト号ス通称将監ト云フ」とあるほか、河野常吉も「世祐」としている(河野常吉一九〇七)。

(6) 《夷酋列像》についての主な文献は次の書物に詳しい。

 ・「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展図録(二〇一五年・北海道博物館)

 なお、二〇〇五~二〇〇八年には国立民族学博物館で「『夷酋列像』の文化人類学的研究」と題する共同研究(代表者 大塚和義)が行われ、筆者も参加した。

(7) 詳細は拙稿「蠣崎波響年譜稿」(『波響論集』所収・一九九一年・波響論集刊行会)

(8) 蠣崎啓次郎は河野の「北鳴新報」記事文末に協力者としてその名があり、永田富智(郷土史家、松前町史編集長)の覚え書きにも、準寄合格(四百十五石)の蠣崎家の家系図中に記載されている。

(9)「蝦夷拾遺」(天明六年)によると、当時の木之子村は戸数六十弱、人口百二十余であった。(『北海道史 第一』第三編第四十七章)

(10) 河野があげた三名は次のとおり。佐々木実、上条敬也、蠣崎啓次郎、西川順作。

(11) 谷澤尚一「夷酋列像図 成立とその周辺」⑩一九八五年六月六日・北海道新聞)

(12) 木村謙次『北行日録』寛政五年三月四日条に「老圃子ヨリ四ツ時来ルヘシト使来リ其隠居ヲ訪初テ謁見ス、正室ニ琴書堂ト云額アリ(鳥石書)床ニ琴鎧函矢筒アリ承塵ニ槍ヲ掛建凌岱カ画山水ノ掛幅アリ、酒ヲ賜鷹羹ヲ出サル、酒肴出テ後温飩ノ供アリ…」とある。

(13) 植松有希「建部凌岱の画業」(「建部凌岱展―その生涯、酔たるか醒たるか―」展図録所収・二〇二二年・板橋区立美術館)

(14) 《東武画像》に関しては、佐々木利和氏による詳しい論考(佐々木一九七七)があるが、氏が文中で指摘されているいくつかの疑問点とともに、この時期の他の波響作品との大きな相違点から見て、これを波響の真作と判断するにはより慎重な検討が必要と考える。

(15) 《夷酋列像》に関しては、近年、春木晶子氏による次のような一連の図像学的研究があり、新たな展開が期待されるが、画法や作風についての検討は依然として今後の課題であろう。

・春木晶子「《夷酋列像》―12人の『異容』と『威容』―」(「夷酋列像 蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」展図録所収・二〇一五年・北海道博物館)

・春木晶子「《夷酋列像》と日月屏風―多重化する肖像とその意義―」(「美術史」186号掲載・二〇一九年・美術史学会)

(16) この事実は内山淳一氏のご教示による。

御後絵(おごえ)―復元か、再生か、それとも― 佐藤文彦『遙かなる御後絵』によせて

                                                                                                               井上 研一郎 

アイヌ肖像画との対比

 歴代琉球王の肖像画である「御後絵(おごえ)」に筆者が関心を抱いたのは、江戸後期に描かれたアイヌ指導者たちの肖像画である《夷酋列像(いしゅうれつぞう)》についての調査研究を続けるうちに、同じ東アジアの肖像画に見られる共通点と相違点を明らかにしたいと考えたことによる。
 《夷酋列像》は、一七八九(寛政元)年に蝦夷地の国後・目梨地方で起こったアイヌと和人の大規模な衝突事件に際し、結果的に松前藩に協力的な立場をとったアイヌ指導者たち十二名の肖像を一七九〇(寛政二)年に蠣崎波響(一七六四~一八二六)が描いたものである。その精緻な筆致と鮮烈な彩色、厳しい表情の人物表現は京都の上流階級や江戸の大名たちの間で話題となった。とくに、アイヌ指導者たちが身に纏っている中国製の衣服は「蝦夷錦」と呼ばれて珍重されたもので、金糸をふんだんに用いて雲龍文様を刺繍した豪華な品であったが、波響はそれを見事な質感表現によって迫真的に描ききっている。(図1)

図1 蠣崎波響《夷酋列像》のうち「ツキノエ」(ブザンソン美術館蔵

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 琉球の御後絵にも同じ衣服が登場する。中国が清代にはいると琉球王の冠服もそれに応じて大きく変わり、両肩および両袖に雲龍文を刺繍した衣装が現れる。
 現存する《夷酋列像》としては、戦前から知られる原本の一部に加え、戦後になって別の一組の原本と考えられる作品がフランスで発見された。これによって、波響が天覧に備えて《夷酋列像》を再制作し、正本・副本を用意したことが裏付けられた。また近年では国立民族学博物館の共同研究グループ(代表者・大塚和義氏)による調査やシンポジウムなどにより、多くの写本を含ふくむ多面的な検討が行われ、徐々に成果が生まれつつある。
 これに対して、御後絵は沖縄戦(一九四五)の最中に消滅して、一点も残っていないという。わずかに戦前撮影された十枚の白黒写真が、現代にそのイメージを伝えているのみである(図2)。こうした状況のもとでは、御後絵と《夷酋列像》を直接比較検討することは不可能であり、筆者も最近までその可能性を見出せないでいた。
 ところが、一九九三年、沖縄の若い油彩画家・佐藤文彦氏が白黒写真を手がかりに御後絵の復元に挑戦し、一九九六年までに十点の作品を完成させた。さらに二〇〇三年、作品制作の経緯を詳しく述べた『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(註1)を上梓したのである。

図2 御後絵(第七代尚寧王)鎌倉芳太郎撮影

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本書の構成

 本書の内容は、大きく前半と後半に分かれる。著者自身の執筆による前半では、著者が御後絵と出会い、その再生を果たすまでの経過が綴られている。後半部は、初期の御後絵研究者の一人、比嘉朝健が地元新聞に発表した論文、琉球絵画関係年表、および御後絵に関連する用語の事典などからなる、いわば付属資料編である。
 五章に分かれた前半を概観すると、まず第一章では著者を御後絵研究にみちびく役割を果たした鎌倉芳太郎の名著『沖縄文化の遺宝』、琉球の古美術研究に功績のあった比嘉朝健、はじめて御後絵の写真を出版物に掲載した真境名安興等が紹介され、こうした先人たちとの「出会い」が著者を御後絵再生へと導いたことが語られている。
 実物が失われ、白黒写真しか残らない御後絵の復元は、焼失した法隆寺金堂壁画の場合と比べてもはるかにむずかしい。法隆寺金堂壁画は、皮肉なことに模写作業中の失火による火災の犠牲となったが、専門業者によって撮影されていたカラー写真の分解ネガがあり、これによってかなり精密な復元模写が可能となった。御後絵の場合はそうした記録は全くないという。著者があえて「復元」と言わず「再生」と呼ぶのはそのことを考慮してのことであろう。
 御後絵再生の最大の動機について、著者は「鎌倉芳太郎の沖縄文化に対する徹底した探求心と鮮明な写真画像に私自身の魂が激しく揺すぶられたからであった」と述べ、「現代絵画から見れば陳腐に感じるこの絵も、シルエットを描き色彩を施す過程のなかにこの王国独自の深い精神性に触れることができるかも知れない」という期待をもってこの仕事に打ち込んだという。
 つづく第二章「遙かなる御後絵」で、著者は御後絵をはぐくんだ琉球王朝の歴史をふりかえり、中国(明・清)との冊封関係とその中で育まれた中華思想的な美の様式が御後絵の特徴的な構図をつくり出したと述べる。
 ついで著者は御後絵を描いた宮廷画家=絵師の考察に移り、鎌倉芳太郎の研究成果に沿って、琥自謙(石嶺伝莫・一六五八~一七〇三)、呉師虔(山口宗季・一六七二~一七四三)、殷元良(座間味庸昌・一七一八~一七六七)、向元瑚(小橋川朝安)らを紹介する。最後に、第二尚氏初代王の尚圓(一四一五)~一四六七)を描いた御後絵をとりあげ、その特徴を指摘する。
 第三章は、いよいよ御後絵再生の具体的な過程が作品ごとに語られるが、著者はそれに先立ち「現代絵画を専攻した者が…古い国王の肖像や民族的風俗画にのめりこんでいいものかという自問のくりかえし」があったことを率直に告白している。それに対しては「完成された古典画の様の中にこそ理想としての永遠の美が隠されているはず」と自らに言い聞かせてきたという。そして、最後の一枚が完成した瞬間、画面からオーラを感じ取り、身体全体が宙に浮くような浮遊感覚に襲われたという。
 つぎに、著者は御後絵の表現が全体として古代中国絵画における勧戒画の流れをくみながら、琉球独自の様式を生み出している点として、山水画のように「絶対的存在感を示す聳え立つ国王像」
をあげている。国王と従臣の像の大きさを極端に変えることにより、「そびえ立つ山を仰ぎ見るような国王像」がつくり出される。
 以降、再生御後絵の制作過程が作品ごとに詳細に語られる。その中で最大の困難が彩色の特定であったことは容易に想像される。唯一の客観的な手がかりは鎌倉芳太郎が撮影した白黒写真であり、構図や形状はかなりの程度再現できたとしても、写真の明暗は必ずしも彩色の濃淡を示すとはかぎらない。色相の違いが感光剤の反応に影響して明暗となって現れることもあるからである。
 写真に比べて主観的要素が多くなるとはいえ、御後絵を実見した人たちの記憶や印象も無視することはできない。著者は「後半の作品は実見した人物の助言を受けた後に描いたため、歴史的な背景を考慮したり、細部まで緻密に描くなど試行錯誤のあとがみられる作品群となった」と述べている。
 第四章「図像解釈学からみた御後絵」では、イコノロジー(図像解釈学)の観点からあらためて御後絵を分析している。正面性(フロンタルビュー)の構図、明朝が国王用に制定した皮弁冠服の着用、衣服に表された龍の文様、国王が手にしている「圭」、王と従臣たちの足下を飾る敷瓦などについての考察がある。
 さらに、著者は明代の御後絵と清代の御後絵の表現の違いを明確に指摘し、なかでも絵画空間の表現に大きな違いが見られるという。明代の御後絵が近景、中景、遠景と積み重ねたような奥行きを示しているのに対し、清代の御後絵では中景の一部と遠景が省略され、雲形を配した幕のようなものが背景を埋め尽くしている。すなわち、明代では王の後ろに大きな衝立があり、その奥に文房具が描かれ、さらに細い格子のはまった窓(明かり障子か)があるなど、現実の宮殿内に近い表現であるのに対し、清代では特設舞台のように単純で平面的な背景に変わっている。
 また、国王と従臣たちの関係を見ると、明代の御後絵では像の大きさがせいぜい二対一程度であるのに対し、清代にはいるとその比は三対一ほどになり、国王の圧倒的な迫力が強調される結果となっている。その結果、清代の御後絵では「国王像の強調と装飾化」がすすむことになる。
 著者は、最後に地域的な影響関係の考察に入り、東アジア各国の国王級肖像の比較対照を試みている。いずれも中国を軸に交易関係、冊封関係のあった地域であり、共通する点は多い。とくに、朝鮮との関係は、背景の日月を描いた衝立などとも合わせ、図像的に極めて近いものがある。
 以上の比較検討を経て、著者はアジア諸国の肖像画と御後絵の表現様式について、次の三点を指摘する。
 一、中国との朝貢・冊封関係を反映した絵画様式であること
 二、明朝から清朝への移行に対応して御後絵の表現様式が明確に変化すること
 三、琉球の絵師が養成されることにより琉球独自の絵画様式が確立したこと
 第五章は、琉球王朝時代の画人「五大家」の第一と言われる自了(欽可聖、城間清豊・一六一四~一六四四)の生涯と作品についての紹介である。

 

作品実見と所見

 筆者(井上)は、二〇〇七年度の沖縄現地調査にあたり、本書の著者・佐藤文彦氏に面会する約束を取り付け、十二月十八日に作品の実見と聞き取り調査を行った。
 伝統的な画法によらず、しかも白黒写真から彩色画の復元ができるのか。素朴な疑問とともに、そうした難題に挑戦する画家の意図がどこにあるのか確かめたいという、いささか好奇心も手伝っての会見であった。
 佐藤文彦氏は、一九六六年東京都生まれ。一九七四年、家族とともに沖縄県那覇市へ移転、今日に至る。沖縄県立芸術大学卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術(油画)専攻修了、博士(美術)学位を取得した。現在は沖縄県立芸術大学非常勤講師。
 佐藤氏の案内で沖縄県立芸術大学に保管されている作品二点を実見させていただいた。(図3)

図3 佐藤文彦・再生「御後絵」(沖縄県立芸術大学にて)

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〈第十四代尚穆(シヨウボク)王〉 一九九五(平成七)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×168 (図4)

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〈第三代尚真王〉 一九九六(平成八)年 綿布に和紙と絹 アクリル絵具、顔料 162×174 (図5)

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 実際の画面は、図版で見ていたときよりも落ち着いた色調であり、アクリル絵の具を用いているにもかかわらず、日本画の画面に近い印象を受けた。佐藤氏によると、第一作〈第八代尚豊王〉の制作を始めたときから、アクリル絵の具だけでは東洋画の雰囲気が表現できないので、顔料をアクリル・グルーと混ぜて併用したという。また、支持体の綿布に部分的に和紙を貼って東洋画の質感を出したという。
 予想よりは落ち着いた色調とはいえ、〈第十四代尚穆王〉では黄色系の色がかなり強く、江戸後期十八世紀末の絵画としてはやや異質な色調といえよう。〈第三代尚真王〉のほうは、一部の従臣たち(王に最も近い四人)の衣装の色をのぞけば違和感はそれほど強くない。むしろ思ったより繊細で古様な画面に驚かされた。

 

復元は可能か

 「再生」された御後絵は、沖縄県内で大きな反響を呼んだ。しかし、
必ずしも肯定的な評価ばかりがあるわけではない。氏が自ら同書中で述べているように、すでに制作中から「国王の衣裳の色が違う」という指摘が実際に御後絵を見た真栄平房敬氏によって行われている。
 佐藤氏は、最初の作品である「第八代尚豊王」の衣裳の色を、白黒写真から得た自身のイメージによって青と決め、それを浮き立たせるために周囲の人物や調度を赤系の配色で描いた。ついで、第二作「第十一代尚貞王」からはがらりと赤系の配色に変わるが、そのきっかけは「当時復元して間もない首里城の色彩から受けるイメージがあまりに強烈だったこと」、そして東京で見た尚家関係資料の中の国王衣裳が赤地であったことなどであった。第三作、第四作、第五作まで進んだとき、佐藤氏は先の指摘に出会ったのである。御後絵を実見した者の「証言」の重みは大きい。
 直感的な断定、あるいは類推による色彩の決定については、当然ながら研究者の間からも批判が起こるであろう。佐藤氏が強烈なイメージを受けたという復元首里城の色彩にしても、決定までには国内外の資料による厳密な検討が行われている。また、氏が東京で見た尚家関連資料の中にはたしかに赤色の唐衣裳(清代)があるが、同時に頒賜品の生地を琉球国内で仕立てたと思われる真っ青な唐衣裳(同)もある。
 御後絵の「再生」に使われた画材がアクリル絵具とキャンバスであることも、批判の対象となりうるだろう。伝統的な画材を用いてこそ復元の意味があるという理念的な主張はともかく、細部の線描や色面の微妙な質感はそうした画材を用いなければ表現できない部分があるのではないか。
 さらにその線描について言えば、国王をはじめ人物の面貌表現に見られる描線の質は、明らかに日本画のそれではない。佐藤氏はむしろ意識的に無性格な描線を描いているようにも見える。それは写真から得られる情報がそれ以上のものでないからであろう。清朝期の御後絵である尚穆王の顔面に現れているはずの陰影表現が曖昧な印象を与えるのも、同じ原因によるものかもしれない。
 御後絵を「復元」する手だては、果たして皆無であろうか。
 すでに鎌倉芳太郎が指摘しているように、「諸臣肖像画」と呼ばれるもののなかに絵画作品として高い価値を持つものがあり、その何点かが現存する。佐々木利和氏(国立民族学博物館)は、東京国立博物館在職中にこれらを含む琉球絵画の基礎的調査を実施し、報告書「民族誌資料としての琉球風像画の基礎的研究」(一九九八年)において三点の現存作品を紹介している。(註2)
 1.紙本著色片目の地頭代倚像 乾隆二四(一七五九・宝暦九)
   (図6)
 2.紙本著色東任鐸倚像 道光一九(一八三九・天保一〇)
 3.紙本著色宮良長延坐像
これらの現存作品に共通するのは、佐々木氏が述べているように「格段に高い画技」とすぐれた「写実描写」である。なかには宮廷画師・殷元良の関与が推定されるものさえあり、御後絵との関連で無視できない。
 これらの直接的な参考資料に加えて、文献による検討も必要である。中国王朝から琉球王朝への冊封に際して頒賜された王冠や唐衣裳を初めとするさまざまな頒賜品の記録などに手がかりとなる情報が残されている可能性もあろう。また近年、豊臣秀吉に頒賜された明代の冠服の存在が明らかとなり、これと琉球国王の冠服との類似性から新たな知見が報告されている(註3)。これらの調査研究と並行して御後絵の復元事業の動きもあるという。研究の進展にともなう復元の可能を期待したい。

図6 片目地頭代絜聡肖像画(1759)

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復元か、「再生」か、それとも

 佐藤氏は、もちろろんそのことに気づいていた。第六作「初代尚円王」からは、キャンバスに和紙を貼り、絵の具にアクリル・グルーをまぜて日本画の質感を出そうとした。「和紙と絵の具は良く馴染み、筆の運びもスムーズに描けるようになった。」さらに第七作では和紙に加えて絹布を貼り込み、次第に伝統的な手法に近づいていく。筆者が実見したのは、こうした試行錯誤がようやく一つの回答を見出した 第八作「第十四代尚穆(シヨウボク)王」と、第十作「第三代尚真王」であった。紙幅の関係で細かい分析は記せないが、そこにはおぼろげながら浮かび出た歴代の御後絵のイメージとともに、明快な色調と軽快な線で作り出された佐藤文彦自身の世界があった。
 もともと、佐藤氏はこの仕事を敢えて「復元」と呼ばず「再生」と
言い続けてきた。学術的にに厳密な復元を目指したのではなく、琉球王府時代の絵師の心境に少しでも近づき、そこから何かを学び取ろうとしたのだとすれば、彼の目的はほとんど達せられたことになるだろう。
 佐藤氏は、前半の五点については「後日改画の予定である」という。仄聞する御後絵復元の動きも気にかかるが、筆者は氏の「改画」を必ずしも期待しない。試行錯誤を重ねて制作された大作の「改画」は容易な作業ではないだろう。それに費やすエネルギーは莫大な量となろう。むしろ、「再生」御後絵の制作の過程で獲得したさまざまな知見と体験を、新たな創作に活かすことこそ、彼にふさわしい仕事なのかもしれない。
 蠣崎波響は、《夷酋列像》を再制作したあと、二度とこの種の作品を描かなかった。その理由はまだ解明されていないが、極限まで追求された精緻な表現は、その後の作品の随所に活かされ、数々の名作が生まれている。《夷酋列像》はたしかに波響の代表作だが、決して代名詞ではない。
 佐藤氏の感性と技倆、そして情熱が御後絵だけに費やされることなく、新たな沖縄美術の創生に注がれることを切望するとともに、学術的な立場からの御後絵復元の条件が整うことをしたい。

 

註1 佐藤文彦『遙かなる御後絵 甦る琉球絵画』(二〇〇三年・作品社・二八〇〇円)
註2 佐々木利和(研究代表者)『民族資料としての琉球風俗画の基礎的研究』(一九九八年・平成七~九年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書)
註3 那覇市歴史博物館編『国宝「琉球国王尚家関係資料」のすべて 尚家資料/目録・解説』(二〇〇六年・沖縄タイムス社)

謝辞: 本校の執筆にあたり、ご協力いただいた佐藤文彦氏、および貴重なお話しをいただいた父上の佐藤善五郎氏に厚くお礼申し上げます。

 

        「沖縄研究ノート」2008年 宮城学院女子大学 キリスト教文化研究所

追憶の風景 ―蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》をめぐって―

                             井上 研一郎

  一 茶山と波響―巨椋池の記憶

  二 《月下巨椋湖舟遊図》の概要

  三 巨椋池の歴史―変遷と記録

  四 巨椋池の風物と景観

  五 画面の検討―「実景」との比較

  六 失われた景観―終章に代えて

  おわび

 

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 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》1818(文政元) 広島県立歴史博物館

 

一 茶山と波響―巨椋池の記憶

 

寛政六年の宴

文化十五(文政元・一八一八)年三月二十日、福山藩の儒者菅茶山(かんちゃざん)(一七四八~一八二七)は、奈良から伏見へ向かう道中、洛南の巨椋池(おぐらいけ)に立ち寄った。その日の日記に、茶山はこう記している。

 巨椋はむかし六如上人・伴蒿蹊などと、中秋に舟を浮かべし処なれば、なつかしく て巨椋にむかふ。汀洲柳多く妙甚し。(『大和行日記』)

 茶山が「なつかしく」感じた「むかし」のできごととは、二十四年前の寛政六(一七九四)年、中秋のことである。茶山はその夜、朋友の六如(りくにょ)上人、伴蒿蹊(ばんこうけい)らとともに、巨椋池に船を浮かべて月を賞しつつ遊んだ。それは、間もなく故郷に帰ろうとする松前藩主の子蠣崎波響(かきざきはきょう)との惜別の宴でもあった。

 蠣崎波響(一七六四~一八二六)は寛政六年の七月に藩命(註1)を帯びて上洛し、その月のうちに茶山と初めて会って懇意となった。首尾よく公務を果たした後、波響は京都の円山の酒亭華洛庵(東山第一楼)(註2)に別離の宴を催したが、さらに二日後の八月十五日、今度は巨椋池で、茶山ら上洛中に知己となった文人たちとの別れを惜しんだのである。この夜集ったのは波響、茶山のほか、大原左金吾、橘南谿、六如上人、伴蒿蹊、米谷金城、松本孟執の八人であった。彼らはまず宇治川に架かる豊後橋のたもとの東駅楼に会し、次いで巨椋池に舟を浮かべて月を眺めながら詩を詠み、酒を酌み交わし、北辺の地に帰る「蠣崎公子」すなわち波響への餞(はなむけ)とした(註3)。このとき茶山は次のような七絶三首を詠んだ。(『黄葉夕陽村舎詩・巻四』)

 中秋與六如上人蠣崎公子伴蒿蹊橘恵風大原雲卿同泛舟椋湖三首  

  中秋(ちゅうしゅう) 六如上人(りくにょしょうにん) 蠣崎公子(かきざきこうし)   伴蒿蹊(ばんこうけい) 橘恵風(たちばなけいふう) 大原雲卿(おおはらうんきょう)  とともに同じく舟を椋湖(りょうこ)に泛(うか)べる三首

 

 洛陽三五夜如何   洛陽 三五の夜如何(いかん)

 南巷吹笙北巷歌   南巷は笙を吹き 北巷は歌う

 別有江湖鴎鷺社   別に江湖鴎鷺(こうこおうろ)の社(やしろ)有り

 方舟容與入金波   方舟 容与(ようよ)として金波に入る

 

 宿鶩驚飛人影内   宿鶩(しゅくぼく) 驚きて飛ぶ 人影の内

 跳魚誤入酒杯間   跳魚(ちょうぎょ) 誤って入る 酒杯の間

 更尋勝事移軽棹   更に勝事を尋ねて軽棹(けいとう)を移す

 蘋葉蘆花灣又灣   蘋葉(ひんよう) 蘆花 湾又た湾

 

 月到天心舟泖心   月天心に到り 舟は泖心(ぼうしん)

 泖心水與賞情深   泖心(ぼうしん)の水は賞情とともに深し

 今宵絶唱休公句   今宵の絶唱 休公の句

 無奈明年各處唫   奈(いかん)ともする無し 明年 各処に唫(ぎん)ずるを

 

  第一首では都の喧噪を離れて月光輝く巨椋池の水面にゆるやかに(容与)舟を乗り入れたことをのべ、第二首では鴨(鶩)や魚を驚かせながら舟が葦の葉の間をくぐり抜けていく光景を描き、第三首では月が中天に達したので舟も池の中心(泖心)に留めて皆で月を賞したさまを歌っている(富士川英郎による読み下しと解釈を参照)。

 茶山はその後文化元(一八〇四)年に江戸で波響に再会した。このときは伊澤蘭軒、犬塚印南らとともに隅田川に舟を浮かべて花火見物をしている(註4)。だがこの舟遊の後、茶山と波響は再び顔を合わせることはなかった。そもそもこの時代、蝦夷松前の藩主の子と備後神辺の儒者が京で出会い、江戸で再会したこと自体が奇跡的な出来事だったといってもよい。茶山自身、初めて波響と会った当時から二人の出逢いを「萍水(へすい)の会」すなわち浮き草と水とが出会うような他郷での邂逅と考えていた(註5)。このあと茶山は福山藩の江戸詰め藩医であった伊澤蘭軒を通じて波響の消息を何度も尋ねたが果たせず(註6)、再び江戸を訪れた文化十一(一八一四)年、ようやく十年ぶりに音信だけを交わすことができ。このとき松前藩は奥州梁川に移封されており、家老となっていた波響は復領工作のためたびたび江戸を訪れていたものの、茶山の江戸滞在中にはついに会う機会がなかったのである。

 

文化十五年の巨椋池再訪

 さて、巨椋池のそばまで来たとき、茶山の脳裡には四半世紀前の仲秋の宴の様子が懐かしくよみがえったにちがいない。このとき詠んだ七絶は『黄葉夕陽村舎詩』後編に収められている。(『黄葉夕陽村舎詩・後編巻八』所収。訓読は「新日本古典文学大系」による。)

  伏水道中  伏水(ふしみ)の道中

   寛政甲寅中秋六如上人蠣崎公子伴蒿蹊橘恵風原雲卿米子虎松孟執及余、八人泛舟于椋湖

     寛政甲寅中秋(かんせいきのえとらちゅうしゅう) 六如上人(りくにょしょうにん) 蠣崎公子(かきざきこうし) 伴蒿蹊(ばんこうけい) 橘恵風(たちばなけいふう) 原雲卿(はらうんけい) 米子虎(べいしこ) 松孟執(しょうもうしつ)及び余八人舟を椋湖(りょうこ)に泛(うか)ぶ

 巨椋湖辺感昔遊   巨椋湖辺(おぐらこへん) 昔遊(せきゆう)を感ず。

 回頭二十五年秋   頭(こうべ)を回(めぐ)らす二十五年の秋。

 汀前依旧楊柳多   汀前(ていぜん)旧に依(より)て楊柳多し。

 何樹曾維賞月舟   何(いず)れの樹 曾(かつ)て維(つな)ぐ月を賞するの舟。

 波響との別れを惜しんだ二十四年前(註7)と変わらぬ湖辺の景色に、茶山は感無量であったにちがいない。水辺に生えた柳の樹々も昔のままであった。月を眺めるために友と一緒に乗った舟を繋いだのは、どの辺りの樹であったか…。

 さらに、茶山は詩を詠んだだけでは満足できず、その光景を一幅の絵に描き留めることを思いつく(註8)。絵筆を執ったのは、言うまでもなく蠣崎波響であった。ほどなく絵は完成して茶山のもとに送り届けられる。《月下巨椋湖舟遊図》は、こうして誕生した。現在、作品は広島県立歴史博物館に黄葉夕陽文庫中の一点として所蔵されている。

 

 

二 《月下巨椋湖舟遊図》の概要

 

 《月下巨椋湖舟遊図》一幅[図1]は、本紙部分の寸法が縦三七・一㎝、横一〇六・五㎝という横長の作品である(註9)。絹本墨画に淡彩が施されるが、画面はやや褐変しており、また巻き皺かと思われる浮きが見られ、表装も傷みが目立つことから、少なくとも近年になってから表具は改められたことはないと思われる。

 画面は、宇治川と巨椋池の景観を横長の画面に俯瞰的に描くが、構図は伝統的というよりむしろ西洋的な透視遠近法に近い。まず近景いっぱいに広がる大きな川の流れが描かれる。川幅の違いから川の流れは画面左奥から発し、正面を経て右方へと向かっていることが分かる。画面中央に架かる大きな橋をすぎると川は大きく幅を広げ、右方には中州のように見える陸地が描かれている。この陸地と手前の岸との間には小さな橋が架かっている。

 中央の大きな橋は欄干のついた立派な造りで、中央が高く弓なりに反った形をしている。川の両岸には家々が立ち並ぶ。手前の家々はほとんど屋根しか見えないが、少なくとも二十軒余りが密集している。対岸の家々は十軒余り、いずれも間口を広くとった店らしい造りが橋に続く往来をはさんで並ぶ。周囲には木立が、その背後には薄く青ずんだ水面が描かれている。水面の中央を左右に分けるように、曲がりくねった土手道が画面左奥に向かって延びる[図2]。

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 土手道の右手水面には二艘の小舟が浮かぶ。その先、画面右端に近い中空に薄墨で外隈を施した満月が描かれる[図3]。

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 大きな橋に戻ると、その左方すなわち上流側には川に沿って土手が築かれ、その右手には水田が広がっている。靄を隔てた遠景にはなだらかな山々が連なり、左半部の山には「へ」の字を連ねたような波響独特の皴法が施されている[図4]。

 

 画面全体の構図は、手前の川の緩いU字型カーブと遠景の山並みによって他の波響作品には見られない広大な空間を生んでいるが、橋の小さな山形カーブや土手道などのジグザグ線、散在する木立の塊など細かい要素も点在していて、一見複雑な印象を与える。

 本図の筆致および作風は、文化九年(一八一二)に描かれた《梁川八景図》(註10)のそれにきわめて近い。全体としては淡墨を生かした四条派風の山水表現が優勢だが、《梁川八景図》の第一景「城中真景」と同様、特定の細部へのこだわりが随所に見られる。これは本図が真景図としての要素を持っていることを示唆するものと言えよう。

 画面右端に金泥による次のような款記がある[図5]。

 

  寛政甲寅中秋巨椋湖舟遊図

  文政新元戊寅壱冬為

  福山文学茶山老先生

  波響樵 印① 印②     (印①「広年世祜」白文方印、印②「波響」白文方印)

 「寛政甲寅中秋」は寛政六年(一七九四)八月、「文政新元壱冬」は文政元年(一八一八)十月である。「文学」は藩の儒者の意、「茶山老先生」はいうまでもなく菅茶山である。したがって、本図は寛政六年八月十五日に京都の巨椋池で行われた舟遊の光景を、二十四年後の文政元年十月になって、福山藩儒の茶山のために波響が回想しつつ描いたものであることが知られる。茶山はこの年七十一歳、波響は五十五歳であった。

 本図は、一九九三年に菅家から同館に寄託された「黄葉夕陽文庫」中の一点として、「菅茶山とその世界」展(一九九五年)に初めて出品された。したがって、その来歴に疑問の余地はない。

 また、本図は波響としては珍しい大画面の山水画である。波響の作品中、横幅が100cmを越えるものは絵巻や屏風仕立ての作品を除くと極めて少なく、縦横比で見ると最も横長の作品と考えられる。

 さらに本図は後述するようにいくつかの細部にこだわった表現をもつ点で注目に値し、波響の数少ない真筆の山水図としてもきわめて貴重な一点ということができる。本稿では、本図に託された作者らの意図を具体的に明らかにしていきたい。その前に、巨椋池について概観しておこう。 

 

 

三 巨椋池の歴史―変遷と記録

 

平安京と巨椋池

 巨椋池は、かつて京都盆地の中央部の最低地にあった広大な池で、当時は宇治川、木津川、桂川、山科川など大阪湾に注ぐ河川の大部分がここに合流していた。

 巨椋池の存在は、平安京の立地にとって重要な意味を持っていたとされる。古代中国においては、都を定めるにあたって「四神相応(しじんそうおう)」の地が選ばれた。それは、東に流水が走り、西に大道が通じ、北に丘陵がそびえ、南に池沼または低地が広がるところであって、それぞれの方角は青龍、白虎、玄武、朱雀の四神によって守られると考えられたのである。平安京となった山城の地は、北のみならず東西にも山が連なる盆地であり、その東端を鴨川が南に向かって流れ、西には出雲方面への交通路が古くから通じている。そして、南に広がる池沼が他ならぬ巨椋池であった[図6]。

 

秀吉による改修

 巨椋池に沿った一帯は、京都と大坂および奈良方面を結ぶ交通の要衝としても栄えた。豊臣秀吉がここに伏見城を築いたのも、戦略拠点としてのこの地の重要性を見抜いていたからに他ならない。

 秀吉は伏見城築城にあたって堤防(槙島堤あるいは宇治堤)を築いて池から宇治川を分離させ、池の東端を縦断する堤(巨椋堤あるいは太閤堤)を築いて宇治を通らずに奈良方面へ通じる道を開いた。そのため池は土砂の堆積によって次第に規模が縮まっていったが、それでもなお江戸期には鯉や鮒などの良質な漁場として栄えたほか、葭や蓮根、菱などの水生野菜の産地としても重要であった。また、植生が多彩で魚類や水禽なども多く棲息していたため、文人たちは風光豊かなこの地を好んだという。

 

近代の改修と干拓

 しかし、明治以降周辺地域の開発にともなって、巨椋池はその存在価値を急速に失っていく。逆に、たび重なる水害によって根本的な治水の必要性が高まり、一八九七(明治三〇)年から一九一〇(明治四三)年にかけて大規模な河川改修工事が次々と行われた。これによって巨椋池はほぼ完全に周囲の河川と分離され、汚泥の堆積と水質の悪化が進行した。漁獲量の低下に加えて従来からあったマラリアの発生など環境の悪化から、この地の干拓を望む声が強まったが、膨大な工事費用が予想されることから、実現には至らなかった。

 ところが、一九一八(大正七)年の米騒動を契機に食糧増産が国家的課題となり、翌年開墾助成法が発布された。これに基づく事業として、巨椋池干拓事業が一九三三(昭和八)年から八年間にわたって行なわれた結果、約六四〇ヘクタールの水田が生まれた。

 戦後の干拓地には高層住宅や工場も建ち始め、近鉄線や京滋バイパスが貫通して都市化が急速にすすんでいるが、僅かに観月橋南詰付近、西目川付近、および三軒屋付近などに往時の面影を留めている(註11)。

 

 

四 巨椋池の風物と景観

 

巨椋池の風物

 巨椋池は広大な湿地帯でありながら、前述のように交通の要衝でもあり、周辺には古くから伏見、淀などの町が発達していた。蓮や月を愛でる文人たちにとっては、京の街中からさほど遠くないこの地は格好の行楽地だったようにも思われる。しかし、文学作品のなかに巨椋池が登場する例はそれほど多くない。西田直二郎によれば、『万葉集』中にある次の歌が初出であるという(註12)。

  巨椋(おおくら)の入り江響(とよ)むなり射部(いめ)びとの伏見が田井に鴈渡るらし                                (万葉集巻九)

 次いで平安期の歌としては、次の歌が紹介されている。

  おほくらの入江の月の跡にまた光残して螢飛ぶなり(詠千首和歌)

 この他にも、三首が紹介されている。

  おほくらの入江さやかにとぶ螢その一むらに船をやらばや(草茎集)

  ねたきわかをくらの里に宿りして紅葉の色をよそにきくかな(小大君集)

  春なれば花の都へう□□□にをくらの里は霞へたてつ(康資王母集)

 

 宇治が「網代(あじろ)」、「紅葉(もみじ)」、「柴舟(しばふね)」あるいは「水車」などの風物と結びついてしばしば詠われ、歌枕として確立したのに対し、巨椋池についてはそうした顕著な現象を見出せない。だが、宇治から淀にいたる広大な水郷地帯の全体が豊かな自然環境を形成していたことは疑いなく、右に引いた例のように「蛍」や「月」などの風物が巨椋池と結びついていたことが想像される。

 近世以降も巨椋池を取りあげた詩文はあまり多くないと思われるが、西田直二郎によると巨椋池周辺ではしばしば吟行が催されたという(註13)。いくつかの資料から推察すると、近世に入ってからの巨椋池の風物はもっぱら「蓮」と「月」であった。当時の旅行案内や絵図のなかにも、たとえば「小椋の池、蓮の花盛絶景なり」(註14)といった記述が見られる。

 

巨椋池の景観

 「蓮」と「月」を風物とした巨椋池の当時の景観はどのようなものだったのだろうか。江戸末期の藤井竹外(一八〇七~六六)は、次のような漢詩を詠んでいる。(『竹外二十八字詩』・安政五年刊・所収。読み下しは『新日本古典文学大系』による。)

 

  巨椋湖 巨椋湖(おぐらこ)

 半汀微雨未収糸   半汀(はんてい)の微雨未(いま)だ糸を収めず

 紅藕花蔵白鷺鷀   紅藕(こうぐう)花は蔵(ぞう)す白鷺鷀(はくろし)

 一幅分明誰筆意   一幅分明(いっぷくぶんめい)なり誰が筆意ぞ

 黄筌不見見徐煕   黄筌(こうせん)を見ず徐煕(じょき)を見る 

 

「未だ糸を収めず」とはまだ細かい雨脚があがっていないこと。「紅藕(こうぐう)」云々は紅蓮が花の陰に白鷺を隠しているの意。黄筌は宋の画家、徐煕は南唐の画家で、「黄家富貴」「徐煕野逸」と評され、対照的な画風をもって中国花鳥画の二大潮流を形成したとされるが、その具体的な作風については種々の論がある(註15)。ここでは雨に濡れる蓮の花の風情が正統的・伝統的な黄筌の絵ではなく、野趣に富んだ徐煕の画趣に相応しいというほどの意味に解しておく。言い換えれば、「白砂青松」的に水陸の区別が截然とした絵のような景観ではなく、葭や蓮など雑多な植物が生い繁る茫洋とした湿地風景であったということかも知れない(註16)。

 

巨椋池と美術

 絵画の世界に目を移すと、巨椋池の景観を描いた作品はほとんど知られていない。平安期までの絵画史料を網羅した家永三郎氏の『上代倭絵全史』にも全く記述がなく、中世の和歌史料等についても管見による限り名所絵の画題としての「巨椋池」は見出せない(註17)

 いっぽう、巨椋池に近い「宇治」は前に述べたように歌枕として定着し、絵画においても紅葉や網代などによって直ちにそれと分かるように描かれていたと考えられる(註18)。中世以降は柳、蛇籠、水車などを構成要素とする「柳橋水車図」の成立など様々な形で絵画化された。また宇治川の流れも下流の淀川と併せてしばしばモチーフとして取り上げられている。

 これに対して、「巨椋池」が画家たちの関心を引くことはほとんどなかったように思われる。ただし、近代に入ってから巨椋池を描いた作例が『巨椋池干拓誌』に口絵として掲載されている。宇田荻邨筆《巨椋池》および近藤浩一路筆《巨椋浅春》(大正十三年)の二点であるが、図版で見る限りいずれも巨椋池全体の景観を描いたものではない。荻邨の作は池に浮かぶ蓮の花を近景に大きく捉え、背景に飛翔する白鷺を配したもの。「蓮」が巨椋池を想起させるモチーフとして選ばれたことが分かる。いっぽう浩一路の作は沼地の水辺に数人の漁夫と思われる人物の姿をやや離れた距離から描く。遠景は霞んで見えない。ここでは魚や水草を採る漁夫たちの姿が巨椋池の標識になっていると考えられる(註19)。

 

絵図等に見る巨椋池

 名所絵の画題にはならなかった巨椋池も、京都周辺の絵図等のなかでは当然ながら無視されることなく描かれている。正徳元(一七一一)年刊行の『山城名勝志』巻第十六の「紀伊郡部」および巻第十八の「久世郡部」に巨椋池にかんする記述が見られる。両郡の地図にも「大池」の名が見え、とくに久世郡の地図では「大池」のほかに小倉堤の東側にある「池」もはっきりと描かれているが、池の形をはじめ地形的な正確さは望めない[図7]。

 京都郊外の景観を描いた「洛外図」にも巨椋池があらわされたものがあるが、その形はやはり明確でない。中井基次氏所蔵の《洛外図》八曲一双(十七世紀後半)では、右隻第一扇に大きくカーブする宇治川、その内側(南方)に大きな雲が描かれ、その下に広がる巨椋池をあらわす。豊後橋と向島の家並み、奈良へ通じる小倉堤(太閤堤)が雲の切れ目からのぞいており、雲の周囲からはみ出すように葦の葉が描かれ、一面の葦原が下にあることをうかがわせるが、巨椋池そのものの全体像は巧みに、というよりあからさまに隠されている。

 いずれにしても、巨椋池は古代中世において名所絵の画題となったことはなく、その後の美術史上でも絵師たちの創作意欲をそそるような存在ではなかったようだ。近世後期の画家としての波響が巨椋池の景観を描くにあたり、特定の先行作品を前提とした可能性はほとんどないといってよいだろう。しかし、左右一メートルを超える本図は、通常の画幅としては破格の大画面である。これだけの画面をいかなる先行図像もなしに描くことは、果たして可能であっただろうか。可能であったとすれば、波響はこの《月下巨椋湖舟遊図》を、どのような手順で描いたのだろうか。

 

 

五 画面の検討―「実景」との比較

 

波響のこだわり

 前述したように、《月下巨椋湖舟遊図》の画面は全体として四条派風の叙情的な表現にあふれているが、いくつかの点で細部にこだわった表現が見られ、そのために構図に統一性を欠いた印象を与える部分もないわけではない。なかでも、かなり大きく描かれた画面手前の橋や、画面中央にのびる屈曲した土手道などは、本図を一幅の山水画としてみた場合にはやや目障りな感じを免れない。

 結論を先に言うなら、波響がこうした細部にこだわったのは、この絵を依頼してきた菅茶山の期待に応えようとしたからであろう。二十四年前のあの光景を眼前に蘇らせることこそこの絵の使命だったはずである。従前の名所絵のようにどこにでも見られるような山と水と空と月を描くだけでは、茶山の心は決して満足しなかったであろう。そこには一目見てすぐに巨椋池と分かる標識、ランドマークが描かれていることが必要だったはずである。

 では、巨椋池のランドマークとはどのようなものであっただろうか。《月下巨椋湖舟遊図》の画面で波響がこだわった部分に注目しながら、近世の絵図等に見られる巨椋池の表現を検討してみると、そこにいくつかの共通したモチーフを見出すことができる。たとえば、巨椋池のほぼ全体の景観が描かれている次の二件について検討してみよう。

 安政五年(一八五八)刊行の『月瀬嵩尾山長引梅溪道の栞』は、大坂・京都から奈良・月ヶ瀬方面への道中図で、幕末明治初期の浮世絵師松川半山による見事な鳥瞰図である[図8]。画面左下に伏見側から見た巨椋池が描かれている。地名の書き入れには「伏見」、「ブンゴバシ(豊後橋)」、「向島」、「ヲグラ(小倉)」「大池」などがあるが、画面のごく一部ということもあり、大まかで類型的な表現にとどまっている。それでも小倉堤ははっきりと描かれ、その両側にそれぞれ「ヲグラ堤一リ」「舟ワタシアリ」の書き入れがある。「大池」の傍らには前述のように「小倉ノ池蓮ノ花盛絶景ナリ」と書かれている。豊後橋から上流へ宇治川の左岸を遡る槙島堤(宇治堤)も描かれているが、名称は書き込まれていない。

 波響の《月下巨椋湖舟遊図》に近い景観を描いているのは安永九年(一七八〇)刊行の『都名所図絵』の中の一図である[図8]。宇治川に架かる「豊後橋」を波響と同じ伏見側から俯瞰した図であるが、橋の左側からの俯瞰になっている点が波響の図と異なる。しかし、対岸の「向島」の家並みは波響の図と非常によく似ている。その向こうの大池は霞の中に消えて、「小倉社」などの屋根だけが浮かんでいる。小倉堤は描かれていないが、向島から左にのびる槙島堤(宇治堤)ははっきりと描かれている。蕩々と流れる宇治川の下流には波響の図と同じ中州のような陸地が見える。橋の北詰には伏見奉行の屋敷が描かれているが、これは波響の図にはない。興味深いのは、遠山の上に月が出ていることである。

 

巨椋池のランドマーク

 前章で見たように、近世までの絵図等に見られる巨椋池は、その形が一定していない。『山城名勝志』などに見る池の形は概念図に過ぎず、実景を表しているとは考えにくい。また、《洛外図》や『都名所図絵』などの俯瞰図の場合でも池の形は雲や霞に隠されて捉えられないように描かれている。治水設備が貧弱であった江戸期以前、巨椋池は遊水池としての機能を果たしており、年によってその姿は少なからず変化していたであろうから、そのことが反映されていると考えられる。

 こうした池の形の曖昧さとは反対に、これらの絵図等にほぼ共通して描かれているものがある。「宇治川」「豊後橋」「向島」「小倉堤」「小倉(社)」「槙島堤」などがそれである。これらは、描かれた「池」が巨椋池であることを示す標識=ランドマークにほかならない。これらのランドマークは、宇治川をのぞいていずれも人工物であるが、それら自体が特異な形をしているわけではない。川や池という自然の景観の中に人間が意図的に持ち込んだものであること、またそれら相互の位置関係が実際と一致していることによって、「巨椋池」固有の景観をつくり出しているのである。そして、曖昧な形であった「大池」や「池」は、これらのランドマークと結びつくことによって初めて巨椋池の「大池」「池」として認識されるのである。

 では、その大役を課せられたこれらのランドマークは、実際に地上から見たときもその役を果たせるであろうか。

 

「一外交官」が見た実景との比較

 幕末期に来日し、『一外交官の見た明治維新』の著書で知られるイギリス人アーネスト・サトウがのこした詳しい旅行記『中央部・北部日本旅行案内』(一八八一年初版)のなかに、次のような一節がある。京都三条大橋から伏見、玉水を経て木津、奈良に至るルートの紹介である。(註20)

  …伏見までは連綿と家屋が続く。伏見の手前の藤ノ森で左に折れすぐに宇治川に架  かる豊後橋に向かうとよい。…宇治方面を望む上流の風景は大変美しい。橋をわた  って右に折れ向島を抜けて右に大池、左に小さい池を見て土手をたどり小倉へ至   る。…

サトウは巨椋池とは記していないが、述べられているのは明らかに巨椋池の風景である。「豊後橋」すなわち現在の観月橋を渡り、「向町」を抜けたあと右に見えた池が当時「大池」と呼ばれていたもので、左の「小さい池」の方は『山城名勝志』巻第十六の絵図にただ「池」とだけ記されているものであろう。二つの池にはさまれた「土手」は小倉堤すなわち太閤堤にほかならない。

 このように、当時京都から奈良方面へ向かうには、伏見を経て巨椋池を縦断する小倉堤を南下するルートが一般的であったと思われる(註21)。波響の《月下巨椋湖舟遊図》を注意して見ると、その画様は『山城名勝志』の絵図などより遙かに正確にサトウの叙述を裏づけていることが分かる。

 まず、中央手前の大きな橋は疑いもなく「豊後橋」であり、「橋を渡って右に折れ」たところにある家並みは「向町」、そしてその背後に淡青色で描かれた水面こそ我が巨椋池ということになる。池を二分するように折れ曲がってのびる「土手」すなわち小倉堤(太閤堤)の左に「小さい池」、そして右側に「大池」が確かにひろがる。ただし、「土手」の先にあるはずの「小倉」は残念ながら靄に隠れて見えない。[図2]

 視点を豊後橋のたもとまで戻すと、前述したように川に沿って左側に土手がのびている。これは『山城名勝誌』などに「槙島堤」と記されている宇治方面への道であることがわかる。したがってその背後に比較的高く意識的に独特の皴法で描かれているのは、喜撰山あたりの山並みであろう。サトウが「大変美しい」と感動した「宇治川方面を望む上流の風景」を、波響もまた感動を持って描いているのである(註22)。

 こうして当時の実景を記録した文献と波響の《月下巨椋湖舟遊図》を対比照合させてみると、先に挙げた巨椋池のランドマークが浮かび上がってくる。大きくゆったりと流れる「宇治川」とそれに架かる「豊後橋」、対岸の「向町」の家並み、奈良へ続く「小倉堤(太閤堤)」、道の両側の「大池」と「池」、背後にそびえる「喜撰山」など。これらを描くことによって、画面は紛れもなく巨椋池の光景となる。

 

茶山の問いと波響の答え

 「豊後橋」「向町」「小倉堤(太閤堤)」「喜撰山」といった巨椋池のランドマークに加え、茶山の依嘱に応えるべく、波響がさらに描き添えたものが満月と二艘の舟であることは容易に想像できる。時は寛政六年八月十五夜。茶山、波響ら総勢八人は、二艘の舟に分乗して大池の水面に漕ぎ出したのであろう。波響はそれを忠実に画面に再現して見せた。茶山の詩にある水鳥の姿も点々と、しかしはっきりと描かれている。

 だが、波響は月と舟に加えてもう一つ重要なものを描き込んでいる。それは柳である。画面中央の土手すなわち小倉堤の上に、明らかに枝垂柳と分かる樹木が三カ所にわたって描かれている。この柳こそ、茶山が「汀前旧に依て楊柳多し。何れの樹か曾て維ぐ月を賞するの舟」と謳った柳の樹に他ならない。「舟を繋いだのはどの辺りの樹であったか…」と問う茶山に対して、波響は「さて、拙者の記憶によればこのうちのいずれかでは…」と画面のなかで答えているのである。

 

柳は枝垂れていたか

 ところで、さりげなく巧妙に描き込まれた師への答えではあるが、波響自身はどこまで自分の記憶にもとづいてこの光景を描いたのだろうか。小倉堤には、波響が描いたような枝垂れ柳は実際にあったのだろうか。

 波響と茶山らが満月を賞したときからやや遡る寛政元年(一七八九)、この地を訪れていた人物がいた。司馬江漢(一七四七~一八一八)である。江漢は二月二十八日、奈良から伏見に向かう途上で小倉堤を通っている。

 

  廿八日 曇る。椿木町(奈良椿井町)古梅園へ参り、天覧の墨を見る。亦墨の形を  見る妙工なり。夫より南都を出て七里、伏見に至るに、其路小倉堤あり。是は京よ  り南都へ宇路(治)を廻りては遠し。堤湖の半にあり。太閤之を築かれしとぞ。岸々  に疎柳を植、柳き荖(こり)を作る。堤長さ三十町、其半に漁村両三軒あり。京町  近江屋に至る。(註23)

 

「三十町」すなわち約三キロの小倉堤の半ばに「漁村両三軒あり」とは、まさしく波響描く本図の光景と一致する(図10)。「岸々に疎柳を植」とある点も一致するように見えるが、続けて「柳き荖を作る」と記すように、これは柳行李の材料となるコリヤナギであって、枝が垂れることはなく、波響が描いた枝垂柳とは大いにその姿を異にする。しかも、江漢はこの日の日記に簡単なスケッチを残している(図11)。そこに描かれた樹木は、小枝を上に向けたコリヤナギあるいはカワヤナギである。

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 茶山の詩にある「楊柳」は、語調を整えるためにカワヤナギを指す「楊」とシダレヤナギを指す「柳」を並べたものであろう。実際のヤナギがいずれであったか詩中では判然としないが、江漢の言葉とスケッチを見る限り、少なくとも枝垂柳ではなかった可能性が強い。したがって、本図に描かれた柳は、波響の記憶違いであったということになる。このことについては、いずれ稿を改めて論じる必要があるかも知れない。

 

西洋的遠近法の限界と真景図

 前述の通り、本図は四条派風の山水表現のなかに細部へのこだわりを見せており、そのため構図全体が複雑で散漫な印象を与えている。だが、波響が「こだわって」描いた豊後橋、小倉堤、喜撰山などは、当時の文人たちに直ちに巨椋池を想起させるランドマークであった。それらは個々にそれと分かるように描かれなくてはならなかったし、また相互の位置関係も曖昧にはできなかった。その関係を無視して、山水画で基本とされる「高遠」「深遠」「平遠」などの構図法を採ることは、初めから波響の頭のなかにはなかったであろう。

 さらに、波響は二艘の船と水鳥と柳の木という、いずれも大画面空間に比べてあまりにも小さいモチーフを、茶山の想いに答えて描き込んだのである。当然ながら画面の中に縮尺の不統一、すなわち観者と対象との遠近関係の混乱が生まれる。しかし、画面全体を見るとき、そうした矛盾はほとんど解消されるのである。

 従来、日本の絵画は俯瞰法によって広大な空間を表現してきた。雪舟の《天橋立図》、近世初期の《洛中洛外図》諸作、さらに江戸後期の北斎、広重らによる浮世絵風景画など、当時の人間がおよそ達し得ない上空から眺めた言わば「神仏の眼」によって描かれたかのような山水図や都市図は枚挙に暇がない。しかし、一方でこうした表現は全体的な構図の破綻を生みやすいので、霞や雲などによる意図的な遮蔽によって画面を分割することで、破綻の回避が行われてきた。

 江戸中期以降次第に普及した西洋的な空間表現、即ち透視遠近法は、ものの形を見たままに捉えた現実感ある表現によって当時の知識人たちの関心を引いたが、「見えないものは描かない」という「人間の眼」の原則を貫こうとするために、物陰にあったり小さすぎたりして見えない「あるはずのもの」を描くことができないという致命的欠陥をもっていた。

 この西洋画の弱点をを大胆に補いながら現実感ある風景表現をなしえたのは、南画と呼ばれる独自の発達を遂げた作風を担った文人画家たちである。彼らは、それまでの観念的な名所絵から抜け出して、具体的な現実の風景を見たままに描きつつも、そこに様々な情報や作者の心情を描き込んだ新しい風景画すなわち「真景図」を作り出した。

 いっぽう、写生画の祖とされる円山応挙(一七三三~九五)は、そうした主観主義的な方法に対して客観主義を貫き、西洋画の空間表現を取り入れた平明な写実表現を生み出した(註24)。

 波響は京都で応挙や一門の絵師たちと交流し、彼らの作風を積極的に吸収したと考えられるが、その作風を駆使しつつ南画的な真景図として描かれたのが、他ならぬ《月下巨椋湖舟遊図》であるということができるだろう。

 

 

六 失われた景観―終章に代えて

 

 巨椋池と同じように近世あるいは近代以降に姿を消した池沼としては、出羽の象潟(きさがた)がよく知られている。松尾芭蕉が『おくの細道』のなかで「象潟や雨に西施がねぶの花」と謳ったことであまりにも有名である。芭蕉が同地を訪れたのは元禄二年(一六八九)であったが、それから百年余り後の文化元年(一八〇四)、象潟は旧暦六月四日に起こった大地震によって潟全体が隆起し、陸地化してしまった。その結果、それまで本荘藩や近隣の諸村、寺社などによってかろうじて守られてきた象潟の景観は、一夜にして壊滅したという(註25)。また、津軽の弘前城の南側には「南溜池(みなみためいけ)」と呼ばれる広大な溜池が作られていたが、明治維新による藩体制の崩壊によって修築保全を行う主体を失い、消滅してしまったという(註26)。

 巨椋池もまた不幸な運命をたどって消滅した。不幸はすでに明治初年に始まっていた。まだ巨椋池が十分に水を湛えていたはずの時期、サトウがここを通ったときに、どうして池の名前を記録しなかったのか。豊後橋や向町の名は記していながら、なぜ池の名が落ちてしまったのか。明治初年の巨椋池は、名前を確かめたくなるほどの魅力をすでに失っていたのではないだろうか。そうだとすれば、干拓は時間の問題だったのかもしれない。

 昭和の初め、哲学者の和辻哲郎(一八八九~一九六〇)は友人の谷川徹三に誘われて蓮の花を見に夜明け前の巨椋池に舟で出かけた。「巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない」うちに、「二ひら三ひら」と蓮の花弁が開きはじめ、ときおり「クイといふ風な短い音」をたてながら次々に花が開き、そのうち見わたすかぎり蓮に囲まれた世界が眼前に広がる。和辻は祖先の作りあげた浄土幻想に思いを馳せながら、さらにインド的なものを体感しつつ、「蓮華の世界に入り浸」るのである。ところが、夜が明けて淀川まで戻る途中の景色が「すべて、先程までの美しい蓮華の世界の印象を打ち壊はすやうなものばかりであつた。」と嘆いている。加えて、巨椋池にはマラリヤの蚊が多いということを後になって聞く。さすがに和辻は「あの素晴らしい蓮の花の光景のことを思ふと、マラリヤの蚊などは何でもない。」と片付けているが、巨椋池とマラリヤの結びつきは明らかにマイナスのイメージを生んでいたにちがいない。

 和辻は前の文章の末尾を、その後始まった干拓工事への不安で締めくくっている(註27)。

  ところで、巨椋池のあの蓮の光景が、今でも同じやうに見られるかどうかは、私 は知らないのである。巨椋池はその後干拓工事によつて水位を何尺か下げた。前に 蓮の花の咲いてゐた場所のうちで水田に化したところも少くないであらう。それに 伴つて蓮の栽培がどういふ影響を受けたかも私は知らない。もし蓮見を希望せられ る方があつたら、現状を問ひ合はせてからにして頂きたい。あの蓮の花の光景がも う見られなくなつてゐるとしたら、実に残念至極のことだと思うが、しかし巨椋池 はかなり広いのであるからそんなことはあるまい。(「巨椋池の蓮」一九五〇年)

 

 和辻の楽観は、残念ながらその後裏切られた。だが、仮に夜明け前の蓮の美しさが保たれていたとしても、夜明けとともに幻滅させられるような現実があったとすれば、巨椋池は当時すでに大半の魅力を失っていたのであろう。

 とはいえ、少なくとも江戸期にあっては、巨椋池の蓮とその上に輝く月が人々の詩情をかきたて、明治以降も蓮を中心とした、おそらくは多少野趣を帯びた景観が、画家や哲学者たちの関心を引いていたことは疑いのないところであろう。

 西湖の美しさを西施に譬えた蘇軾の詩を連想させることによって、芭蕉は象潟のイメージを日本人の共有観念に仕立て上げた。象潟は、幸いにも芭蕉の一句によってそのかつてのイメージを日本人の意識の中に定着させることができたのである。

 いっぽう巨椋池は、残念ながらそうした名句、名歌、名文に恵まれることはなかった。もし、この《月下巨椋池舟遊図》が存在しなければ、絵画についても巨椋池は恵まれなかったことになるだろう。

 蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》は、もはや決して再現し得ないかつての巨椋池の景観を窺い知るうえで、ほとんど唯一の手がかりを与えてくれる作品であるだけでなく、江戸後期に隆盛を見た真景図の貴重な作例として、記憶に留められるべきであろう。

 

………………………………………………

波響の寛政六年の上洛は、藩主松前道廣の命によって京都の大原左金吾(呑響)を藩の文武両道の師として招聘するための特使としての派遣であった。

京都東山の酒亭華洛庵は、茶山や波響の詩中に「東山第一楼」の名で登場する。

『黄葉夕陽村舎詩・巻四』および『六如庵詩鈔二編五』

茶山「憶昔三章呈蠣崎公子」三首のうち第二首に「憶昔與君會東武、栗山堂上正雷雨…」とあり、さらに富士川英郎『菅茶山』中の「菅茶山と大原呑響」によると、伊沢蘭軒の『○(くさかんむりに姦)齋詩集』のなかに「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、與源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」と題する七律が二首あるという。

井上通泰によると、茶山と波響、大原呑響、橘南谿が一堂に会した夜、四人は一本の扇子に各々漢詩を書き付け、さらに呑響が山を、波響が月を描いたといい、そのうちの茶山の詩には「此夜都門萍水会」の語があるという(「浪人大原左金吾の話」一九三〇年『南天荘随筆』所収。傍点筆者)。なお、井上通泰が所蔵していたと思われるこの扇子は、近年、大塚和義氏によってその所在が確認された(朝日新聞二〇〇八年九月二五日・道内版)。

森鷗外は『伊沢蘭軒』(一九一六~一七)の中で菅茶山が蘭軒に宛てた書簡を紹介しているが、そのうちの文化十年七月二十二日の書簡に「一、前年蠣崎将監殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所(びんしよ)も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を不得申候…」とある。(『伊澤蘭軒』その六十五)

茶山の詩中に「二十五年」とあるのは、当時行われていた当年を含む数え方によるものであろう。ちなみに森鷗外は著作『伊澤蘭軒』(一九一六~一七)のなかで波響と茶山の交遊に触れているが、この数え方について誤解している。すなわち、茶山と波響が江戸で再会した文化元年(一八〇四)を茶山が「十一年後」の再会として歓喜していることから、初めての出会いを十一年前の「寛政五年」(一七九三)と推定した(『伊澤蘭軒』その百三十)。後に鷗外は茶山の別の詩からその出会いが寛政六年であったことを知り、「再会は十一年後ではなくて、実は十年後であった」と述べている(『伊澤蘭軒』その百六十七)。江戸後期に一般的であったと思われる年の数えたかは、大正期になると、鷗外ほどの識者にも知られていなかったのかもしれない。

同席者の一人であった米谷金城(米子虎)が「椋湖賞月図」を所蔵しており、これに対して茶山が詠んだ題詩が『黄葉夕陽村舎詩・後編巻八』に収められている。「伏水道中」と同様文政元年(文化十五年)の作であるから、茶山がこの絵に心を動かされた可能性もある。

本図とその契機となった寛政六年中秋の巨椋池舟遊に関しては、つぎのような先行研究あるいは言及がある。

・富士川英郎「菅茶山と大原呑響」(『日本詩人選30 菅茶山』PP.69~73 1981・筑摩書房)

・黒川修一「菅茶山をめぐる画人たち」(「菅茶山とその世界」展図録p.106 1995・広島県立歴史博物館 )

・菅波哲郎(図版解説)《月下巨椋湖舟遊図》(「菅茶山とその世界」展図録p.83 カラー図版あり 1995・広島県立歴史博物館 )

・黒川修一「文人と同時代絵画」(『江戸文学』18号 pp.108~110 図版あり 1997・ぺりかん社)

・高木重俊『蠣崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠邨舎遺稿』pp.443~445 2002・幻洋社)

・高木重俊『蠣崎波響漢詩研究』pp.72~79 2005・幻洋社)

・高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』pp.199~233 図版あり、カバーにカラー図版 2005・ぺりかん社)

・西村直城・岡野将士「心に残る巨椋湖での観月」(菅茶山関係書籍発刊委員会『菅茶山の世界 黄葉夕陽文庫から』pp.129~-131 図版あり 2009・文芸社)

10 《梁川八景図》については、拙稿「蠣崎波響筆『梁川八景図』について」(一九八三年・『紀要』第5・6合併号・北海道立近代美術館)および「真景図の一様相─蠣崎波響筆『梁川八景図』をめぐって─」(「國華」第一〇九九号・一九八七年)を参照されたい。

11 観月橋南詰から西に折れた後次第に南進する旧道には、いまも古い商家の家並みがあり、近鉄京都線「向島」駅に近い西目川集会所付近および同「小倉」駅付近の三軒屋付近では、辺りより数メートル高い堤の存在が確かめられる。

12 『巨椋池干拓誌』第二編第二章第三節

13 『巨椋池干拓誌』第二編第二章第三節

14 『月瀬嵩尾山長引梅溪道の栞』・安政五年刊・松川半山画

15 鈴木敬氏によれば、「黄筌は唐朝の正統的、伝統的花鳥画風の継承者であると同時に…(中略)…著しい水墨指向をも併せもっていた」という。いっぽう徐煕の画風の特色は「野趣に富んだ江辺の花鳥を自然景観とともに把えること」にあったという。また氏は「…徐氏花鳥画の画面は、あるいは蓮池水禽図の如きものではなかったかとも想像する」と述べている。(『中國繪畫史(上)』・一九八一年・吉川弘文館)〉

16 昭和初期の巨椋池の写真を見ると、池は浮島状になった水草の塊が点々と水面に浮かび、半ば湿原化しているように見える。(京都府京都文化博物館常設展示)

17 拙稿「中世やまと絵考―和歌史料による画題の検討」(『美術史学』第二号所収・一九八〇・東北大学美学美術史研究室)〉参照。

18 「宇治」という地名が「網代」と結びついて画題として文献に登場する最古の例は『禁秘抄』(承久三・一二二一)および『古今著聞集』(建長六・一二五四)に清涼殿荒海障子の北側裏面に「宇治網代」が描かれていたとする記事である(家永三郎『上代倭絵全史』一九四六年、一九六六年改訂)。

19 「蓮」をモチーフとする近代日本画の作例を概観すると、たとえば荒井寛方《蓮》(一九二二)、荒木寛友《漁舟図》(一九一〇)、北野恒富《朝(蓮池舟遊)》(一九二七)、小林柯白《蓮》(一九二三)など、巨椋池の景観を想起させる作品が少なくないが、その検証は今後の課題である。

20 『明治日本旅行案内』庄田元男訳・下巻ルート編2「ルート四〇・京都から奈良へ」・一九九六年・平凡社(傍点は井上による。)

21 やや遡るが、建部綾足の『折々草』春の部(明和八年・一七七一)に、栴檀(せんだん)(あふち)のある場所を尋ねた人が、井手の「玉水(たまみず)の里」にあると聞いて「俄に足結(アユヒ)(脚絆)しめて、小倉堤(ヲグラツヽミ)を南(ミナミ)さまに走」って玉水に向かうというくだりがある(『新日本文学大系』第七九巻・四八二ページ・一九九二年・岩波書店)。

22 槙島堤近辺から喜撰山方面を望むと、現在でも本図に近い景観が得られる(図13)。また、GoogleEarthによってこの位置からの立体地形をダウンロードし、高さを強調して閲覧すると、本図と酷似した画像を得ることができる。

23 『江漢西游日記 六』(『司馬江漢全集』第一巻・一九九二年・八坂書房 (図12は本書掲載の図版から複写した。)

24 円山応挙の《淀川両岸図巻》(一七六五年・アルカンシェール美術財団蔵)は、淀川を航行する舟からの景観を川の両側に向かい合わせに描いた特異な構図の作品として知られている。全長十六メートルを超えるこの作品の巻頭には伏見の街が詳細に描かれているが、対岸に広がるはずの巨椋池は描かれていない。もっとも、『淀川両岸一覧』に「巨椋大池 前に葭島ありて、船中よりは見えず」とあるとおり、宇治川の水面からは巨椋池は葦原に遮られて見えなかったはずであり、応挙が航行する舟から見た実景にこだわったとすれば、当然描かれないことになる。(網野善彦・大西廣・佐竹昭広編『いまは昔 むかしは今 第二巻・天の橋 地の橋』(一九九一年・福武書店)を参照。)

25 長谷川成一『失われた景観―名所が語る江戸時代』一九九六年・吉川弘文館

26 長谷川成一・前掲書

27「新潮」一九五〇年七月号初出、『現代紀行文學学全集』第四巻西日本編所収・一九五八年・修道社

 

付記 

 本稿の主要部分は、宮城学院女子大学の一九九八年度特別研究助成により筆者が同年から翌 年にかけて行った作品および現地の調査によって作成した草稿に基づいている。完成した原稿は翌年発表の予定であったが、諸般の事情により中止せざるを得なくなった。その後、新知見による加筆修正を続けつつ、二〇一〇年度に再び作品調査を行い、後半部を大幅に書き換えて新たな所見を述べたものである。

 本稿に掲載した作品の画像は、広島県立歴史博物館の許可を得て筆者が撮影したものである。

 本作品の調査と本稿の執筆にあたっては、次の方々に大変お世話になった。記して謝意を表 したい。(敬称略)

故 菅波 寛

白井 比佐雄(広島県立歴史博物館)

荒木 清二(広島県立歴史博物館)

小嶋 正亮(宇治市歴史資料館)

西村 直城(広島県立歴史博物館)

笠嶋 義夫(千葉工業大学)

 

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図版一覧

図1 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》全図(広島県立歴史博物館)

図2 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分1

図3 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分2

図4 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分3 

図5 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》款記

図6 江戸時代の巨椋池とその周辺(『巨椋池干拓誌』より一部強調して作成

図7 干拓前の巨椋池(『巨椋池干拓誌』より)

図8 『山城名勝志』巻十八・久世郡図・一七一一

図9 「月瀬高尾山長引梅渓道の栞」部分(一八五八) 山下和正『地図で読む江戸時代』(一九九八年・柏書房)より複写

図10 『都名所図会』巻五「伏見 指月・豊後橋・大池」挿図

図11 蠣崎波響《月下巨椋湖舟遊図》部分4

図12 司馬江漢『江漢西游日記』小倉堤(一七九九)

図13 宇治川沿いの「槙島堤」を対岸から見る(二〇一一年)

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お わ び

 拙稿の抜刷をお届けするに当たり、お詫び申し上げることがございます。
 本稿の主要部分は、蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》について、二〇〇六年に行った現地調査と作品実見をもとに執筆したものですが、諸般の事情で刊行が大幅に遅れておりました。その後いくつかの新知見を得たこともあって、二〇一〇年にあらためて作品を実見し、現地を再調査し、それらをふまえて大幅な加筆修正を行い、このたびようやく刊行にこぎ着けたものであります。
 ところが、先に執筆した原稿とその後の補筆部分の整合が不十分なままであることに気づかなかったために、刊行された本稿にはこの作品に関する先行研究の紹介が脱落してしまいました。ここにそれらの執筆者ならびに関係各位に対し、お詫び申し上げます。
 管見による限りでも、蠣崎波響筆《月下巨椋湖舟遊図》とその契機となった寛政六年中秋の巨椋池舟遊に関しては、つぎのような先行研究あるいは言及がございます。

 ・富士川英郎「菅茶山と大原呑響」(『日本詩人選30 菅茶山』PP.69~73 1981・筑  摩書房)

 ・黒川修一「菅茶山をめぐる画人たち」(「菅茶山とその世界」展図録p.106 1995・  広島県立歴史博物館 )
 ・菅波哲郎(図版解説)《月下巨椋湖舟遊図》(「菅茶山とその世界」展図録p.83 カ  ラー図版あり 1995・広島県立歴史博物館 )
 ・黒川修一「文人と同時代絵画」(『江戸文学』18号 pp.108~110 図版あり 1997・  ぺりかん社)
 ・高木重俊『蠣崎波響漢詩全釈 梅痩柳眠邨舎遺稿』pp.443~445 2002・幻洋社)
 ・高木重俊『蠣崎波響漢詩研究』pp.72~79 2005・幻洋社)
 ・高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』pp.199~233 図版あり、カバーにカラー図版    2005・ぺりかん社)
 ・西村直城・岡野将士「心に残る巨椋湖での観月」(菅茶山関係書籍発刊委員会『菅  茶山の世界 黄葉夕陽文庫から』pp.129~-131 図版あり 2009・文芸社)

 とくに、高木重俊氏および高橋博巳氏には、波響と菅茶山の漢詩および両者の交友について、ご高著からだけでなく直接貴重なご教示を頂いたにもかかわらず、それらの事項が明示されていません。このような事態が生じましたことを心よりお詫び申し上げます。

                         2001年9月

                                井上 研一郎

 

2012年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 

 東日本大震災からまる二年になろうというのに、津波の傷跡は消えず、原発事故後の危険な状態はむしろ悪化しているように思える。もはや東北の地にあってこれらの現実に目をつぶって生きていくことは不可能であろう。

 何気ない日常の風景が限りなく愛おしく見えるようになったという経験は、この地にすむ誰もが持っているにちがいない。美術家ももちろん例外ではなく、この瞬間にも生み出されつつある作品の中に、必ずそうした想いが無意識のうちに込められていることだろう。

 このような時代の空気によって吹き込まれる無意識の想いとは別に、明らかなメッセージとして描き込まれる作者の意志もまた大切にしたい。今年は、この点を中心に稿を進めることとする。例年のような網羅的な叙述にならないことを前もってお断りしておきたい。

 

第75回河北美術展(4月28日~5月8日・藤崎本館)

 震災から一年が過ぎ、ようやく現実を冷静に見つめることができるようになった人たちは少なくないだろう。本展にも、震災そのものをテーマとした作品やあきらかに震災を意識した作品が並んだ。昨秋の宮城県芸術祭絵画展と単純な比較はできないが、数の多さは当然として、質的にも高く、また多彩な表現が見られたことは特筆すべきであろう。しかし、日本画部門に限って言えば、審査員のひとりが言うように、震災の影を感じさせる作品は洋画に比べて少なかった。入賞者クラスの作品にそれが顕著だったことは残念である。

◎河北賞 奥山和子《マリオネットの女たち》

 暗闇に浮かぶ鮮やかな色彩の操り人形を背景に、無彩色の若い女性の半身を前景に描いて対比させる。チェコの人々が自由への思いを人形に託してきたことが制作の動機という。虚飾の世界に踊らされる現代の日本人たちのようにも見える。

◎宮城県知事賞 小林道子《外は雨》

 開きかけたドアから半身を出して外の様子をうかがう女性を描く。ありふれた光景を上品にまとめているが、大切な小道具である傘の表現に難がある。雨を喜んでいるのか、いないのか。無表情な顔の表現に何らかの手がかりがあってもよかった。

◎一力次郎賞 後藤繁夫《月山》

 山形の名峰、月山の姿を緻密な手法で描く。なだらかな稜線と雪解けのまだら模様、全体に左に傾いた山肌の構図が、厳しい冬を越えて再び息づこうとする自然の生命力を感じさせる。わずかな空の部分の黒も効果的だ。現地に何度も通って選び抜いた場所からの眺望だろう。

◎東北放送賞 宮澤早苗《生きる》

 右手を胸にあてて佇む少女の背後に、盛りを過ぎたヒマワリが密集している。不揃いな花のかたちと色彩が作り出すある種の騒々しさと少女の靜かな表情が不思議な調和を生んでいる。それが「生きる」ということなのか。

◎宮城県芸術協会賞 田名部典子《ガーデン》

 地面に両手をつき顔を上げてこちらを見つめる女性。その傍から球根が芽を出す。煙のような白いものが這うように女の周りをうごめく。大地の中で誕生する生命を謳歌するかのような的確な人物表現と大胆な色面構成、そして線描が生きている。

◎新人奨励賞 荒井静子《明日への伝言》

 扉のついた板塀の前にピンクのコスモスがかたまって咲く。その蔭に一匹の猫が寝ている。半開きの扉の向こうには白いコスモスが咲く。何気ない光景に見えるが、一本離れて咲く花や扉の向こうの白い花たちには作者の想いが投影されているのだろう。

◎東北電力賞 柿下秀人《セカイヲユメミルネコノウタ》

 今年も渦を巻く独自の空間表現が会場で目を引いた。渦の中には倒木や獣の頭骨、イヌやネコにペンギンやキリン、ランプにバネ、風車など奇抜なモチーフが散在するが、奥行き感が乏しく、肝心のネコも存在感が弱い。中心に力をいれ過ぎたか。

○賞候補 小金沢紀子《春の風》

 丹念な筆致で表された色とりどりのヒヤシンスの前に小犬(狆)を描く。春らしい華やかな色彩だが装飾的というよりは現実の空間に近い。それにしては奥行きや広がりが不足している。花と同じくらいのリアリティがイヌにもほしい。

○賞候補 深村宝丘 《愛犬と》

 大型犬の頭に両手を載せて遠くを見つめる女性を描く。飼い主の手の重さにじっと耐えるイヌの表情が良い。人物の輪郭に施された隈どりや僅かに見える箔足など随所に工夫が見られるが、どれも中途半端で浮ついた感じを与えてしまうのが惜しい。

 受賞作以外で震災をテーマとしたと考えられる作品に触れたい。

三浦孝《帰郷》 駅のエスカレーターを上る家族連れ四人を正面からの俯瞰で描く。男の子のリュック、母親の持つ花束、虚ろな四人の表情、そして全体の色調が、故郷=被災地へ向かう旅であることを物語る。二年前、誰もが目にした光景である。ひときわ美しく描かれた白百合の花は誰のためのものか。作者の思いがそこに込められていることが見て取れる。

千田卓内《瓦礫の街の奇跡》 星空の下、瓦礫に覆われた被災地をバックに、乳飲み子を抱く若い母親。聖夜に通じるイメージがあり、作者の思いは伝わるが、周囲の光景が説明的すぎる感がある。千田は「第十七回宮城平和美術展」(三月六日~十一日・宮城県美術館県民ギャラリー)にも同工の作《在りし日の故郷に立つ》を出品している。

相沢スミ子《復興ヴィジョン》 赤、黒、青、黄色、さらに金まで様々な色がほとばしるように画面を埋め尽くす。未曾有の大災害に遭って進路を見失った人間たちの復興への思いは、いまだかくのごとき混沌の中にあると言いたいのかもしれない。

遠州千秋《美しい海、私達の矛盾》 ヘドロで描いたかと思わせる暗灰色の画面下方を、白くぼんやりとした人影が不安げに歩く。津波という厄災をもたらした海が生命を育む海でもあるという矛盾を、人間は受け止めきれるのか。作者の暗澹とした思いが込められている。

石堂智子《海の声》 激しく乱雑に交差する黒い筆あとは、暴れ回る鬼のようにも見え、大きく口を開いた怪獣のようにも見え、また「海」という字が牙をむいているようにも見える。それはまた作者の悲痛な叫びでもあるだろう。

菅井粂子《わすれない》 作者はつねに細かく素朴な線描でメッセージ性の強いモチーフを画面に繰り広げるが、本作では行楽の家族連れ、保育園か幼稚園の園児たち、楽器を奏でる三人組、回転ブランコで遊ぶ子どもたちなどを散在させた画面に、倒れかかる建物、陸に乗り上げた船、発電風車などを配した。地面に散乱する花、種から生えた双葉などに、小さく2011.3.11の文字。

 その他、目を引いた作品をあげておく。

佐々木宏美《時空を超えて 2012》

 国宝《源氏物語絵巻》のイメージと現代的な女性像との組み合わせをこのところ追求している作者だが、今回は「源氏」に力が入りすぎたか、肝心の女性像がやや雑になった印象を受ける。

阿部悦子《樹(たつき)》

 地味な色面と象徴的な人物像の組み合わせを続けてきた作者が、珍しく赤いドレスの女性を登場させた。その穏やかな表情と整理された画面は爽やかだが、物足りなさも感じさせる。

 

 個展、グループ展に移ろう。

「安住英之日本画展」(1月4日~15日・晩翠画廊)

《朝霧》《大地》《夜咲白糸舞》など21点。澄んだ色調と静かな空気の漂う佳作ぞろいであった。《紅白梅(仮》(四曲一隻屏風)は、老いた樹幹と新しい花の対比が目を引いた。《巌》は、吹雪の山麓風景。揉み紙が荒涼とした雪原の質感をよく表現している。客が思わず「寒い!」と叫んだという。

「青画会震災応援チャリティー日本画展」(2月7日~12日・晩翠画廊)佐々木啓子の指導する教室の生徒たちによる25点と佐々木の《游星海月》など4点。佐々木のJ・オキーフを思わせる妖艶な花が印象に残った。生徒の作では、髙橋美紀子《ふる里》が目を引いた。金地にコスモスを大きく表し、画面の下にふるさと名取の風景を墨一色で描き込む。震災と津波で傷ついた故郷への想いが伝わる佳作である。

「櫻田勝子日本画展」(3月13日~18日・晩翠画廊)

 「福王寺和彦先生からもう木は描かなくてよいと言われてしまいました。」もっぱら桜とブナ林を描いていた作家だが、今回は風景に小動物を登場させて新展開を見せている。まだ違和感の残る作もあるが作家の意欲を評価したい。

「及川聡子展」(3月26日~4月7日・ギャラリーせいほう)氷結した水面の描写から揺れ動く煙や焔の表現へと新たな展開を見せる作家の個展。残念ながら見落とした。

「桑の実 日本画展~三人それぞれの軌跡~」 (9月25日~30日・晩翠画廊)「50代になって本格的に日本画と向き合うようになった」という片桐美樹子、斉藤ミツ、檜森勢津子の三人によるグループ展。いずれも桑原武史が指導する「仙台日本画教室」の受講生。中東の遺跡をテーマにした檜森の作品にはいっそうの深化を期待したい。

「みののこ展」宮城野高校OB・OG日本画展(8月23日~9月16日・八幡杜の館)宮城県宮城野高校美術科日本画コースの卒業生十名と恩師の小野寺康による日本画の展覧会。展覧会名の「みののこ」は「宮城野の子」を略した言葉という。メンバーは県外の大学に進み制作を続けている。気負わず素直な表現に好感が持てた。

「土屋薫日本画展」(11月22日~27日・New Layla Art Gallery)

  中央公募展での本県関係者の入選。

第97回再興院展 三浦長悦《静動》

第47回 日春展入選者(宮城県4名)天笠慶子・荒井静子・奥山和子・菅井粂子

第44回日展入選者 天笠慶子《僕は忘れない》作者が震災の記憶をとどめるためにどうしても手がけたかった一作という。津波被災地の光景を背に黒服で立つ二人の青年。腕を組んでうつむく姿と、拳をにぎり前を凝視する姿をやや重ねて描く。厳しい現実に負けまいとする意志がみなぎるモニュメンタルな力作だが、我が子をモデルにしたことでやや普遍性に欠ける印象を受けるのが残念である。

 

 美術館による企画展では、カメイ美術館で大規模な展観があった。

宮城県芸術協会絵画部門・現審査委員作品に見る「継承する力―第1部―」(1月31日~3月11日・カメイ美術館)県芸術協会とカメイ美術館の共催により同会の歩みをたどる特別展の第3回。今年度から3部構成の予定という。

第1部の本展は現在審査委員を務める88名のうち27名による自選作品が並んだ。日本画は、小野恬《聴春》、佐々木静江《願い'11-Ⅲ》、渡辺房枝《眺望》、中畑富佐江《牡丹》、三浦長悦《風影》、櫻田勝子《颯》、高倉勝子《ネコと少女》の7点。

 

 最後に、昨年も触れた共生福祉会福島美術館が、1年9ヵ月あまりにわたる閉館を経て、12月19日ようやく再開にこぎ着けたことを喜びたい。民間のちいさな美術館が、震災で傷んだ建物の修復費用を得るのにどれだけ苦労したか、ここで語る余裕はないが、伊達家旧蔵の品々を含む同館のコレクションは宮城県民にとって貴重な宝物であり、これらを再び公開できるようになったことはまことに喜ばしい。募金事業に関わったひとりとして、ご協力いただいた県民各位にお礼申し上げて稿を終えたい。

 

2011年 宮城県日本画のうごき

                              井上 研一郎

 

 東日本大震災についての具体的な叙述は最小限に留めて、2011年の県内日本画の動きを振り返ろう。

 震災は創作に携わる作家たちと作品を享受する鑑賞者たちの生命と生活を脅かした。絵を描くどころの騒ぎではなく、絵を見る心の余裕などどこにもなかった。

 また、震災は展示施設の存在と機能を奪った。多くの美術館やギャラリーは活動休止を余儀なくされ、そのうちのいくつかはいまだに再開の目途が立っていない。

 なかでも、河北美術展の開催が中止されたことは大きな出来事であった。1933年に始まった同展は、38年、39年、40年および45年に中止となったのち、戦後は一度も中止されることなく開催されてきたが、巨大地震と大津波がその流れを断ち切ったのである。

 そのような状況の下で二人の女性作家が相次いで作品展の開催にこぎ着けた。

「及川茂 聡子 父娘展」(4月26日~5月29日・しばたの郷土館)3月に彫刻家の父との二人展を予定していた及川聡子は自宅が被災し、展覧会はひと月遅れの開催となった。筆者は残念ながら見逃した。

「大泉佐代子日本画展」(5月21日~7月12日・大衡村ふるさと美術館)院展出品作をはじめとする20点余が展示された。日本画を始めたのは結婚して仙台に来てからで、はじめ高倉勝子、ついで畑井美枝子らの指導を受け、いまは院展の松本哲夫に師事しながら、人物像を主なモチーフとして制作を続けている。緻密な描法と落ち着いた色調によって精神性の強い静謐な画面を作り出している。

 開催の直前に震災があり、展覧会の開催をあきらめかけていたところ、美術館から予定どおり開催の意向が伝えられた。自身も「こんな時こそ、前へ向いて歩かなければと思い、生きるという意味を考えながら一歩踏み出す事とし」たという。(大泉佐代子「企画展に寄せて」)

 大泉は、さらに秋の院展の出品作《残されたもの》で、大胆に震災と正面から向き合う。これまで人物の背景として控えめに描いてきた風景を画面一杯に描いた。散在する破れ障子のようなビルの残骸とその間の地面を埋め尽くした瓦礫─被災地そのものの光景。そして、手前の高台に横顔を見せて佇む二人の女性を描く。「描かずにいられなかった」と語る大泉にとって、また見る者にとっても、そこに万を超える犠牲者への哀悼と鎮魂の祈りが込められていることは明白だろう。題名のとおり、残されたものたちは、この光景をしっかりと眼に焼き付けて、この現実をのりこえていかねばならないのである。

 大泉はこの回顧展のほか、11月にも小品を中心とした個展を開催した。(「大泉佐代子日本画展」11月1日~6日・晩翠画廊)

 

 河北展が中止された中で、秋の芸術祭絵画展は、今年唯一の大規模な展観となった。

「第四十八回宮城県芸術祭絵画展」(9月30日~10月12日・せんだいメディアテーク)

◎宮城県芸術祭賞

小野寺君代《静宴》実を付けた晩秋の野草を画面一杯に丹念に描く。雑然とした配置を黒の背景が引き締めている。 地味だが豊かな自然の実りを情感を込めて表している。

◎宮城県知事賞

吉田輝《野分》咲き乱れるヒガンバナをこれも画面一杯に描く。茎がすべて右に傾いて画面に動きを与えているが、暗赤色の背景によって重厚な安定感を生んでいる。

◎仙台市長賞

橋本道代《一掬の桜》桜の大樹の根元にいる二人の若い女性。一人は膝を崩して座り、両手にでの花びらをすくい取り、もう一人は傍らに立ってそれをのぞき込む。

「一掬」という水を思わせるこの言葉を桜の花びらに用いたタイトルが、本作の意図を端的に示している。

◎河北新報社賞

阿部志宇《お絵描き》絵筆を持って一心不乱に色を塗る男の子の姿を、周囲を広くぼかして幻想風に描く。口を結び、眉間にしわを寄せたような大人びた表情が、かえって作者のモデルへの思いを伝えている。周囲のぼかしは、子どもを見守り、包み込む大人の愛情のベールか。

◎(財)カメイ社会教育振興財団賞

新藤圭一《錦に染めて》森の中、大樹に挟まれた僅かな空間を俯瞰的に描く。地面は黄色く色づいた落葉で埋め尽くされ、そこだけ光り輝くように見える。丹念な筆致で空間意識も感じられるが、散らばる数個のドングリがわざとらしく見えるのが惜しい。

◎宮城県教育委員会教育長新人賞

富樫清子《風韻》地面近く垂れ下がる枝垂れ柳の枝を描く。アスファルト色の地面は雨に濡れているように見える。葉の一部を紫や薄紅色にしたり、白っぽい煙のようなものを描き込んだり、枝の先を地面(水面か)に触れさせるなど随所に工夫を凝らしているが、策に溺れない注意が必要だろう。

○賞候補

菅井粂子《こころの故郷》緑を主調とした縦長の画面に作者独特の細かい線描で樹木の枝と無数の花を描く。作者はときおり画中にメッセージ性のある文字や記号を描き込むことがあるが、本作でも左上に音符が踊っている。

○賞候補

千田卓内《母になる日》室内のソファに腰掛ける身重の女性を落ち着いた色調で描く。やがて生まれ来る生命に希望を託そうとするかのように、母親は両手で自らの腹をそっと抱え、黙想する。その姿は、仏像を思わせる気高さがある。

 予想どおり、震災の記憶を画面に留めようとする試みが少なからず見られた。さすがに直接にあの惨事をそのまま再現したものはほとんどなく、

 

象徴的な方法で追憶や鎮魂の意を込めたと思われる作品が多かった。安住小百合《希う》、三浦孝《あの日》、芳賀天津《泪を拭って》など人物像で祈りのイメージを表したもの、佐藤勝昭《陽だまり》、三浦長悦《震》など瓦礫や樹塊などを象徴的に描いたものなど、それぞれに重い主題と取り組んだ跡が窺われる。直接的な再現を試みた作品もいくつかあり、作者の思いは理解できるが、どれも生硬な表現にとどまっていた。この未曾有の歴史的事象に本格的に取り組んだ作品が現れるのはまだ先のことのように思われる。

 会場全体の印象を作風に関して言えば、総じて画面一杯に細かいモチーフを描いた平面的な画面が目立ち、余白を生かした構図や広大な空間性を感じさせる作品は少ない。装飾性を本質的な特徴とする日本画ではあるが、工芸的に描き込むことだけでは不十分だろう。

 その他の展観の概略を記す。

「桑原武史日本画展」(9月20日~25日・晩翠画廊) 山形、仙台、東京を拠点として制作している作者による三都市巡回展。堅実な技法で静謐な画面を創り出すいっぽう、動物などのリアルなモチーフを画面上で再構成する新しい表現を追求するという幅の広い創作態度を評価したい。

佐藤朱希《秋の野草曲》が、第43回日展(10月28日~12月4日 東京・国立新美術館)で特選となった。授賞理由にあるように「作者は自然と人物とが一体となった世界に長年の間取り組んでおり」母子像を中心に象徴的な人物像を描き続けている。今回の作品もその系列上にあるが、母親の身体を斜めに配して、これまでの安定した構図から動きのある構成へ脱却しようとする意図が感じられる。柔らかな色彩と強い装飾性に加えて躍動感が加わり、母と子の関係にも自ずと変化が生まれてくることを期待したい。

「能島和明日本画展」(11月15日~21日・仙台三越アートギャラリー)「能島和明日本画展─鎮魂の祈りを込めて」(11月22日~27日・栗原文化会館)

「光芒の昭和─芸術祭賞25年─昭和39年~63年」(2月1日~3月13日・カメイ記念展示館) カメイ記念展示館が県芸術協会との共同企画で、県内美術を芸術祭賞受賞者の作品で回顧したもの。全作品23点のうち、日本画は次の8点が並んだ。

佐藤朱希《ひろ野》1987年、七宮牧子《おひるね》1987年、安住英之《赭》1979年、能島和明《手》1966年、安住順子《ルイのいる'87》1987年、安住小百合《会話》1979年、川村妙子《如月》1986年、佐藤勝昭《船影》1973年。

現在とほとんど変わらぬ作風の作家もあれば、別人かと思える変化を見せる作家もあり、とくに能島和明と佐藤朱希の作品は興味深かった。

山口裕子日本画展「花のかたち」(12月16日~25日・ギャラリー専)

 

 最後に県内の公立美術館、博物館が震災の被害を乗り越えて意欲的な企画展を開催していることに敬意を表したい。同時に、甚大な損害を被り再開の目途が立たない石巻文化センター、修築費用に十分な補助が受けられず休館を余儀なくされている共生福祉会福島

 

美術館などの館が、一日も早く活動を再開することを切望する。

2010年 宮城県日本画のうごき

            井上 研一郎

 

 

 2010年は酷暑と混迷の一年であった。記録破りの暑さで筆者の貧弱な頭脳労働は瀕死状態に陥り、政権交代で生まれた民主党政権もまた鳩山内閣の総辞職後、ほとんど瀕死状態にある。巨大な財政赤字のもとで、美術館や博物館の予算は削られて、ここも瀕死状態。

 しかし、瀕死の状態でも地球に帰ってきた小惑星探査機「はやぶさ」は、最後まであきらめないことが大切であることを教えてくれた。宮城の美術状況にも、あきらめず期待しよう。

 

 公募展、団体展の動きとして、例年通り河北展から始めたい。

 第74回河北美術展(四月二十三日~五月五日・藤崎本館)の日本画部門受賞作はつぎのとおりであった。

○河北賞 阿部君江《挑む》

 黒い子犬と赤いザリガニが睨み合う光景を縦長の構図でとらえる。散歩中の出来事か、リードにつながれた子犬は半身に構え、ザリガニは大きな鋏をいっぱいに広げて威嚇の姿勢をとる。作品が成功した最大の要因は二者を縦に配した俯瞰的な構図にある。黒白赤青と色数を抑えたことも効果的だ。日本画の表現力の豊かさを遺憾なく発揮した作と言えよう。

○宮城県知事賞小林道子《紫陽花》

 紫陽花に囲まれて傘を差した若い女性が遠くを見つめる姿を描く。単純な構図と色彩が新鮮な印象を与える。モデルの表情も爽やかだが、背景の青色が空を表すとすると、なぜ傘を差すのかという疑問が湧く。傘の表現と合わせてもうひと工夫ほしかった。

○一力次郎賞 阿部悦子《泡影》

金髪を風になびかせ、うつむき加減に立つ黒いドレスの女性の姿が、黒を基調とした抽象的な空間に浮かび上がる。これまであった謎めいた部分が消えて物足りない気もするが、よく見ると画面上部に後ろ姿の下半身が描き込まれていて、やはりと思わされる。寡黙な自画像とでも言うべきか。

○東北放送賞 深村宝丘《翠嬢》

 椅子に腰掛けて琵琶のような弦楽器(筆者はこの楽器の名を知らない)を抱えたチャイナドレス姿の女性を描く。人形のような無表情の顔と大きな手が画面に異様な緊張感を作り出しているが、楽器の表現が図式的で全体のバランスを欠いたのが惜しい。

○宮城県芸協賞佐々木宏美《時空を超えて2010》

 作者が近年取り組んでいる「源氏物語絵巻」をモチーフとした作品。絵巻の代表的な場面を背景に、靴を脱いで立ち、首をかしげて挑戦的な視線をこちらに向ける女性を描く。文字どおり時空を越えた想いが錯綜する画面。誰もが知る国宝の作品をやや安易に画面に持ち込んだ感があるが、斬新な構成に取り組む意欲を買いたい。

○新人奨励賞 森智子《静かな会話》

 海岸の砂浜に二本の傘が突き刺されて立つ。そこに作者は「静かな会話」を聞いた。何気ない風景をシュールな世界に転じる発想は見事だが、ここまでは日本画でなくても表せるだろう。問題はその先にあることを今後は考えてほしい。

○東北電力賞 松本洋子《水門》

 水門と手前の水面に映る水門のシルエットをクローズアップして描く。作者のねらいが揺れ動く水門の影にあるとすれば、画面上部の水門はもう少し調子を抑えて描くべきだっただろう。捉え所がはっきりしない抽象画のように見えるが、目の付け所は悪くない。

○賞候補 富樫清子《還暦を迎えて》

 テーブルの上の豪華な盛り花と椅子に乗せたギターを中心に楽譜やモビール、掛け時計などを配して、淡い色調で画面をまとめる。充実した六十年の人生を振り返る作者の心が素直に表されている。

 画面全体を花や葉で埋め尽くしたような作品が少なくない。多くは全体を包み込む空気が感じられない、装飾模様のような退屈な画面だ。中核的なモチーフを設定したり、点景として人物や動物を配したものもあるが、その意味や役割をはっきり考えて描いたようには思えない。大樹に魅せられた作品も目立つが、描ききったと言えるものはない。相手は手ごわい。やみくもに挑み続けるか、ひとまず引いて出直すか、大いに悩むべきだろう。

 

 第47回宮城県芸術祭絵画展(九月二十四日~十月六日・せんだいメディアテーク)では、次の作品が受賞した。

○宮城県芸術祭賞 小野寺君代《生夏》

○宮城県知事賞 遠州千秋《旅路》

○仙台市長賞 岩渕仁子《花筏》

○河北新報社賞 梅森さえ子《瑠璃色の風》

○(財)カメイ社会教育振興財団賞 富樫清子《次へ》

○宮城県教育委員会教育長新人賞 菅井粂子《YELL》

○賞候補 橋本道代《あこがれ小箱》

○賞候補 福田眞津子《悠乃2歳》

 河北展で筆者が述べた課題に答えたかたちの作品が会場で眼につき、充実した感覚を覚えた。

 小野寺の作品は、薄墨の地にクズの葉とススキをほとんど群青系の色だけで描くという異色の画面。色数を絞ったことで、画面全体を埋め尽くしながらも奥行きと透明感をもつ表現が可能となった。単調になりがちなススキの穂も、折れて垂れ下がったもの、蜘蛛に巣を張られたか弧を描くものなど、変化をつけて装飾性を消し、あくまで自然の空間にこだわりを見せる。

 岩渕もスイレンの葉の間に漂う無数の桜の花びらを変化をつけながら描き、単調さを免れたリアルな空間を作り出している。

 梅森は塀の向こう側にある何かを手前の帽子と小枝の動きで表そうとしている。雑然とした手前の空間が向こう側の透明な奥行きを引き立てるが、左側の白い塊が違和感を生んでいるようにも思える。

 こうして自然を独自の方法で再現しようとする作品が並ぶ一方、記憶や想像の世界を視覚化する行為もまた多様な展開を見せる。

 遠州は地面に坐るキツネらしい動物と傍に立って餌を与えようとする少女の姿を幻想的に描く。もっともこれは筆者の独断で、もし「散歩」という題がついていたら、坐り込んで動かなくなったイヌを引っぱろうとする少女に見えるかも知れない。だが、それは「旅路」という題から想像してもかまわないわけで、見る者の多様な記憶をも呼びさます不思議な画面である。

 菅井は卒業ソングとして歌われる同名の曲のイメージを淡い色調の画面に豊かに描き出した。

 

 個人の動きに眼を転じると、天笠慶子日本画展(四月二十九日~六月十六日・大衡村ふるさと美術館)では、日春展入選(一九九〇)以降の主要な作品二十一点が並んだ。多くは人物画であるが、その人物も素材のひとつとして装飾的な画面に配した濃厚な空間が生まれている。モデルとなった家族が、画家との絆を感じつつそこから飛び立とうと葛藤しているようにも見える。その他の小品では、風景や静物にも新たな境地を開こうとする姿勢が見られた。

 2008年の岩手・宮城内陸地震の際、辛うじて難を逃れた能島和明の栗駒のアトリエが二年ぶりに再開され、五~七月に公開され、筆者も初めて訪問した。「悲しい位に見晴しが良くなりました」と画家が言うアトリエ北側は、雑木林がそっくり崩れ落ち、赤肌を見せた谷を隔てて栗駒山がすぐ目の前にある。周囲は、一昨年の個展(仙台三越)で見た《一瞬の権現》の風景そのままだ。「林の後ろに見え隠れする褐色の塊が示唆的」と書いたが、地震の前兆が能島には見えたのだろうか。能島は東京で文部科学大臣賞受賞記念素描展(二月十日~十六日・銀座松屋)に続き、個展(三月三日~九日・日本橋高島屋)を開催した。

 櫻田勝子絵画展(十一月九日~二十八日・蔵の郷土館齋理屋敷)には、2009年の院展入選作を含む十九点が並んだ。副題に「樹木の恵みにに生かされて」とあるように東北のブナ林を精力的に、また京都をはじめ各地のサクラを丹念に描く。会場に並んだ作品は、額にはめ込まれたアクリルの反射が強すぎて、鑑賞には不向きな状態であった。主催者には効果的な対策を望みたい。

 昨年十月に開館した登米市高倉勝子美術館が「開館一周年特別展」を開催した(~十月三十一日)。筆者は残念ながら会期中には観覧できなかったが、その後の常設展にも一九五〇年代の作品から近作まで二十点余りが展示され、画家の全体像を知るには十分な手応えがあった。

 高橋睦個展(~五月十六日・白石市 寿丸屋敷)には花や野菜を描いた二十点が並んだ。よく観察された平明な写実描写に好感が持てた。

2009年度の宮城県芸術選奨および新人賞については、日本画部門の受賞者はなかった。また、文化の日表彰の対象者もなかった。

 最後に、日本画・東洋画関係の美術館活動を列挙しておく。

○「めでた掛け・福笑い」(一月六日~三月三日・共生福祉会福島美術館)

○「知っておきたい郷土の作家~得楼・速雄・耕年・天華~」(四月二日~五月三十日・共生福祉会福島美術館)

○「絵画にみる江戸時代のみやぎ」(四月二十四日~六月六日・東北歴史博物館)

○「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」四月二十日~五月三十日・仙台市博物館)

2009年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 

 「政権交代」がキーワードとなった二〇〇九年、宮城県内日本画の世界にはどんな変化がもたらされただろうか。結論を出すにはもちろんまだ早いが、敢えて言うなら、一進一退、次代を担う新星いまだ見えず、といったところか。急速な支持率低下を止められない連立内閣がこの国をどこへ導こうとしているのか不透明な現状と、どこか似通っているように思われる。

 

 公募展、団体展の動きとして、例年通り河北展から始めよう。

 河北美術展(四月二十七日~五月六日・藤崎本館)の受賞作はつぎのとおりであった。

○河北賞 阿部悦子《沈く》

 難解な題名と謎めいた画面を描き続ける作者が、ようやく自分の姿を素直に表現できたといえようか。両手の形は作りすぎの感がある。次の段階への脱却が課題となろう。

○宮城県知事賞小林道子《かえり道》

 通勤電車の車内風景。作者の誠実さが伝わる微笑ましい作品だが、ガラスに映った姿の方が鮮やかに見える。もう少し押さえるか、逆に実像のほうを押さえても良かった。

○一力次郎賞 小野寺君代《冬の華》

 枯れ薄の群落を描く徹底した写実に敬服する。上部の背景はよく描けているが、右下の部分は地面か水面か判然としない。表現に工夫がほしかった。

○東北放送賞 吉田輝《吉実彩祭》

 大胆な色彩に目を奪われるが、構図にもう少し統一感がほしい。新聞紙の断片を実際のモチーフとして使うのは、コラージュ本来の意義を見失うことにならないだろうか。

○宮城県芸協賞佐藤松子《記念日》

 着飾った少女を平面的に配置した面白さがある。三人がもし同一人物なら、絵巻に見られる「異時同図」ということになり、卓抜な着想に拍手したいところだが、果たして…。

○新人奨励賞 伊藤文子《夕悠(最上川)》

 河口付近の風景を鳥瞰的に手堅くまとめる。緻密ではないが、造形的な面白さがある。巨大な夕日は、人間の目にはこれくらいに見えるもの、写真にはできない表現だ。

○東北電力賞 阿部あや子《12月の窓》

 明治時代とちがって現代ではモチーフになりにくい電柱を手前の萎れた草花と重ねた発想の妙を賞めたい。サッシュで截然と区切られているはずの初冬の冷気と部屋のぬくもりが、視界の中で一体化する不思議さ。電柱を描いて電力賞とは偶然か。

○賞候補 大森ユウ子《渓音》は白絵具の垂れ具合が流れ落ちる滝を効果的に表現している。田中順子《飛石の秋》は「飛び石」というには空間が狭すぎる。石の上の一枚の落ち葉もわざとらしく見える。田名部典子《ひずみ》は意欲作。手から落ちるカーネーションをもっと効果的に使いたかった。茅野淑《かたらい》はほのぼのとした情感が伝わる。二人の子どもの配置に一工夫あっても良かった。

 受賞作以外で目についた作品をあげる。

 青木淳子《会者定離》は空間を描ききる難題に挑戦。抑制した表現は見事だが、日本画で描く必然性が見えてこない。梅森さえ子《静穏》今回は色数を抑えて正解だった。リアルな表現と夢幻の世界が爽やかに溶け合う。遠州千秋《レインダンス》は「雨の踊り」か「雨の中の踊り」か、映る影に少々難はあるが、完成に近い世界だ。この先が興味深い。佐々木昭子《氷のシンフォニー》小石のリアルな表現と水(氷?)の抽象的な形状─折り合いがむずかしい。菅原キク子《時空を越えて》縄文土器とハスの異質性がいまひとつ伝わってこない。蓮の横の白く立ち上る蒸気のようなモノは何か。武田久美子《祈り、広瀬川・郡山堰》は部分にこだわりすぎた。つねに画面全体を見ながら仕上げていくことが大切だ。針生卓治《キョウノチ》題意が不明、モチーフも曖昧だ。去年の堂々とした姿勢はどこへ行ったのか。松本洋子《唐箕》は古い農機具の造形的な面白さをねらったが、もっと思い切った単純化が必要だろう。赤い部分の意味不明。三浦孝《週末の二人》は人物と外景のどちらに重点があるのか曖昧だ。一方をシルエットにしても良かった。宮澤早苗《予感》今回はリスも鳥もいない。木の芽の赤い色と小枝の渦巻く姿に生命感をという意図は分かるが、作りすぎの感がある。守屋亜矢子《ラボラトリ》は線描を重視する姿勢を評価したい。その線に個性を持たせる工夫が課題だろう。

 近年、世界遺産を思わせる大樹を画面いっぱいに描く作品が目立つ。エコロジー・ブームの現われと速断するつもりはないが、山奥まで行かずとも「大自然」と向き合える感性も芸術家には必要ではないかと思う。また、指導者を容易に推測できる作品も、相変わらず少なくない。こうした反面、時代を鋭く映し出す作品がほとんど見られないのは寂しい限りだ。日本画はもはや歴史とともに歩むことをやめたのだろうか。

 

 第六十四回春の院展(五月十三日~二十二日・仙台三越)には、本県関係作家として小野恬《聴春》、三浦長悦《静秋》、宮澤早苗《十月の池》が出品された。

 宮城県芸術祭絵画展(十月二日~十四日・せんだいメディアテーク)は、十分な時間をとって見ることができなかったので、受賞作を列挙するにとどめる。

○宮城県芸術協会賞 及川聡子《放》

○宮城県知事賞 梅森さえ子《花の音》

○河北新報社賞 佐々木志津子《祈り-トバ・バタック族-》

○仙台市長賞 宮澤早苗《行く秋》

○(財)カメイ社会教育振興財団賞 富樫清子《藤華》

○宮城県教育委員会教育長新人賞 檜森勢津子《アブシンベル神殿》

○賞候補 金子利宇《曜》 毛利洋子《火山湖》

 受賞作の他では、斎藤ミツ《樹下通り径》、佐々木園美《華》、吉田輝《春喜》などが印象に残った。

 

 個人の動きに移ろう。

 髙瀬滋子作品展(三月五日~十五日・藤田喬平ガラス美術館)Präparat(プレパラート)と題した作品群は、作者の言葉によれば「生命(いのち)」を大きなテーマに「もり」や「まち」を一つの生命体としてとらえようとする。文字どおり顕微鏡で標本をのぞいたような形態を点描風に描いた画面は、ミクロの世界にも、遥かな銀河宇宙の姿にも見える。

 佐藤朱希日本画展「風・光・音のポエム」(四月二十九日~七月七日・大衡村ふるさと美術館)には、日展出品の大作七点をふくむ十四点が並んだ。柔らかな雰囲気の近作に混じって、《現代母子図考》(一九八九)が印象に残った。直立する二人の女性像に込められた強いメッセージ性が、その後の作品では影をひそめ、穏やかな表現に変わっている。その変化の必然性が、わずか一点の旧作では見てとることができないのが残念だった。なお、佐藤は平成二十年度宮城県芸術選奨を受賞した(授賞式六月十五日)。

 櫻田勝子は、三月に岩出山(十三~十五日・大崎市岩出山スコーレハウス)で、四月に仙台(十四~十九日・晩翠画廊)で自らの作品展を開いた。仙台の展観では、作者が追い続けている重厚なブナの大樹と繊細な枝垂れ桜を中心に十五点ほどが並んだ。このほか、八月には櫻庭が主宰する日本画教室「彩耀塾」の第四回作品展が開かれた(二十五~三十日・東北電力グリーンプラザ)。

 天笠慶子が講師を務めるNHK文化センターの受講生による「日本画を楽しむ」作品展が行われた(六月十二~十七日・せんだいメディアテーク)。教室を始めて七年目、初の作品展だが、多彩で自由な表現が見られたと同時に、天笠の指導による揉み紙を用いた作品が目を引いた。

 飯川竹彦は、平成十九年にドレスデンで個展を開いた後も、現地の独日協会などと連携してさまざまな企画を続けているが、今年は夫人の知世とともに同地で二人展を開催した。(九月二十五日~十月三十日・クライシャ教会)

 梅森さえ子日本画展(十月二十七日~十一月一日・晩翠画廊)は、花や実などの植物をモチーフに、明るい色調の作品約二十点が並んだ。装飾的な画面の中にしっかりした線描が生きており、変化に富んだ構図と合わせて爽やかな印象の展観となった。

 登米市高倉勝子美術館が十月四日、高倉の郷里、登米市登米町に開館した。高倉が私費を投じて建設し、自作九十三点とともに登米市に寄贈した。高倉の画業を紹介するとともに、周辺の施設と併せた地域文化振興の拠点としての有効な活用が望まれる。

 

 最後に、美術館の活動を概観しておく。

 荘司福展(四月十一日~六月十四日・神奈川県立近代美術館・葉山)仙台で画家としての前半生を過ごした荘司福の代表作約九十点による没後初の展観。「東北の生活や信仰に共感を寄せ」(同館案内文)た一九五〇年代以降、アジア、アフリカの精神文化に題材を求め、さらに「自然と融和した精神状態」(同前)での晩年の作に至るまでを一堂に集めたとのことだが、残念ながら見損なった。

 京都画壇の華─京都市美術館所蔵名作展(八月二十九日~十月四日・宮城県美術館)優れた日本画コレクションで知られる京都市美術館の所蔵品を選りすぐった展観。ふだん目にすることの少ない京都画壇の名作が並ぶ充実した内容であった。筆者は請われて会期中に「伝統と、革新と」と題する講話を行ったが、一般の聴衆に混じって県内外の日本画家や愛好者の姿が多く見られた。彼らになにがしかの刺激とヒントが与えられたとすれば、展観は無形の成果を上げたと言えるだろう。

2008年 宮城県日本画のうごき

                              井上 研一郎

 

 「百年に一度」かどうかはともかく、デフレと不況のつづく世の中で、「芸術」は確実に冷飯を食わされている。国内の美術館は軒並み入場者の減少、収入の落ち込み、人員削減、予算凍結などによる打撃を蒙っている。首相の好きなマンガだけは別扱いのようだが、政権が替わったとしても果たして文化予算が増えるかどうか、やはりこの世界も先行きは不透明である。

 

今回は、全国レベルのうごきからとりあげよう。

 第四回東山魁夷記念日経日本画大賞展に及川聡子《視》が選ばれた。「従来の動物画や草花図とは違う世界で生息している…独特の題材を心理的にも陰影に富んだ筆致で描いた」と同作を評した宝玉正彦氏(日本経済新聞編集委員)は、会場全体の特徴を「旧来の美意識を乗り越えようとする努力。とくに日本画特有の材料の特色を最大限に生かそうとする姿勢」とするが、及川も確実にその一人といえよう。(十一月一日~十二月十四日・ニューオータニ美術館)及川は若手作家の登竜門のひとつ「VOCA展2008」(三月十四日~三十日・上野の森美術館)に選ばれ、《顕》を出品したほか、「第四回トリエンナーレ豊橋 星野眞吾賞展―明日の日本画を求めて―」(八月二十日~九月十五日・豊橋市美術博物館)にも入選した。

 

 第四十回日展で佐藤朱希《美野の陽々》が特選に選ばれた。授賞理由は「長い間、人物を主体に描いている。今回の出品作は清らかな境地で親子の情愛をとらえている。技法も岩絵具と箔を用い混合技法として優れている。」というもの。日展という巨大組織の中で特選に至る道程は想像を越えるものがあるが、報道に見られる「師匠の下で表現に磨き」という作家の姿勢は、個人の創造表現とどこかで矛盾しないか。技術や手法はともかく、創造の原点において自立する姿勢を今後の作家に望みたい。(十月三十日~十二月十六日・国立新美術館)

 

 第四十三回日春展に宮城からは七名が入選した。安藤瑠吏子、市川信昭、金子利宇、七宮牧子、松谷睦子、吉田輝、佐藤朱希。佐藤は奨励賞を受賞した。若手の登竜門として発足した「日春展」だが、昨今の入選者には若手とは言いにくい作家が目立つ。(四月二日~七日・松屋銀座)

 

 県内に目を転じると、能島和明個展(二月二十六日~三月三日 三越仙台展アートギャラリー)アトリエのある栗駒山周辺の自然をモチーフとした作品を中心に約五十点。春らしいパステル調の作品が多いが、そのなかで《一瞬の権現》と題する雑木林の風景が印象に残った。若草色の芽吹きが一瞬の風になびく様子を描く。林の後ろに見え隠れする褐色の塊が示唆的だ。さらに、文字どおり異色的な二点が目を引いた。《太陽が黒く見えた日》《月が黒く見えた日》は、「9.11」を念頭に置いた連作という。前者は赤地に黒々とした太陽を、後者は黒地に黒ずんだ赤い月をそれぞれ画面の下部に描き、上部にはともに萎れかけたひまわりの大輪を配する。無差別同時テロの悲劇を、能島なりのやり方で記憶に留めようとしたのだろう。タリバンの行為は寡黙な日本画家の心にもナイフを突きつけた。

 金沢光策日本画展(四月二十六日~七月十六日 大衡村ふるさと美術館)人物・風景など二十一点。《まりも》(一九七〇)は、北海道とアイヌをモチーフにした構成的な作品で、会場内で異彩を放つ。いっぽう《採石場》(一九八八)はほぼ黄色一色の画面に陰影表現を施してむき出しの地面を描く。金沢の画業は、油彩から日本画へ、造形性重視から質感表現の重視へと力点を移行させてきた過程といえようか。ところで、会場内に「絵に対する心」という作者の言葉が掲げてある。曰く「先ず第一に日本画とか洋画と区別して日本人の描く絵を取り扱うことが疑問であり、私は私の絵を単に金沢の絵と称して居ます。ただ材料の如何によって西洋画とか日本画と見られるに過ぎないと思って居ます。…私は日本画の約束を知らないから却って楽しんで描けるのだと思います。知って来ると臆病になる。」金沢の論に異を唱えるつもりはないが、「日本画の約束」が作家を臆病にさせるとすれば、そんなものは糞食らえであって本質的なものではない。金沢にそう感じさせる要素が「日本画」の側にあることに、今日の日本画の混迷の要因が潜んでいるといえないだろうか。

 

 第七十二回河北美術展(四月二十五日~五月七日・藤崎本館)では、入賞作を中心に取り上げる。

○河北賞 針生卓治《ユクカワノナガレハタエズシテ》 昨年までのゾウは横向きでどこへ行くのかと思っていたら、今年はまっすぐこちらへ向かってきた。工夫されたマチエール、リアルな眼の表現とともに、見る者と正面から対峙する姿勢を評価したい。

○宮城県知事賞 柴田慶夫《雑草》 草原を背にすっくと立つ野の花のドラマティックな光景。

○一力次郎賞 田名部典子《唄本》 謡の稽古に余念がない祖母と寄り添う孫娘か。背筋を伸ばした祖母の姿が爽やかだ。

○東北放送賞 渡辺房枝《タイムトラベル》 石造りのアーチの向こうに陽を浴びた楽隊。石畳を丁寧に描いて時間の推移を空間の奥行きに置き換えた発想は面白い。

○宮城県芸術協会賞 三浦長悦《冬道》 雪と枯れ草が織りなす筋目文様と車の轍を組み合わせた秀逸な構図。

○新人奨励賞 柿下秀人《おもいをとかして》 さまざまなモチーフが大きな渦に乗り中心に向かってとけ込んでいく。発想はユニークだが、イラスト的にならない工夫が必要だろう。

○東北電力賞 宮澤早苗《生》 咲き終えた向日葵を黄色を主調として画面いっぱいに描く。意欲は感じられるが、描き込みすぎて、全体の統一感が失われている。

○賞候補 阿部志宇《望》 画面上部に蔵王のお釜、下辺に白や紫の小さな花の一群。タイトルの「望」とは、この花のことか、それともお釜の遠望を指すのか。

○賞候補 小野寺康《灯》 満月の夜のダム湖と街路灯に照らされた鉄橋。夜景にこだわる意欲は買うが、もう少し闇は闇らしく表してもいいのではないか。

○賞候補 小金沢紀子《舞う》 白壁の前に咲く秋海棠の花群を丹念に描く

○賞候補 佐々木昭子《雪国のおそい春》 水たまりに映る裸樹。水の周囲の小石を丹念に描くが、手前のバケツとシャベルはやや説明的だ。

○賞候補 鈴木健次郎《山峡晩秋》 峡谷の紅葉風景。線を多用した崖の岩肌と対照的に、紅葉する樹木が色面のみで表現されるが、今ひとつ統一感に欠ける。

○賞候補 真下みや子《収穫の時》 大豆の茎の束が霧の中から浮かび上がる。緻密な陰影表現がかえって全体を平面的に見せるのは作者の意図か、偶然か。

 このほか、目についた作品をあげておく。

・阿部悦子《些々》相変わらず謎めいた題だが、写真を思わせる具象的な人物と箔や不定形を用いた抽象部分とのバランスが、作者の毎回の課題。今回は人物が重く、また箔の形が浮いた感がある。題に関わる画面の不思議さもいまひとつ物足りない。

・遠州千秋《まっすぐな道》 画面を斜めに横切る白い線の上を歩き始めようとする一匹の猫。作者特有のカオス的な空間だが、いつもの一種謎めいた構成ではない。

・成田昭夫《新館野》樹木がうねるような不定形で表され、躍動感ある画面。今後の展開に期待したい。

・桧森勢津子《久遠》 薄暗い空を背景にスフィンクスを下から見上げた重厚な画面。圧倒的な迫力とともに不気味さをも感じさせる。

・松浦真歩《曼珠沙華》 小さな駅のホームに座り込んで列車を待つ少女近景のやや雑な仕上げ、陰影表現の不徹底など課題はあるが、爽やかさとセンスを買う。

・松本洋子《遺されたかたち》 黒いヒルガオの葉と白い倒木、そして黄色いチョウがそれぞれに象徴的な役を演じている。

 

 紙幅が尽きたので、この他は列挙するに留める。

 「宮城日展会展」(八月十五日~二十日・せんだいメディアテーク) 天笠慶子《うつろう季》、市川信昭《北風(がんばろう)》、佐藤朱希《透る陽々》、七宮牧子(以上県内在住)《想》、安住小百合《双》、佐々木麻里子《波の華》、能島和明《黒川能(羽衣)》、能島千明《セシル》、

能島浜江《鹿踊りのはじまり》、三浦理絵《街にて》

 「宮城県芸術祭絵画展(日本画)」(九月二十六日~十月八日・せんだいメディアテーク)宮城県知事賞 新藤圭一《刻》 仙台市長賞 三浦孝《待つ》 宮城県芸術祭賞 宮澤早苗《挽歌》 成瀬美術記念館賞 安藤瑠吏子《女》 河北新報社賞 及川聡子《相》 県教育長新人賞 佐藤松子《晨》

 「日本画仲間達展」(五月十三日~十八日・晩翠画廊) 大泉佐代子、佐々木啓子、三浦長悦、宮澤早苗、毛利洋子。 

 「飯川竹彦の世界Ⅱ」(五月三日~八月二四日・涌谷町天平ろまん館)

 

 最後に、美術館の企画展として仙台市博物館の一連の特別展、企画展をあげておきたい。宮城県美術館が空調設備更新のため長期休館に入ったなかで、同館の「奮闘」は賞賛に値する。「武家文化の精華―金沢文庫・称名寺の名宝―」(四月二十五日~六月一日)、「江戸と明治の華―皇室侍医ベルツ博士の眼―」(七月十八日~八月三十一日)の大型展に引き続き開催された「最後の戦国武将―伊達政宗」(九月十二日~十一月三日)「平泉―みちのくの浄土」(十一月十四日~十二月二十一日)の二企画は、十~十二月に展開された仙台・宮城デスティネーション・キャンペーンと相まって、仙台、宮城発の文化発信に大きく貢献した。

 

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この文章は、『宮城県芸術年鑑 平成20年度』(2008年3月・宮城県環境生活部生活・文化課)に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、 ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。 

 

2007年 宮城県日本画のうごき

                              井上 研一郎

 

 2007年の宮城県日本画界にとって特筆すべき出来事は、飯川竹彦のドイツでの作品展と、能島和明の大規模な回顧展であろう。

 「絹に描く日本画―飯川竹彦の世界」(四月四日~五月二十八日)は、ドイツ・ドレスデン国立民族学博物館(日本宮殿内)で開かれ、絹本を中心に屏風、画軸など三十二点が展示された

 飯川は、第五十六回河北美術展(1992年)で河北賞を受賞した後は同展を離れて独自の活動を展開しつつ、シルク和紙の普及に努めている。伝統的な技法を現代に活かそうとする彼の姿勢は、ドイツ人たちにも共感を与えたようだ。会期中、飯川はシルク和紙の開発を担当した若尾昇氏とともにドレスデン芸術大学の学生らを対象とする日本画ワークショップを開催、帰国後に受講生たちの作品を県内で巡回展示した。

 筆者は、ドレスデンでの開会式に参列して挨拶する機会を与えられたが、日本画の特質をヨーロッパ人に理解できるように語ることの難しさをあらためて痛感した。しかし、彼らは真摯に飯川の作品を理解しようと努力した。開会式に続く内覧会では同館の学芸員が一時間にわたって飯川の作品を解説したほか、会期中は地元紙が三回にわたって特集記事を掲載した。

 

 能島和明の回顧展(六月二日~六月十日・栗原文化会館)が開かれ、十代から現在までの主な作品約七十点が並んだ。

 東京生まれの能島は、青年期までを宮城県の築館で過ごした。モダンな感覚で静物や人物に取り組んだ初期作品から、能に取材した一連の大作、家族をモデルにした宗教性ただよう人物像まで、次第に東北の風土に根ざしたモチーフを見出していく過程がよく解る。

 初期のビュッフェを思わせる線描の作品や明るい抽象風の画面から、次第に深い色調の油彩画と見まごう厚塗りの画面へと向かう流れは、そのまま日展を中心とした戦後日本画の変遷をたどっているようで興味深かった。

 現在の河北展を見ていると能島の影響の強さが分かる気がするが、能島本人は師である奥田元宋に学びながらも、おそらくその影響と格闘しつつ自らの作風を模索してきたのである。それが実を結んだからこそ、こうしていま自らの画業を振り返る自信が生まれたのだろう。

 

 第71回河北美術展(四月二十七日~五月九日・藤崎本館)の入賞作と印象に残ったいくつかの作品を紹介するが、今年の入選作はなぜかどれも色調が暗い。審査員の那波多目功一は「重厚で落ち着いた色調」と評価し、福田千惠も「空気感や色彩が似た作品が多かった」と述べている。それが那波多目の言う「東北の風土や地域性」あるいは福田が「土地柄なのか」と考えるようなものかどうかは疑問だ。なぜなら、昨年は必ずしもそうではなかったからである。

○河北賞 福田喜美子《過ぎたコト》

 画面一杯に薄汚れた壁を、下半部に金網の塀をリアルに表し、その前に横向きに立ってうつむく若い男の姿を描く。今回の会場では金網や格子の表現にこだわりを見せた作品が目立ったが、この作者は絵の具を盛り上げて「リアルな質感に挑戦」(作者談)している。そのことの当否よりも、筆者には画面の外を向いて佇む少年の姿に何を託そうとしているのか、気になった。

○宮城県知事賞 佐々木宏美《わたしは駝鳥・飛べない鳥》

 不自然なほど強調されたダチョウの姿を画面一杯に、その脚と胴体に絡まる金網を象徴的に描く。前年の県芸術祭展出品作に比べて画面が整理され、素描風の女性が描き加えられて題意が強調された。金網に脚を取られずとも元来ダチョウは飛べないもの。歩くことさえも、という意味にしても、金網にこだわりすぎた感がある。

○一力次郎賞 針生卓治《永劫の宙》

 作者は前年もゾウをモチーフとした作品で新人奨励賞を受賞したが、今回は煩雑だった画面を整理し、動きを加えた構図となった。題にふさわしいスケールの大きさを感じさせる。

○東北放送賞 後藤繁夫《待春》

 雪深いブナ林の朝の景だろうか。近景の太い幹と後景の細い枝との対比が画面に奥行きを与える。モノクロームに近い画面の中で控えめなピンクの空が題意を雄弁に語っている。

○宮城県芸術協会賞 三浦長悦《悠》

 イチョウの巨木を画面一杯にとらえ、複雑に入り組んだ太い枝や気根の間から伸びる無数の若い枝を描く。地味な色調の中で若い枝の明るい色が生きている。

○新人奨励賞 一條好江《薨虫(こうむ)》

 横長の画面に豊満な裸婦のデフォルメされた姿が横たわり、虫や花などの細かいモチーフが装飾的に前面を覆う、幻想的な作品。土偶を思わせる裸婦の圧倒的な量感と繊細な花や虫の対比が生命の神秘を感じさせる。

○東北電力賞 吉田輝《秋のマリオネット》

 紐につるされた赤い唐辛子の束を、金箔に薄墨を掃いた画面に描く。唐辛子の実のリズミカルな形と沈んだ金地に浮かぶ鮮やかな朱が躍動感を生んでいる。それを操り人形(マリオネット)に見立てた題の付け方も楽しい。

 賞候補となった作品から目についたものをあげておく。池田真理子《はるをまつ》は、今回の会場で目立った金網や格子を描いた作品の一つ。動物園の檻の中で目を閉じてうずくまる雌鹿を描く。檻の格子を直接描かず、影だけで表してその存在と同時に春先の柔らかな日ざしを感じさせる手法である。田中ふく子《春の約束》は春の嵐(?)に弄ばれる針葉樹の芽吹きを躍動的に表現している。新芽の色がやや浮いているが、着想を評価したい。

成田昭夫《解体を待つ廃船》は重厚な作風で風景を描き続けている作者だけに、廃船がまるで巨大な岩山のような量感をもって表されている。

 その他の作品では、阿部悦子《春蚕(はるご)》 が相変わらず謎めいた題を手堅い手法でまとめ、及川聡子《来》も同様にミクロの世界を宇宙的な視野に収め、大泉具子《秋声》は秋の草花の束を逆さに吊したように描いて独自の季節表現を追求し、奥山和子《嫁ぐ日》はウエディングドレス姿で正座して挙式を待つ花嫁の緊張した様子を俯瞰的な構図で見事に表した。

 

 河北展に多くの字数を費やしてしまった。以下の展観については概要の紹介にとどめる。

 第四十四回宮城県芸術祭絵画展(十月五日~十七日・せんだいメディアテーク)には、日本画六十八点が出品された。宮城県芸術祭賞の佐々木啓子《群雄》は、江戸時代の伊藤若冲を思わせる力作。宮城県知事賞の及川聡子《冴》は、写実を踏まえつつ計算された造形性が光る。仙台市長賞は菅井粂子《平和の祈り》。ハスの咲き乱れる池に幼い二人の少女の顔を刻んだ墓碑が浮かぶ、メッセージ性の強い作品。河北新報社賞の遠州千秋《作品》は、おぼろげな人物像以外に具体的なモチーフを持たない、遠い記憶の中の情景か。成瀬記念美術館賞の安藤瑠吏子《視る》は床に片手をついてくつろぐ女性の堂々とした姿を描く。宮城県教育委員会教育長新人賞は梅森さえ子《予感》が受賞。時計、靴、バラといった小道具が散在する画面は、やや説明的な感があるが楽しめる。

 ところで、梅森は同じ賞を昨年も受けているが、いいのだろうか。他の賞ならともかく、新人賞を同じ作家が二度受賞するとは、何とも不思議な現象である。

 賞候補作では高瀬滋子《待つ》が昨年のショッキングな画面とは打って変わったほほえましいキッチン風景を見せてくれた。

 総じて、会場は安定した力量の作品が並んでいるが、やや変化に乏しい。以前「粒ぞろい」と書いた覚えがあるが、それは河北展との比較での評価であって、会員にとって作品の質の向上と作風の深化は永遠の課題であるはずだ。新聞評にあるように、県芸術協会員のみによる出品という本展の規定を再考する時期に来ているのかもしれない。指定席に安住する限り、会員の高齢化と沈滞は相乗的に進行するだろう。

 

 美術館の企画としては。宮城県美術館の「日展百年」は、日本の近代美術の歴史を語る好企画であった。

 個展では、「悠久の光彩・櫻田勝子日本画展」が大衡村ふるさと美術館で開かれ、《彩(いろどり)の季(とき)》など十六点が展示された。(~七月二十五日)

 最後に、仙台市内で日本画を含む個展や企画展を開催してきた晩翠画廊が十周年記念展を開催したことも記録に留めておきたい。天笠慶子、大泉佐代子、小野恬、金沢光策、桑原武史、櫻田勝子、宮沢早苗といった作家の作品をまとめて見ることができたのはこの画廊のおかげであった。

2006年 宮城県日本画のうごき

                               井上 研一郎

 

 2006年の美術界を揺るがした最大の事件は、いわゆる「和田義彦事件」であった。芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した和田義彦の受賞対象作品がイタリアのある画家の作品からの盗作である疑いが強まり、授賞が取り消しとなった。私は和田の作品もイタリアの画家の作品も見ていないが、報道された画像を見る限り、盗作または無断借用としか言えないように思える。報道された本人の「弁明」もほとんど意味不明である。

 授賞取り消しに反対する声は、私の知る限り全く聞かれなかったが、主催者の文化庁や作品を推挙した選考委員の責任問題になると意見が分かれた。当事者たちは「弁明」に終始し、評論家たちのコメントは「明日は我が身」と考えたのか歯切れが悪かった。

 しかし、同じような問題は身近なところにも起こりうる。昨年、私はこの欄で「宮城県芸術祭絵画展」の会場で見たことについて次のように書いた。

 

 「…この会場で高名な作家の代表作をほとんどそのまま画面に取り込んだ作品が見られた。作者の意図の推察に苦しむが、仮にその作家へのオマージュとして制作したとしても、あまりにも安易な「引用」は許されるべきではないだろう。」

 

 県の芸術祭絵画展は、県芸術協会の会員を初めとするそれなりのレベルの作品が並ぶ場である。そこに、某大家の作品のコピーが画面の半分近くを占めるような作品がまじってよいものだろうか。作家個人のレベルを超えた主催者全体のモラルが問われる問題である。和田事件は決して対岸の火事ではないことを関係者は銘記すべきだろう。 

 

 第70回河北美術展(4月28日~5月10日・仙台・藤崎本館)の日本画の部入賞者とその作品は次のとおりであった。(審査員・那波多目功一、川崎春彦)

 河北賞 宮澤早苗《残照》

 宮城県知事賞 阿部悦子《夕面(ゆふも)》

 一力次郎賞 千葉勝子《夏の詩》

 東北放送賞 阿部志宇《秋彩》

 宮城県芸術協会賞 真下みや子《収穫の時》

 新人奨励賞 針生卓治《季蹟》

 東北電力賞 梅森さえ子《蘇る(よみがえる)》 

 

 賞候補として石川ちづ江、紺野トシ子、深村宝丘、諸星美喜、吉田輝、渡辺房枝の各氏の名が挙がった。

 宮澤の《残照》は、昨年の作とは打って変わって強烈な赤と茶色で立ち枯れのヒマワリを縦長の画面いっぱいに描く。朱から臙脂、茶色まで「多彩な赤」と金箔を効果的に用いた意欲作である。阿部悦子はさまざまなイメージの断片を重ね合わせ、さらにそれを人物像と組み合わせた作品に毎回取り組んでいるが、今年の作は水しぶきのような白い斑点とそれを避けようとするかのような女性の不安げなポーズが印象に残る。タイトルと重ね合わせると得体の知れぬ不安なイメージが浮かび上がる。千葉は廃墟風のコンクリート建造物とヒマワリを組み合わせた独特のモチーフを描き続けているが、情緒的なタイトルは似合わない。阿部志宇は霧の立ちこめた晩秋の落葉樹林を丁寧に描く。昨年の作に比べ画面の奥行きが生まれ、リアルな空間表現になったが、枝や葉の表現がそれと釣り合っていない。真下のモチーフは昨年と全く同じ大豆の乾燥風景だが、「再現」から「表現」への飛躍が見られ、今後の展開が期待される。針生はゾウという動物の存在感をどう表すかで苦悶したことだろう。降る雪の中に立たせることで静かな意志が、紗を箔押しのように使うことで素朴な性格が、見る者に伝わって来る。所々でモチーフを直線的に断ち切るなど、画面がデザイン的になるのを防ごうとしているが、模索の最中のようにも見える。梅森は青を基調とした画面にアザミの切枝を白抜きで押し花風に並べる。所々でモチーフを直線的に断ち切るなど、画面がデザイン的になるのを防ごうとしているが、模索の最中のようにも見える。

 受賞作以外では、紺野トシ子《願いをこめて》は飾り付けをする人物を無彩色に描くことで七夕飾りを引き立たせた発想を買う。奥山和子《望郷》は、故郷に想いを馳せる二人の少女を濃厚な色調で画面いっぱいに描くが、以前見られた大胆な構図は影を潜めた。石川ちづ江《奥山へ…》は巨木を横長の画面に描くという困難な課題に挑戦しているが、画面に奥行きが出た反面、類型的な小枝の形などに不統一が見られる。深村宝丘《ひととき》は母娘らしい二人の女性を描いただけだが、人体の周辺の隅取りが強すぎてせっかくの余白を無意味にしている。及川聡子《Candy》は技法的には手堅いが、キューピーやミッキーマウスなどのキャラクターを子どもたちの姿と重ね合わせた意図がいまひとつ鮮明でなく、印象を散漫にしてしまった。 

 

 第43回宮城県芸術祭絵画展(9月29日~10月11日・せんだいメディアテーク)には、66点の日本画が出品された。

受賞作は次のとおり。

 宮城県芸術祭賞 《氷暈》及川聡子

 宮城県知事賞 《Peace》菅井粂子

 仙台市長賞 《彼らの愛》遠州千秋

 河北新報社賞 《Eternal Season 7(若き後継者)》佐々木啓子

 成瀬記念美術館賞 《幻》松谷睦子

 宮城県教育委員会教育長新人賞 《楽しい時》梅森さえ子

 このほか、賞候補作として金子利宇《残された果実》、福田眞津子《或る家族》、三浦孝《夏の終わりに》が選ばれた。

 及川は、1年ほど前から河北展の出品作とはまるで違う独自なモチーフとスタイルの作品を描き始めた。冬の朝、畦で見かけた薄氷の下の雑草に着目して、それを真上から思い切り拡大してみせるという手法である。ミクロの視野をマクロに再現する過程で見えてくるものがあるに違いない。

 遠州が近年追求している画面は、現実のイメージを解体してそれを遠い記憶と重ね合わせる作業と言えばよいだろうか。これらの作品をまとめて見る機会があってもよい。 

 

 8月には「宮城日展会展」が開かれ、日本画部門には7名の会員が出品した。

 安住小百合《未来へ》

 天笠慶子《遠い夏の日》

 市川信昭《リストラ(ありがとう・さようなら)》

 佐々木麻里子《夏の日》

 佐藤朱希《咲野うるわし》

 七宮牧子《刻》

 能島和明《くれる》

 能島千明《操る男》

 安住は金地に円窓をくり抜き、三人の少女と蝶と白百合を組み合わせ、和洋渾然としたイメージを端正な手法で表現するが、まとまりすぎたきらいがある。天笠は夏の夜に蛍を囲んで眺める五人の少女たちを描く。蛍はおそらく両手を揃えて広げたひとりの掌の上に止まっているのだろう。その指が人形のように硬い感じがするのが残念だ。能島千明が描く人形遣いは、背後に描かれた人形らしい人形ではなく、大きさも顔つきも本物そっくりの「人形」を操ろうとしている、その不気味な存在感が狙い目か。(8月25日~30日・せんだいメディアテーク) 

 

 この1年はこれまでになく職場の業務が重なり、月に数度の徹夜も珍しくなかった。個展、グループ展を見て回る余裕がほとんどなく、十分な報告はあきらめざるを得ない。

「第2回大泉佐代子日本画展」(1月4日~15日・晩翠画廊)

「飯川竹彦&竹彩会・絹に描く日本画展」(3月28日~4月9日・丸森町齋理屋敷)

「櫻田勝子日本画教室『彩輝塾』第三回作品展」(7月25日~30日・東北電力グリーンプラザ)

「斎藤艸雨―墨による表現展」(9月22日~27日・せんだいメディアテーク)

「桑原武史日本画展」(9月19日~24日・晩翠画廊)

 桑原は山形で活躍する院展の作家。しっかりした技術力と対象に迫る真摯な態度が見て取れる。東北にいてこれだけの水準を保ち続けることの難しさは本人も承知と思う。健闘を祈りたい。

 美術館・博物館の企画展は、自治体の財政悪化にともなう指定管理者制度のスタートによって、まともな打撃を受けている。所蔵品展の見せ方を工夫したり、味付けを変えたりするだけでは済まなくなった。その中で、仙台市博物館の主催した「大江戸動物図館―子・丑・寅…十二支から人魚・河童まで―」は、動物を描いた江戸絵画を総覧する好企画であった。カッパや龍の「ミイラ」まで登場するオマケもついて話題づくりに一役買った。(9月22日~11月5日)

 まずは会場に来てもらうことだ。社会福祉法人共生福祉会が経営する福島美術館も、魅力的なテーマとネーミングで企画展を開催した。「『絵の中のヒミツ』~ちいさいモノみつけた!~」9月15日~11月23日)

 

 伝統をふまえつつ、時代を先取りするような新しさを持った意欲的な日本画作品が生まれることを切に希望する。(文中敬称略)

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 この文章は、『宮城県芸術年鑑 平成18年度』に掲載した「各ジャンルの動向・日本画」を、 ブログ掲載にあたり一部書き換えたものです。